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キリストの地上再臨の有様とその目的

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4. キリストの地上再臨の有様とその目的

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「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(ヨハネの黙示録1:7)


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  • これまで三回にわたって「キリストの空中再臨と教会の携挙」について学びました。キリストの再臨は、「空中再臨」と「地上再臨」があるということです。空中再臨はなんの前ぶれもなく、キリストが天から花婿として花嫁なる教会を迎えるために来られます。そのとき教会は一挙に引き上げられ、花婿なるキリストと花嫁なる教会は空中で会い、婚姻をして、天の父の住まいでハネムーンを過ごします。その間、地上では七年間におよぶ反キリストの支配による患難時代があります。それはかつて誰も経験したことのないほどの恐ろしい苦難の時です。しかし主は、地上にいる神の民(イスラエルの民―ユダヤ人)を、反キリストの軍隊から救うためにこの地上に来られます。そのときがキリストの地上再臨です。そのときキリストは一人で来られるのではありません。ゼカリヤ書14章5節に預言されているように、「すべての聖徒たちも主とともに来る」のです。
  • 今回は、このキリストの地上再臨のことについて学びます。キリストの地上再臨については、空中再臨以上に、聖書の多くの箇所に記されていますが、その時はいったいどのような姿で再臨されるのか。またその目的とはいったい何なのか。そうしたことを、今回、共に学びたいと思います。地上再臨の前にはどんな前兆があるのか、どんな出来事が起こるのかということについては、次回で触れたいと思います。
  • 大雑把な形でキリストの地上再臨の前後の出来事を見てみたいと思います。それは以下の図をご覧ください。

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  • 図をご覧いただくと分かるように、中央の位置にイェシュアの十字架の死と復活の出来事があります。そして復活されたイエスが天に帰られた後に、約束の御霊が降り注いで教会が誕生します。私たちはその時代の中に生きているわけです。「教会時代」は旧約時代の人々にとっては「奥義」でした。つまり、旧約の預言者たちには誰にも啓示されなかったのです。その「奥義」は使徒パウロによって明らかにされました。その「教会時代」もやがて終わりを迎える時が来ます。しかしそれはあまりにも突然で、教会は一瞬にして天に引き上げられます。それがキリストの空中再臨です。これまでも、そのことについて三回にわたって学んできました。なぜ、教会が携挙されるのかと言えば、教会が反キリストの支配による患難から守られるためです。この反キリストはイスラエルを騙して自らを真のメシアだと思わせます。最初は和平関係を樹立することで、イスラエルの民(ユダヤ人)は、エバがサタンに騙されたように簡単に騙されてしまいます。やがてこの反キリストはその本性を現わします。そのため、この時点で信仰を持つことはほぼ困難となります。七年間の患難時代では多くのことが起こります。その出来事はすでに「ヨハネの黙示録」によって明示されています。この患難時代に起こる多くの事は、日を改めて学びたいと思います。

1. キリストの地上再臨の有様

  • キリストの地上再臨の前後にはいろいろなことが起こりますが、少しずつ、学んでいきたいと思います。今回取り上げることは、第一に、イェシュアはどのような姿で再臨されるのか、その有様について学びたいと思います。第二は、キリストの地上再臨の目的です。

(1) キリストは見える姿で地上に来られます

  • イェシュアは、終わりの日に起こることとして、弟子たちに「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(マタイ24:30)と言われました。またイェシュアは不当な裁判で自分を「あなたは神の子キリストか」と尋問する大祭司に対して、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)と言われました。。イェシュアの言われた「人の子」とは、旧約におけるメシア的称号です。
  • マタイ24章27節にも「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」とあるように、地上再臨されるキリストはだれの目にも明らかな形で、しかも見える姿で来られます。それゆえヨハネはその黙示録の中でその方を「見よ」と喚起しています。
    「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」(黙示録1:7)

(2) キリストは雲に乗り、雲と共に地上に来られます

  • イェシュアは昇天されるとき、弟子たちが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました。弟子たちが天を見つめていると、白い衣を着たふたり(御使い)が彼らのそばに立ってこう言いました。
    「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と。
  • ここでの「見たときと同じ有様」とは、雲に包まれたイエスの有様であり、その有様で「またおいでになる」ということです。地上再臨のキリストはだれの目にも見えるのですが、空中再臨による携挙の時には、一瞬のうちに携挙された者だけが、空中の雲の中で主を見ることになります(Ⅰテサロニケ4:17)。ただ、「雲に包まれている」姿は、空中再臨の時であろうと、地上再臨の時であろうと共通しているのです。
  • ヨハネの黙示録1章7節には、「見よ。彼が、雲に乗って来られる。」とあります。イエス・キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、新約聖書では7箇所に使われています。マタイ24:30、26:64/マルコ13:26、14:62/ルカ21:27/黙示録1:7、14:14(ここだけは「御使いが雲に乗る」)。
  • 「雲に乗る」とはどういうことなのでしょうか。その前に、そこに使われている語彙に注目したいと思います。「雲」という名詞の前にある前置詞の原語を調べてみると、以下のようなことがわかります。
    ①マタイ24章30節・・「エピ」(έπί)。
    その並行記事のマルコ13:26とルカ21:27は・・「エン」(έν)
    ②マタイ26章64節・・「エピ」(έπί)。
    その並行記事であるマルコ14章26節では・・「メタ」(μετά)
    ③黙示録1章7節・・・「メタ」(μετά)。

前置詞の

「エピ」(έπί )は、本来、「~の上に座して」という意味。
「エン」(έν)は、本来、「~の中に、~に包まれて」という意味。
「メタ」(μετά)は、本来、「~と共に、~を伴う」という意味。

  • 上に掲げた聖書箇所では、前置詞がみな異なっているにもかかわらず、新改訳、新共同訳、口語訳が、一様に「雲に乗って」と訳しています。キリストの再臨のイメージは、このようにみな「雲に乗って来られる」というイメージで一致して翻訳されているのは不思議です。「雲に乗って」というと、どうしても孫悟空のイメージです。しかし、「雲の上に座して」「雲の中に」「雲に包まれて」「雲と共に」「雲を伴って」というイメージは、「雲に乗って」というイメージよりは、神の栄光に包まれてというイメージになります。なぜ、一様に「雲に乗って」と訳しているのでしょうか。その理由の一つに、ここに登場する「雲」はみな複数形なのです。ただし、ルカの場合は複数形を使っていません。
  • 新約聖書では「雲」(ギリシア語では「ネフレー」νεφλη)という語彙が25回使われていますが、複数形で使われているのは、以下の7回です。マタイ 24:30、26:64/マルコ 13:26、14:62/Ⅰテサロニケ 4:17/ユダ1:12/ヨハネ黙示録 1:7。後の18回はすべて単数形です。「雲」が複数形で使われる時には決まって(ルカ21:27を除く。ルカだけはなぜか「雲」をすべて単数形で使っています)、キリストの再臨(空中も地上も同様に)のことに関係しているということです。「雲」を単数形と複数形を明確に区別して使い分けているのは、マタイとマルコ、そして使徒パウロとヨハネです。つまり、旧約の主のさばきを意味する「主の日」と関係する「雲」は、すべて複数形で使われているということです。
  • 「雲」ということばにこだわるのは、それなりの理由があります。というのも、旧約では「雲」は神の臨在のしるしだからです。エジプトから救い出されたイスラエルの民にエジプト軍が迫った時も、幕屋を建てた時にも、荒野を旅する時にも、昼は雲の柱が、夜は火の柱が彼らを導きました。「雲の柱」も「火の柱」も、「シャハイナ・グローリー」という神の特別な臨在のしるしなのです。ソロモンが神殿を奉献した時には、主の宮が栄光の雲(密雲)で満ちたために、宮で仕える祭司たちは立っていられなかったほどです。このように、雲は「神の栄光の顕現」を意味しています。
  • 黙示録19章11節~16節におけるキリストの地上再臨の光景では、キリストは血染めの衣を着て、白い馬に乗り、真っ白なきよい麻布を来た天にある軍勢がやはり白い馬に乗って付き従っています。ここには「雲」の記述はありません。このようなことを考えていくならば、「雲に乗って」とはだれもがそれと分かる、きわめて特別な栄光に満ちた神の臨在の光景を意味しているのかも知れません。それは、ある者たちにとっては救いをもたらす希望の光景であり、ある者たちにとってはさばきをもたらす恐ろしい光景に映るはずです。

(3) キリストは天の軍勢(すなわちキリストの花嫁)とともに地上に来られます

  • 黙示録19章14節の「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」に、再度、目を留めたいと思います。この節にある「天にある軍勢」についての解釈です。この「天にある軍勢」は、真っ白な、きよい麻布を来て、白い馬に乗って、彼につき従っています。ここに記されている「彼」とは再臨されるキリストのことです。黙示録の19章11~16節には、キリストが以下のことばで表現されています。

①「忠実また真実」と呼ばれる方 
② 義をもってさばきをし、戦いをされる方
③ 目は燃える炎、頭には多くの冠(権威者としての冠) 
④ 血染めの衣を着た方
⑤「神のことば」という名で呼ばれる方 
⑥ 口には諸国の民を打つための鋭い剣を持つ方
⑦ 鉄の杖をもって支配する方  
⑧「王の王、主の主」という名を持つ方

  • だれもこの方に太刀打ちできる者はいません。地上のエルサレムに集結する反キリストの軍勢は、この天の軍勢を率いる方によって完全に敗北させられるのです。これが最終戦争と呼ばれる「ハルマゲドンの戦い」です。この戦いに参加する「天にある軍勢」とは何を指しているのでしょうか。それは黙示録17章14節にあるように、敵と戦う「彼(主の主、王の王である勝利の小羊)とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者」のことです。つまり、これらは「キリストの花嫁」である教会のことを意味しています。
  • キリストが地上に再臨されるときは、ご自身の花嫁をも連れて来られるのです。地上では、この後に「千年王国」が実現しますから、花嫁が天で、千年の間、花婿が帰ってくるのを待っているなどとは到底考えられません。また、主に仕える御使いたちも同様に、当然、つき従って来ると考えられます。

2. キリストの地上再臨の目的

  • これまで、キリストが地上再臨されるときの有様、特に、「雲に乗って来られること」と「天の軍勢を従えて来られること」について学んできましたが、次は「キリストの地上再臨」についての第二のポイント、キリストの地上再臨の目的です。すでに、このことについてもこれまでの説明の中に含まれていたのですが、もう一度、明確にするならば、再臨の目的を二つに絞ってお話しします。一つは、キリストが神の敵を鉄の杖をもって滅ぼし、神の国、天の御国、御国、キングダムをこの地上に打ち建てることです。もう一つは、この地上において、イスラエルの民も民族的に加わっての「小羊の婚宴」、ならびに、過越の祝いである大晩餐会が催されるということです。まず、第一の目的からお話ししたいと思います。

(1) 神に逆らう反キリストの支配を打ち破るため

  • このことのために、御子イエス(黙示録では「小羊」(単なる子羊ではなく、ギリシア語では「アルニオン」と呼ばれる勝利の小羊)が、サタンのひとり子、獣と言われる「反キリスト」の軍勢を打ち滅ぼすために天から「すべての聖徒たち」を従えて地上(エルサレムの東にあるオリーブ山)に来られるのです。
  • 反キリストとの戦いは、実は、詩篇2篇にすでに預言されています。神の歴史のマスタープランを知って読むと、大変良く理解できるのですが、それを知らずに読むと、まったくもってチンプンカンプンです。

1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、【主】と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
4 天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。
5 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
6「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
7「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。
『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
8わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
9あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」

  • 黙示録の19章11~16節のなかに、「鉄の杖をもって支配する方」という表現が出てきましたが、詩篇2篇9節にもそのことが預言されています。いつの時代にも、そして今日においても、神に敵対する勢力は存在します。バベルの塔を建てようとしたときも、またイエスの十字架につけたときも、そしてやがて、キリストの再臨前にすべての国民が神の民イスラエル(ユダヤ人)を攻撃するときも、地上の支配者たちは「主と、主に油注がれた者とに逆らう」のです。
  • 6節で「わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」とあります。「わたし」とは、神のことであり、「わたしの王」とは神の代理者としての王のことです。旧約時代にはダビデ、ソロモンなど多くの王が立てられましたが、その多くの王が神の代理者としてのあり方に失敗しました。そこで、神は特別に「わたしの子」を立てて(7節)、神の真の代理者としての王を立てられました。それが御子であり、神はやがて御子によってご自身が御父であることをあかしされます。詩篇2篇はそのことを預言しています。
  • それゆえ、この第2篇は「メシア詩篇」と呼ばれます。御父はこの御子に敵の審判をゆだねられます。御子は「鉄の杖(曲がることのない権威の杖)」で、敵を打ち砕き、全世界を統治されます。その日は、刻々と近づいています。勝利はすべて十字架と復活のみわざを通してなされましたが、この世において、それが目に見える形で実現するのはまだです。シオンに立てられたメシアが、勝利をもって諸国を治め、世界を支配するという枠組みは、キリストの再臨によってもたらされる千年王国において実現します。そしてその実現が確実に迫っているのです。それゆえ、神は、全世界のこの世の支配者たちに降伏を呼びかけ、御子に対する礼拝を呼びかけている。これが詩篇2篇後半なのです。
  • 詩篇2篇10~12節にはこうあります。

    10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
    11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ喜べ。
    12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。

  • 「悟れ」(目を覚ませ)、「慎め」(教えを受けよ)、「恐れつつ主に仕え、おののきつつ喜べ」と呼びかけます。昔、中近東では、支配者に対する忠誠と従順を表わす行為として足に口づけしたようです。「御子に口づけせよ」とは、御子を礼拝するようにとの招きです。それは、主の怒りから免れるために、自らの道で自滅しないように、神の代理者である御子を礼拝することが呼びかけられているのです。

(2) 千年王国において催される、主の真実を記念する食卓(晩餐会)のため

  • キリストの地上再臨の目的の第二は、神の真実を記念する主の食卓(晩餐会)が催されるということです。地上で小羊の婚宴が催されるとき、そこに患難時代を通過して救われたイスラエルの民たちが加わるのです。イエスがかつて最後の晩餐の席で語られたことば、「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。・・あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(ルカ22:18)とは、キリストの地上再臨によって、再び、主の食卓を囲むようになることを意味していたのです。
  • 御使いはヨハネに、「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言いました(黙示録19:9)が、「この婚宴に招かれた者」とは、患難時代に、あるいは、キリストの地上再臨の直前に、イエスをメシアとして信じたイスラエルの民のことです。彼らも千年王国においては、花嫁と共に主の食卓(晩餐会)にあずかるようになるのです。「これは神の真実のことばです」とは、救いの長い歴史の中で常に逆らい通しだったイスラエルの民に対して貫かれた神の真実のことばであるという意味で、千年王国における晩餐会は、神の真実の記念をあらわす象徴的な食卓なのです。また、ここにパウロのいう「新しいひとりの人」(エペソ2:15)の完成があるとも言えるのです。


2013.11.17


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