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シナイにおける双務的契約(2)

17. シナイにおける双務的契約(2)

【聖書箇所】 20章1節~21節

はじめに

  • 神がイスラエルの民と結ぶ最も基本となる契約が、出20:1~17に「十戒」という形で神から示されています。ただし、「十戒」ということばは聖書の中にありません。十戒の特徴とは、

    (1) 直接に、神がその御声をもってイスラエルに賦与されたものであること(20:19, 20)
    (2) 直接に、神の指で石の板に書き記されたものであること(31:18/34:28)
    (3) 幕屋の至聖所の中にある「契約の箱」(神の臨在の象徴)の中に置かれたものであること

  • 「十戒」についての全体像

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  • しかし、ここでは「十戒」についてのすべてを瞑想することはできません。最も大切だと思えるところを抜き出してみたいと思います。

1. 私を熱愛する神(20:1~5)

  • 「十戒」は、神とイスラエルの民との愛と信頼のかかわりを規定するものです。序文と言われる20:2にこうあります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」と。原文では「アノーヒー(わたし)・アドナイ(主)・エロヘーハー(あなたの神)」とあり、「わたしは、あなたの神、主」で、「・・です」という動詞はありません。

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  • この宣言の後に関係代名詞があり、「わたしかあなたがたをエジプトの地から、奴隷の家から連れ出した」という説明文が記されています。「連れ出した」と訳されている動詞は「ヤーツァー」(יָצָא)で、本来、「出る、去る」という意味ですが、ここではその使役形(フィヒール態)が使われて「連れ出した、導き出した」という意味です。奴隷となっていた者たちを、あの強大な権力と力を誇るエジプトから導き出すために、自由を与えるために、神がなにをなされたのか(その説明はここには一切記されていませんが)、その神のなさった出来事がこの自己宣言の背景にあるのです。神がなさったことに対する感謝が民の中に希薄になれば、これから結ばれる契約は土台から危うくなるのです。
  • アノーヒー・アドナイ・エロヘーハー」、つまり、「わたしは、あなたの神、主」という定型句は、20章5節にも登場します。それは「偶像を造ってはならない」その理由を述べる部分にあります。「キー」という理由を示す接続詞の後に、「アノーヒー・アドナイ・エロヘーハー」があります。そして、それに付け加えるようにして「エール・カンナー」(אֵל קַנָּא)があります。

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  • これは新改訳では「ねたむ神」と訳されていますが、新共同訳では「熱情の神」と訳されています。「アノーヒー・アドナイ・エロヘーハー」と「エール・カンナー」の二つが十戒におけるイスラエルの民に対する神のかかわりです。
  • 神が「ねたむ、ねたみ深い」という訳は一見、人間臭さを感じさせますが、この語彙は本来「情熱、熱情、熱心、沸騰する、燃え立つような感情」を意味します。神の民に対する感情は覚めた冷ややかなものではなく、燃え立つような愛の感情です。ですから、相手が自分ではなくほかのものに心が向けられることに対して、妬みや怒りさえ覚えるのです。真剣でなければ、痛くも痒くもないはずです。もしそのような愛で愛されたとしても嬉しくも楽しくもありません。真剣な愛をもってかかわろうとしているその表現が、ここでは「わたしはねたむ神」(新改訳)、「わたしは熱情の神」(新共同訳)、「わたしは熱愛する神」(岩波訳)と表現されているのです。
  • このような神の愛を民が信じ続けることがなければ、この契約はすぐにもほころびる運命にあるといえます。十戒で宣言される神のただならぬ熱情的な愛は、長い歴史という時間をかけながら、ゆっくりと熟成していきます。
  • 神の律法(トーラー)の中心はこの「十戒」だと言えますが、イエス・キリストが「トーラー」を二つに要約されました。イエスのみならず、当時の律法の専門家たちもそのように理解していたようです(ルカ10:27)。その二つのうちの最初は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」。次は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。ただし岩波訳はここを命令形ではなく、ギリシア語原文では「愛する」が命令形ではなく、未来形で書かれていることから、「愛するであろう」と訳しています。神がいかに熱愛しておられるかをあなたが知るならば、心を尽くして・・・あなたの神である主を愛するようになる」ということです。愛は命令や強制によって培われることはありません。愛は自発的、主体的要素が重要です。ですから、私たちが主をどのような方として知っているかが、「心を尽くして・・愛する」ということにおいて大きな影響を与えるのです。
  • 神の愛の「熱情」は、英語で「パッション」と訳されますが、それは「苦しみにも耐える」という受難の意味も含んでいます。神とイスラエルとのかかわりの歴史の中で、苦しみにも耐えるという神の愛の面が次第に明らかにされていきます。そして、神の「熱愛、熱心」は、やがて神の御子イエス・キリストの十字架の死というかたちで表わされます。「万軍の主の熱心(קִנְאָה)がそれをする」(イザヤ7:9, 37:32)と預言されているからです。

2. 「神を恐れる」ことを正しく理解する(20:20)

  • 神の声を直接、聞いた民は「神が私たちに(直接に)お話にならないように。私たちが死ぬといけませんから。」(20:19)とモーセに訴えました。そのとき、モーセは「恐れてはいけません(恐れることはない)」と言います。そして「神が来られたのはあなたがたを試みるためです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」(20:20)と言います。
  • 20節には、一方で「恐れてはいけません」と言いながら、他方で「神への恐れが生じて」とあります。「神への恐れが生じる」とは正しい意味での「神への恐れをもたせる」ことを言っています。新共同訳は前者を「恐れることはない」と訳し。後者を「神を畏れる畏れをおいて」と訳しています。両者とも元になっている語彙は「ヤーレー」(יָרֵא)という動詞です。この動詞には「恐れ」という感情と「畏れ」という感情の二つの意味合いがあることを示しています。
  • 「恐れる」とは、敵や死、危険や失敗、あるいは秘密の発覚を心配してこわがるという面があると同時に、「畏れる」という面を合わせ持っています。「畏れる」(畏敬、畏怖)とは、かしこむ、恐縮する、おそれおおい、自然やいのちの神秘に触れたときの驚きの感覚です。
  • ちなみに、「旧約聖書ヘブル語大辞典」を編集した名尾耕作氏は、「主を恐れる」という「ヤーレー」(יָרֵא)を次のように説明しています。

「主を恐れるということは、たんに主を畏敬する意味ではありません。神を恐れた人物として、ヨブとアブラハムが聖書にしるされています。・・創世記(22:12)によりますと、アブラハムが、神の命令に従って愛する子イサクをモリヤの山でささげたことを主の使いは、アブラハムが神を恐れていたからだと言っています。アブラハムのこの行為を新約聖書のヘブル書(11:17~19)では、『神には人を死者の中からよみがえらせることもできる』という信仰によって、アブラハムはイサクを神にささげたのだと言っています。ですから、神を恐れるということは、・・・人にはまったく不条理に思える真理を信じるということです。すなわち、神への全幅的信仰であります。これが人生の知識、知恵の初めであり、基本であるのです。」(「旧約聖書名言集」講談社学術文庫、244頁)

  • 箴言に「主を恐れることは知識の初めである」(1:7、詩111篇10節)、「主を恐れることはいのちの泉」(14:27)とあるように、「主を恐れる」ということは神と人と正しいかかわりを表現することばのようです。「主の御名は聖であり、おそれおおい」(詩篇111:9)ことを知ることが、神との良いかかわりを築かせます。しかし逆に、主に対する狎れ、神の恵みに狎れることは、神からのさばきを招きます。たとえば、祭司エリの二人の息子たち(ホフニとピネハス)がその例といえます。

2011.12.27


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