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ゲツセマネで祈るイェシュア


113. ゲツセマネで祈るイェシュア

【聖書箇所】マタイの福音書26章36~46節

ベレーシート

●これまでイェシュアは、三度、繰り返して、エルサレムにおいて、自分が「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」を弟子たちに語ってきました。

①【新改訳2017】マタイの福音書16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
②【新改訳2017】マタイの福音書 17章22~23節
22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」
③【新改訳2017】マタイの福音書 20章18~19節
18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

●ところが、ゲツセマネにおいてそのことが起こりつつある直前で、イェシュアは「悲しみもだえ始められた」のです。そして、人々に引き渡され、殺されることが御父のみこころを行うことなのかどうかを祈っているのです。このためにイェシュアは三度祈っています。ここに至って、イェシュアが一見ひるんでいるように見えます。そのように見えるのは、神のみこころを行うということがどういうことかを、私たちが知らないからです。そのことを念頭に置きながら、今日のテキストから学んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書26章36~46節
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」


1. 悲しみもだえ始められたイェシュア

画像の説明

●イェシュアはアッパールームを出て、弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来たとあります。ここでまず着目したいことは、イェシュアがなぜゲツセマネというところで祈らなければならなかったのかということです。ルカによれば、そこは祈りのために訪れていた「いつもの場所」(22:40)であったと記しています。しかしそれは神の必然性を説明してはいません。もっと深い意味があるはずです。これについては、「ゲツセマネ」ということばの中に隠されています。

●「ゲツセマネ」(Γεθσημανί)という語彙は、「搾油機」を意味するヘブル語の「ガット」(גַּת)と「オリーブ油」を意味する「シェメン」(שֶׁמֶן)の複数形「シェマーニーム」(שְׁמָנִים)の合成語を音訳したものです。オリーブの実は搾ることで用いられますが、それは石の重さが次第に重くなっていくことで、第一から第四段階まであるようです。この「搾り」がイェシュアの祈りと重ねられているのです。特に、ルカが記している「汗が血のしずくのように落ちた」とは、最後の段階に搾り出される油にたとえられているように思われます。

●ゲツセマネでのイェシュアの祈りは「三度」に渡っています。祈るたびに、重石の重さが加わり、最後には完全に搾り取られることをイメージさせます。ゲツセマネで祈るイェシュアを描いた絵を目にすることがあります。その多くが顔を上に向けて手を組んで祈る姿です。しかし、オリーブの実が搾られるイメージは、上を向いて祈る姿ではなく、次第に地に押し付けられていくイメージです。メル・ギブソンが監督した映画『パッション』では、ゲツセマネの園における祈りから始まっています。それは実際の「ゲツセマネの園」で撮影されたようです。映画『パッション』でも、最初は上を向いて祈るイェシュアの姿ですが、最後は重石に押さえつけられて地にひれ伏して(うつ伏せて)祈る姿が印象的です。まさにゲツセマネが象徴するイェシュアの祈りを見事に描いています。

●イェシュアはこのゲツセマネに、弟子たちの中からペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたとあります。ゼベダイの子二人とはヤコブとヨハネです。この三人はヘルモン山でのイェシュアの変貌の際にも立ち会った人たちです。ところが今回、イェシュアが「悲しみもだえ始められた」にもかかわらず、彼らは何と眠りこけてしまったのです。しかしこのことにも重大なメッセージが隠されています。もし、この時、弟子たちが誘惑に陥らないで、眠らずに目を覚まして熱心にイェシュアのために祈っていたとしたら、果たしてどうなったのでしょうか。これまで考えてもみなかったことですが、実は、祈れなかったことに意味があるのです。

●神のみこころには二つの面があります。第一の面は「定められた不可抗力的な神のみこころ」であり、もう一つの面は「望んでおられる神のみこころ」です。ゲツセマネは第一の面の例で、変えられることのない不可抗力的なみこころ、つまり、人間の祈りによって変えられるようなものではない、永遠の昔から定められた神のみこころが示されているのです。イェシュアが弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」と言いますが、彼らは眠気に襲われていました。「誘惑に陥らないように」とあるのは、そこにサタンが働いていたことが分かります。イェシュアはだれからの助けもなく、「神のみこころを行うこと」を決断しなければならなかったことを意味しているのです。それはイェシュアに与えられた杯でした。ここでの「杯」とは「十字架の死」を意味します。それは必ず起こるべく神が定められたもので、人間的な助力を何ら必要とはしない、不可抗力的な計画なのです。ですから、ゲツセマネにおいては、三人の弟子たちが最初から最後まで祈ることなく、眠っていたことがそのことをあかししているのです。

2. イェシュアの三度の祈り

●「三人」「三度」ということがここでは強調されています。この「三」とは「確認のしるし」を意味する「」です。ゲツセマネのイェシュアの祈りは、自分に与えられた、いわば「ゆずりの杯」です。これは詩篇16篇5節に預言されたイェシュアの受けるべき定められた分。つまりイェシュアだけに割り当てられた「ゴーラール」(גּוֹרָל)なのです。

●イェシュアがこの地に来られた(受肉の)際、「そのとき、私は申し上げました。『今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心にあります。』」(詩篇40:7~8)という預言のことばがあります。御子であるイェシュアが御父の「みこころを行うこと」のために来られたことを、私たちは多くの箇所で知ることができますが、ヨハネの福音書はその宝庫です。その中から少し見てみましょう。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書 5章19 節
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
②【新改訳2017】ヨハネの福音書 5章30 節
わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。
③【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章38 節
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。

●太字の中に記された「意志」「みこころ」「思い」は、すべて「セレーマ」(θέλημα)という語彙です。この語彙は「意欲」「熱意」「欲求」「望むこと」とも訳せます。それらが「肉」から出ているなら、たとえどんなにすばらしいものであったとしても、神のためには何の益ももたらしません。むしろ神にとって有害です。私たちはこの点で多くの失敗を犯しています。たとえみことばを用いていたとしても、自分がしたいことを支えてくれる根拠としたり、自分にとっても教会にとっても有益な目標となるスローガンとして用いたりしていることもあり得るのです。ましてやそのみことばを間違った意味で解釈している場合さえあるのです。このようにして、自分の思いを行うということは、肉によるものであり、罪なのです。神のみこころを正しく知るためには、みことばを正しく解釈し、肉を含ませないで行う必要があるのです。むしろ、真に「神のみこころを行う」ことは、肉ではできないことを知るべきなのです。人間的な熱意や、自分の望んでいることがしばしば神のみこころであると思い込んでしまう私たちの弱さがいつも付きまといます。肉で行ったものはすべて、神にとっては益がないのです。

●イェシュアがここで三度も祈ったということは、御父から受け継ぐべき自分の杯(=苦しんで死ぬこと)が、御父のみこころであるかどうかを確認する必要があったのです。使徒パウロはキリストのことを次のように記しています。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~8節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

●キリストは神の似姿であるにもかかわらず、それに固執することなく、完全にご自分を空しくされたというのは驚くべきことです。「空しく」とは「自分の思いを空にすること」です。このへりくだり(謙遜)のゆえに、イェシュアは御父の思いを語り、御父のすることをなすことができたのです。イェシュアの生涯において、もし何らかの利己的な思いや虚栄、人間的な称賛を求める思いが少しでもあったならば、それは「最初のアダム」から引き継いでいる肉であり、それを終結させることは不可能でした。「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」という祈りは、「最初のアダム」を終結させるために、イェシュア自身が肉を含まない「最後のアダム」となるための戦いだったのです。これが「ゲツセマネ」で祈られた祈りが意味するものであったのです。

●「最初のアダム」に属する私たちが「神のみこころ」を行うことは不可能です。もし可能だと思えるなら、その人はキリストの救いは要らないということを公に表明しているようなものです。御子イェシュアに対する御父のみこころは、肉を十字架につけることでした。それは苦しみを伴うことですが、苦しみそれ自体が問題ではありません。一般的に苦しんで栄誉のある死を遂げる者は数多く存在します。しかしそれが神の定めたことではなく、そこに何らかの自分の意思や人間的な評価を思っての苦しみや死だとしたなら、神のみこころを行うことにはなりません。なぜなら、それは肉によるものだからです。

●私たちが病気になったとき、一日も早く癒されるように祈ります。コロナ禍の状況が続く中で、一日も早くそれが収束するようにと祈ります。しかもそれが良いことだと思って祈ります。サタンもそうした良いことを用いて、人の意志の中に入り込みます。イェシュアが初めて弟子たちの前で受難と死について語った時、ペテロは何と言ったでしょうか。「そんなことがあってはなりません」と言いました。ペテロは良かれと思って言ったことばでしたが、これはサタンが彼の口を通して言わせたものでした。ですから、もし私たちが神のみこころを行いたいと思うなら、私たちが良いことだと思うことさえも警戒しなくてはならないのです。それほどに、「神のみこころを行う」ことにおいて私たちは失敗するのです。

●アブラハムもそうでした。「わたしはあなたの子孫を地のちりのようにならせる」と神は約束しましたが、その子孫が一向に生まれる気配がないということで、アブラムの妻サライの申し出によって、女奴隷ハガルによってイシュマエルを生みました。しかし神のみこころはあくまでもサライを通して与えられる子でなければならなかったのです。アブラハムは肉(人間的常識、肉の思い)の失敗を通して、神のみこころに従うことを学ばされて行ったのです。そしてその生涯の究極において、自分の子イサクを全焼のささげものとして神にささげることができたのです。この出来事は常識的には考えられませんが、「神のみこころを行う」「神のみこころに従う」とはどういうことかを教える出来事です。その出来事がイェシュアをあかしするものとなっているのです。

3. 自分の十字架を負って従うとは

【新改訳2017】マタイの福音書16章24~25節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

●イェシュアは弟子たちに「自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」と招いています。このイェシュアの招きを正しく理解するためには何が必要でしょうか。「自分の十字架を負う」とは「自分を捨てる」ということです。「自分を捨てる」とは、パウロ的な表現をするならば、「肉に従わないで」ということになります。肉の思いはーそれがたとえ人間的には良いことであったとしてもー神に敵対するのです。肉の思いは死であり、肉にある者は神を喜ばすことができないのです(ローマ8:6,8)。しかしイェシュアは、すでに「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)となられました。この御霊が私たちのうちに住んでおられるなら、肉の中ではなく、御霊の中にいるとパウロは言っています。とはいえ、そのことを言ったパウロでさえ、神のみこころを完全に知ることはできないことも述べています。それは一部分しか見えず、一部分しか知り得ません。それはまさに鏡にぼんやり映るものしか見ることができないのです。しかし、「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれ」、「その時には顔と顔を合わせて見ることになります」と言っています(Ⅰコリント13:10~12)。

●「完全なものが現れる」とはどういうことでしょうか。それは、「いのちを与える御霊となられた」方が、私たちを完全な「御霊のからだに変えてくださること」を意味します。このとき、私たちは完全に神のみこころを知り、それを完全に行うことができる者となるのです。私たちがそのことを信じて生きる期間はわずかな期間ですが、神の約束が果たされる期間は永遠なのです。ですから、神が望んでおられるみこころは、この信仰をしっかり持って歩むことです。

4. 「復活」の勝利の先取りのことば

●ゲツセマネで祈り終えられたイェシュアは、弟子たちに起こして、「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます」と言いました。実は、このときから実際の目に見える受難が始まるのですが、イェシュアにおいてはこれから起こる目に見える戦いがすでに終わっているのです。ですから、敢然とそこに向かって行けるのです。そのことを示す象徴的なことばが、46節の「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」というイェシュアのことばにある「立ちなさい」です。これは復活の先取りを示すことばです。イェシュアが繰り返して言ってきたことばー「人の子は三日目によみがえります。」にある「よみがえる」ということばが「エゲイロー」(ἐγείρω)なのです。

●ちなみに、マタイ26章46節の「立ちなさい」は「エゲイロー」(ἐγείρω)の現在命令形です。ヘブル語では「クーム」(קוּם)に相当します。これは復活用語です。役人の12歳の娘が死んだときに、イェシュアが言ったことばが「タリタ・クミ」(訳して言えば、「少女、起きなさい(ἐγείρω)」)でした(マルコ5:41)。「タリタ・クミ」の「クミ」(קוּמִי)がヘブル語の親戚であるアラム語の命令形です。

●「立ち上がる」という語彙は復活用語であると同時に「起き上がる」「目を覚ます」という意味があります。ですから、このことばは弟子たちにとっては覚醒用語とも言えます。眠りこけていた彼らの目が覚まされて、やがてイェシュアの復活とともに霊的覚醒がなされる預言的なことばとなっています。これは、キリストの復活のいのちがやがて弟子たちの中に働いて、彼らの目を覚まさせ、立ち上がらせることを預言しているのです。使徒パウロもイェシュアによって「立ち上がった」一人です。

【新改訳2017】使徒の働き 9章8節
サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。

●彼はこの三日間、ひとりの時を過ごしました。おそらくこれまでのことが走馬灯のように頭をよぎり、何が起こったのかを自分で整理するまでには時間が必要でした。三日後にアナニヤが遣わされて祈った時、彼の目からうろこのようなものが落ちて、目が開かれて「立ち上がった」のですが、パウロの霊的なよみがえりは、すでに「地面から立ち上がった」時に始まっていたのです。しかし自分の身に起こったことを整理して、自分が迫害して来たイェシュアがメシアであることを論証できるまでの霊的開眼には三日間が必要だったのです。この霊的開眼による論証はダマスコのユダヤ人たちを「うろたえさせた」とあります(9:22)。そして彼は、キリストの光の下で、啓示された神の救いの計画のすべてを思い巡らしていったのです。ここにも「確証のしるし」としての「」があります。

ベアハリート

●今回のイェシュアのゲツセマネの祈りが何を意味するかということを見てきました。最後に、マタイの福音書には、ルカが記しているような「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)という言葉はありません。これは主に対する信頼を歌った詩篇31篇5節のフレーズです。そこでは「私のたましいを御手にゆだねます」となっています。それだけに、マタイの「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」ということばには重みがあります。このことによって、イェシュアは私たちのために永遠の贖いをなしてくださったからです。イェシュアの死なくして、「最初のアダム」とそれがもたらした苦しみと死を終結させる道はなかったのです。

●「ゆだねる」ということは相手に対する最も深い信頼を意味します。「ゆだねる」と訳されたことば(「パラティセーミ」παρατίθημι)は、「~の前に置く」(set before)という意味です。俗なことばで言うならば、「まな板の上の鯉」のように、窮地に立たされても慌てることなく、自分の身を相手のなすがままにさせて、泰然としている状態です。そこから「ゆだねる」という意味が派生しています。ちなみに、 ヘブル語では「パーカド」(פָּקַד)が使われています。

●カトリックの司祭でプロテスタントにも大きな影響を与えている人に、ヘンリー・ナウエンという方がいます。その人がある本の中で、サーカスの空中ブランコのスターの演技についての秘訣を聞いた話を書いています。それによれば、「サーカスの観客は飛び手がスターだと思っていますが、本当のスターは受け手だということです。うまく飛べる秘訣は、飛び手は何もせず、全て受け手にまかせることなのです。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただ両手を広げて受け手がしっかり受けとめてくれると信じてジャンプすることです。空中ブランコで最悪なのは飛び手が受け手をつかもうとすることなのです。」 

●この言葉を聞いたナウエンは一つの啓示を受けます。「恐れなくてもよいのだ。私たちは神さまの子ども、神さまは暗闇に向かってジャンプするあなたを闇の向こうでしっかり受けとめてくださる。あなたは神さまの手をつかもうとしてはいけない。ただ両手を広げ信じる事。信じて飛べばよい。」のだと。

●神があなたを捕らえてくれることを信頼してジャンプすること、これが「ゆだねる」ということの意味なのです。「父よ、わが霊を御手にゆだねます」ということばの中に、全き謙遜、全き信頼、全き従順が告白されています。御父に対する揺るぎない信頼こそ、イェシュアの生涯に一貫したものでした。ここに「信仰の創始者であり、完成者であるイェシュア」の姿があります。このゆるぎない信頼のかかわりをヨハネは「永遠のいのち」と呼んでいるのです。永遠のいのちとは神と人とを結ぶいのちの絆です。イェシュアは「ゲツセマネの祈り」を通して、そのいのちの絆の栄光をあかしされたのです。

2021.9.19
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