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カイザリヤ(3) 私のようになってくださること

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41. カイザリヤ(3) 「私のようになってくださることです」

【聖書箇所】 26章1節~32節

ベレーシート

  • 26章は使徒パウロがアグリッパ王、およびその関係者たちの前で弁明をする場面です。自分がなんのために捕らえられ、裁判を受けているかについてパウロは明確に語っただけでなく、聞いている人々に対して悔い改めて、信仰の決心をするように促しています。その最後の詰めが29節の「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」という部分です。ここにパウロの宣教の情熱を感じさせます。

1. パウロがユダヤ人によって訴えられている内容とは

  • 弁明を許されたパウロは、自分がいったい何のことで訴えられ、裁判を受けているのかを以下のようにいろいろな表現で語っています。

    (1)
    「神が私たち(ユダヤ人)の先祖たちに約束されたものを待ち望んでいること」について〔6節〕
    (2)
    「約束のものを得たいと望んでいる、その希望のために」〔7節〕
    (3)
    「預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと」のゆえに〔22節)

  • ここにある「約束されたもの」「その希望」「後に起こるはずと語ったこと」とあるように、表現は異なりますが、これらはすべて「メシア」にかかわる事柄であり、メシアによって実現することです。そしてそのメシアこそ、ユダヤの指導者たちが十字架にかけたにもかかわらず、復活した「ナザレのイエス」であるということです。このことがユダヤの指導者たちをしてパウロを法的に死に定めようとしていることなのです。
  • 死からよみがえられたイエスが、エマオの途上にある二人の弟子たちに対して、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリスト(メシア)は、必ず、そのような苦しみを受けてから、彼の栄光に入るはずではなかっのですか。」と言いながら、聖書(旧約)全体の中で、メシアについて書かれている事柄を解き明かされました。パウロの宣教の中心も、預言者たちが語ったことに基づきながら、「ナザレのイエスこそ真のメシアである」ということを多くの人々に宣べ伝えたのです。そして「悔い改めて、神に立ち返ること」を宣べ伝えて来たのです。しかしそのためにパウロはユダヤ当局によって捕えられ、訴えられて、裁判を受けていると弁明しています。

2. 弁明の中にある「天からの啓示」

  • パウロの弁明の中でパウロの個人的なあかしが語られています(9~18節)。使徒の働きではパウロの個人的なあかしーつまり、迫害してきたイエスとの出会いーが三回記されています(第一回目は9章、第二回目は22章)。これらの三回のあかしは少しずつ異なっていますが、第三回目の特徴は、パウロがイエスから、直接、彼の大いなる使命について語られたという点です。

    【新改訳改訂第3版】使徒の働き26章16~18節
    16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
    17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
    18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

  • イエスによって捕えられたパウロの使命(パウロはこれを「天からの啓示」と言っています)は、以下のことです(18節)。

    (1) ユダヤ人と異邦人の霊的な目を開かせること
    (2) サタンの支配(暗闇)から神の支配(光)に立ち返らせること
    (3) イエスをメシアと信じる信仰によって、罪の赦しと御国を受け継がせること

  • 上記にある三つの使命はすべて一つの事柄です。この一つの事柄のためにパウロは、現在に至るまで、「堅く立って」「小さい者にも大きい者にも」あかしをしているのだと語っています。

3. 弁明の機会をとらえて信仰の決断を迫るパウロ

  • 「あかし」とは「ナザレのイエスこそキリスト(メシア)である」ということです。この事実こそ、パウロのみならず、初代教会が伝えたところの「福音」だったのです。しかもそのキリストは「苦しみを受けること」、および「死者の中から復活すること」がその「しるし」であっため、パウロの弁明を聞いていたローマの総督フェストは大声で「パウロ。おまえは気が狂っている」叫びました。
  • 真理に心を堅く閉ざしている者にとっては、真理のことばが熱心に語られれば語られるほど、より心が閉ざされるようです。フェストが叫んだ一言、「気が狂っている」というのもその証拠です。特に、復活の事実は気違い沙汰としてか思えないのです。
  • しかし、パウロはそうした妨害にもかかわらず、自分に与えられた使命を果たそうとします。パウロはアグリッパ王に対して、「あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」というくだりはとても面白いアプローチです。もし預言者を信じているなら、当然のこととして預言者はメシアの受難と復活を預言しているのですから、イエスをメシアとして受け入れられるはずですと信仰の促しを迫っているです。実に巧妙な促しに気づいたアグリッパは、パウロに対して「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言ったほどでした。

4. 確信を持って生きることの大切さ

  • ことば数が少なかろうと多かろうと、あるいは時間が短かろうと長かろうと、パウロの宣教の情熱のキーワードは、「私のようになってくださること」であり、それこそがパウロの唯一の願いでした。このような確信をもって主に仕えられる人は幸いです。
  • ある人はこのようにパウロのことばを聞いて「なんと傲慢な」と思います。こんな確信ぶっていうところが私は嫌いだと。しかしそうした反応の裏には、自分の中にそうした確信を持って生きるものが何もないというコンプレックスから来ているかもしれません。
  • 26章の後半(19節、22節、25節、26節)では、「」という言葉が多く見られます。そして29節では「が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょうの話を聞いている人がみな、この鎖は別として、のようになってくださることです」につながっています。
  • パウロは愛弟子であるテモテに対して、確信を持って「私のようになってください」と言えるような生き方ができる秘訣を書き送っています。それは決して一朝一夕にして培われるものではなく、常に「築き上げ」(現在形)続けることが不可欠です。

「まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」(Ⅰテモテ6:19)



「築き上げる」と訳された原語は「アポセーソーリゾー」(άποθησαυρίζω)でここにしか使われていない言葉です。未来のために備えておく、蓄えておくという意味です。文脈としては金銭や富に望みを置かず、むしろ神に望みをおいて、永遠に価値のある事柄の基礎をしっかりと築くことが命じられています。


2013.10.17


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