シナイにおける双務的契約(1)
出エジプト記の目次
16. シナイにおける双務的契約(1)
【聖書箇所】19章1~25節
はじめに
- 出エジプト記19章2節には、エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイの荒野にはいり、その荒野で宿営したとあります。「宿営した」と訳された動詞は「ハーナー」(חָנָה)の複数形が使われています(13:20/14:2, 9/15:29/17:1/19:2)。これまでイスラエルの民が宿営した地は以下の通りです。
- ところが、「山のすぐ前で宿営した」の「宿営した」ではなぜか単数形なのです。神との契約を前にして心がひとつとされたのかも知れません。あるいは、イスラエルが集合人格として取り扱われているのかもしれません。
- 19章では神が民に対して契約を結ぶ提案をし、民はそれに同意することが記されています。そして契約の内容を直接神から聞く(十戒)ための準備について記されています。契約の具体的な内容については、19章では一切語られていません。ここでは主の契約の内容に注目してみたいと思います。
1. 主の契約の提示
- シナイ山の手前で、神がイスラエルの民と結ぼうとされる契約は、これまでのノアやアブラハム、イサク、ヤコブに対してなされた一方的な契約とは異なり、合意に基づく双務的な契約です。
- 神がモーセに語った契約は以下のものでした。
【新改訳改訂第3版】19章4~6節
4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
- 主の契約の内容の前提として、まず主はこれまでご自身がイスラエルに対してなされた二つの恩寵を確認させようとしています。ひとつはエジプトにしたこと。そしてもうひとつは荒野の旅をしてここシナイにまで連れてきたことです。
- 後者の旅路の恩寵について、「あなたがたを鷲の翼に載せ」と表現しています。申命記32章11節には「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」(新共同訳)とあります。鷲の雛が成長して飛べるころなると、親鷲は山のがけにかけられた巣の中にいる子鷲の上を舞って誘い出し、その子鷲が疲れてくると、親鷲を背に乗せ巣に戻るというところから、神の民に対するねんごろな守りを表わす比喩として用いられています。ただし、申命記32章の場合の「鷲」は単数形ですが、出エジプト記19章の「鷲」は原文では複数形「鷲たちの翼」となっているところから、ヘブライ文学博士の手島佑郎氏は「神は無数の強力な天使を遣わしてかれらを保護したのであろう」と説明しています(混迷を越えるプロジェクト「出エジプト記」、ぎょうせい出版、182頁)。つまり、本来、両足で獲物をつかんで運ぶ鷲が、翼の上に載せて運ぶということは、荒野での旅路を最も安全な方法で保護したのだと説明しています。しかし、この「鷲の翼」で祭司のことを指しているという見方もあります。なぜなら、「鷲の翼に載せ」とは、比喩的な表現で、祭司たちの働きによってという意味です。事実、イスラエルの民たちは祭司であるモーセとアロンの指導の下にエジプトから脱出し、シナイ山の麓までやって来たからです。
- 主の契約はまずこれまでのご自身のイスラエルに対しての恩寵を思い起こさせて、もし、主の声に聞き従い、契約の内容を守るならば、
(1) 「主の宝」(「セグーラー」סְגֻלָּה)となる
(2) 「祭司の王国」(「マムレヘット・コーハニーム」מַמְלֶכֶת כֹּהֲנִים)となる
(3) 「聖なる国民」(「ゴーイ・カードーシュ」גוֹי קָדוֹשׁ)となる
- そのような民に「なれ」ではなく、「なる」と言われたのです。この点がとても重要な点です。ただし、それは、主の声に聞き従い、契約を守るならばという預言的なものです。つまり、その条件が満たされるならば、主が言われるような民と「なる」(「なっていく」)ということです。いかにして「なる』のかと言えば、神がそのように「する」という約束が込められているのです。「いのちの木」にあずかっていないイスラエルの民に、神が契約を要求することはあり得ません。
2. 主の契約に対する民の反応
- 19章4~6節のモーセを通して聞いた契約に対する民の反応は、みな口をそろえて、「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」と答えました。彼らはまだ神の契約の具体的な契約の内容が知らされていないにもかかわらず、同意して、「主が仰せられたことを、みな行います」と答えているのです。契約の内容の責任の重さに気づいていないから言えたことばではないかと思います。民の無知を暴露するこのようなことばは、繰り返して語られます(24:3, 7,申命記:5:27)。これは彼らが霊的に盲目であったことを示しています。
- 人の結婚式でも「誓約」が最も重要ですが、簡単に離婚してしまうカップルがあまりに多いのは誓約を軽く考えているからだと思います。イスラエルの民も同じでした。その証拠に、主が「まことに、わたしの声に聞き従い」と語られているのに、民が「あなたの声に聞き従います」と言わずに、「あなたの仰せられたことをみな行います」と答えていることに見られます。
- 「まことに、わたしの声に聞き従い」(5節)と訳されている箇所には、「聞く」(「シェマ」שָׁמַע)という動詞が二つ重ねられています。つまり、注意深く耳を傾けて聞くことを意味します。イエス・キリストも民衆に神の国の奥義を語るときには、決まって「聞く耳のある者は聞きなさい」とか、「聞き方に注意しなさい」とか、「聞いていることによく注意しなさい」とくり返し語られてましたが、そのルーツがここ19章5節にあると言えます。そうした注意が希薄な場合の「行います」は、やがて幻想に終わる運命にあります。神の契約は強制ではなく、どこまでも同意を求める双務的な契約です。ですから、神の恩寵に支えられた神との約束に立てるかどうかを、十分考慮してから結ばれてよい契約なのです。
2011.12:24
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