****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

サウロを変えた天からの光

文字サイズ:

12. サウロを変えた天からの光

【聖書箇所】 9章1節~19節

ベレーシート

  • 9章は、主の弟子たちを対する迫害に意欲を燃やしていた青年サウロが、突然、照らした天からの光によって180度転換するという奇蹟的な回心の出来事を記した偉大な章です。この出来事はサウロにとっても、初代教会においても、また私たちにとっても画期的な、かつ意義深い出来事でした。彼を変えた「天からの光」がもたらした力は、まさに「福音の力」であり、倒れそうな困難の中においても立ち上らせていく「復活の力」そのものであることを印象づけます。

天からの光

1. 突然、サウロを照らした「天からの光」

  • サウロは(後の使徒パウロ)、ダマスコへの途上で突然「天からの光」に照らされました。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしはあなたがた迫害しているイエスである。立ち上がって、街へ入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」というナザレのイエスの声を聞いたのです。彼は「天からの光」によって目が(開いてはいますが)見えなくなりました。三日間、暗闇の中で、また一切の飲食も絶って、彼は自分に起こったことを考え巡らしていたことと思います。そして三日目にアナニヤというクリスチャンが彼を訪ねてきて、彼の頭に手をおいて祈った時、目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。「目が見えるようになった」というのは、単に肉体的視力が回復したことだけを意味しません。彼が迫害してきたイエスこそ、キリスト(メシア)であることを論証するほどに彼の霊の目が開かれて、すべてがキリストにあって整理し直されたのです。それはダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせるほどでした。何が彼をそのようにさせたのでしょうか。それが「天からの光」なのです。「天からの光」とは、神によってすでに定められた永遠のご計画を悟ることなのです。
  • サウロを照らした「天からの光」は神からの光であり、「シャハイナ・グローリー」という特別な光です。後に使徒パウロは、この光を「キリストの栄光にかかわる福音の光」だとし、「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」と述べています(Ⅱコリント4:4, 6)。「福音」と「キリストの御顔にある栄光の知識」とは同義です。つまり、天からの光なしに福音を理解することはできないということです。ですから「光」は「悟りを与える光」であり、神のご計画を悟って神との生きたかかわりを与える「いのちの光」なのです。
  • 創世記1章3節の「光よ。あれ。すると光ができた。」とありますが、そもそもすべての被造物はこの「光」の中に造られました。このときの「光」は光源としての光ではなく、創造者である神とすべての被造物とのかかわりにおける「神の変わることのないご計画としての光」でした。この神の創造の中点として、人間が神のかたちに似せて造られたのです。ところが人間は神に罪を犯し、その結果として光を失い、闇の支配の中に閉じ込められていました。しかし今や私たちはキリストを通して、闇から光へ、サタンの支配から神の支配への中に移されるという福音の中に生かされているのです。ですから、使徒パウロは「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5章8節)と語っています。
  • 「光の子」とは永遠の神のご計画を悟った者のことです。すべて主にある者たちは、例外なく、「天からの光」に照らされることなしには生きることはできません。神に敵対していたサウロ(後のパウロ)も、この「太陽よりも明るく輝く光」(使徒26:13)に照らされたことで初めて不変の真理に目が開かれました。

2. どんな困難な状況の中にあっても立ち上がらせていく「復活の力」

  • 「天からの光」はキリストにある御国の福音の力にあずからせるばかりでなく、主の召しを生き抜く力でもあります。サウロに対する神からの召命は「キリストの名(存在)を異邦人に伝えること」でした。そのために多くの苦しみを余儀なくされることまでも含むものでした。しかしその苦しみは、「キリストの復活の力」をあかしするためにどうしても必要なものでした。キリストの福音という宝がもろい土の器の中において、いかに測り知れない神の力であるかが明らかにされるためのものであったのです。
  • パウロがルステラというところで、ユダヤ人によって石打ちにされました。人々は彼が死んだものと思って町の外に引きづり出しました。ところがパウロは「立ち上がって」、再度、町に入って行きました(使徒14:19~20)。パウロが「立ち上がる」ことができたのは、彼のうちに働いていた「復活のいのち」があったからです。
  • パウロの回心の記事には「立ち上がり」についての語彙が多く出てきます。「地に倒れた」パウロに語るイエスのことばとパウロの行動の中にある「立ち上がる」「起き上がる」ということばは全部で9回使われています。微妙に原語が異なってはいますが、すべて「復活」を表わす用語です。復活は死んでからの事柄だけでなく、すでにキリストにあって私たちのうちに今も働いている力です。どのような状況の中にあっても、キリストの復活のいのちが私たちを立ち上がらせていくのです。
  • パウロの回心の記事は使徒の働きの中に三箇所ありますが、ここでは9章だけに限って復活用語をチェックしてみたいと思います。

3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって(アニステーミ)、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
8 サウロは地面から立ち上がった(エゲイロー)が、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「・・・・・・・」  
18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって(アニステーミ)、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。


(1)「アニステーミ」(9:6,11,18)

これは横になっているものを立たせるという意味で、横になっている棒を縦に立てることも「アニステーミ」ανιστημιです。しかもアオリストの命令形です。ギリシャ語でアオリスト時制が用いられる場合には、すべて、自ら、自発的、主体的な意味合いをもちます。したがって、ここでの「立つ」は、しっかりと立つ、堅く立つ、決意をもって立つ、ということを意味しています。使徒の22:10, 16、26:16も同様にアオリスト時制です。

福音書におけるイエスのミニストリーを見ると実に多くの「アニステーミ・ミニストリー」をやっているのです。
たとえば、
a. 会堂管理者ヤイロという人の一人娘が死んだとき、イエスはその家の子どものいる部屋に行って、子どもの手を取り、「タリタ・クミ」(訳して言えば「少女よ、起きなさい」という意味)と言うと、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めたのです(マルコ5:42)。まわりが驚いたのはいうまでもありません。

b. ペテロの姑がひどい熱で苦しんでいることを聞いたイエスは、彼女の枕もとで熱をしかりつけました。すると、熱はすぐに引いて、 彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めたのです(ルカ4:38~39)。

c. 中風の者に対しては、イエスが「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われたとき、彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰ったのです(ルカ5:24~25)。


(2) 「エゲイロー」(9:8)

「立ち上がる」と訳された「エゲイロー」έγείρωという動詞も、多くの場合、死んだ者がよみがえることに使われます。イエスがしばしば「わたしは死んだ後によみがえります」と預言しましたが、その「よみがえる」ということばが「エゲイロー」です。ところで、9章8節のサウロは地面から「立ち上がった」(9:8)という箇所がなぜ「アオリスト受動態」なのかという問題です。これが不可解です。本来、自分で起き上がるならば能動態で、人によって起こされるならば受動態と考えます。調べてみると、このなぞは「エゲイロー」έγείρωという動詞そのものがもっている性格のようです。この動詞は通常は他動詞として「~を起こす、(死から)生き返らす」という意味で使われますが、ここではアオリスト受動態で自動詞として「立ち上がった」という意味になるのです。


2013.3.14


a:8828 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional