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ダビデの心の断面を知る歌

47. ダビデの心の断面を知る歌

【聖書箇所】 22章1節~23章7節

はじめに

  • ダビデの生涯を淡々と記している歴史書の中ではなかなか知ることのできないダビデの心の断面を22章1節~23章7節を通して伺い知ることができます。
  • ダビデの生涯においての大きな戦いは、外的にはペリシテ人との戦いでしたが、内的にはサウルとその一族との戦いでした。サウロの存在はダビデを育てた愛すべき敵と言えますが、不条理にもサウルに追われた10余年間は、ダビデにとっては非常に悩み多い日々であったと同時に、神とのかかわりにおいては豊かな実を結ぶものとなる尊い経験でした。
  • 22章はサウル王に追われた経験によって磨かれたダビデの信仰が生き生きと伝わって来る詩篇です。23章1~7節では「ダビデの最後のことば」として、自分の家に約束された主のとこしえの契約をたたえています。

1. 22章に見るダビデの歌

  • 22章のダビデの歌は、わずかな部分を除けば、詩篇18篇とほぼ同じです。いずれも、この歌にはダビデの神に対する揺るぎない信頼が、信仰告白の形で、また神の恩寵をあらわす「防衛用語」「救出用語」「愛顧用語」「育成用語」の動詞の形で、そして神への礼拝用語の形で表されています。分析して整理すれば、重要なへブル語の語彙集を作ることができそうです。
  • 動詞の話態において、使役動詞(ヒフィル態)が多いのが目立ちます。つまり、主がダビデをして「~させる」という表現です。
  • しかし、多くの語彙の中から重要な語彙を一つ選ぶとすれば、私は20節の後半の「主が私を喜びとされたから」にしたいと思います。このフレーズはとても重要だと思います。それは、自分が主にとってどのような存在なのかを知っていることは、自己存在の要となる事柄だからです。ダビデにとって自分が主の喜びの存在であるというアイデンテイは、生きていく上で何よりも大きな自信を与えるからです。これはいわば、土壌のようなもので、土壌が良くなければ、どんな種を蒔いたとしても豊かな実を結ぶことはできません。
  • 「喜びとされた」と訳されたへブル語は「ハーフェツ」(חָפֵץ)です。「主が私を愛しておられる」という確信です。この「ハーフェツ」(חָפֵץ)の愛は、人が神になにかを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。そもそも天の父はその子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。人が自分の欲望や私利私欲のために求めるものに対してではなく、神のみこころにかなって願い、求められることに対しては、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛こそ「ヘーフェツの愛」なのです。ダビデはこの愛を知っていたのです。まさにダビデの名前「愛される者」にふさわしい気づきです。ここにダビデの霊性の土台があります。
  • 自分が愛された者であること、自分が神にとっての喜びの存在であることを知っていたダビデは、やがてこの世のまことの王として来られる御子イエスを指し示しています。イエスが受洗したときに、また高い山において、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という御父の声を聞いています。御子は御父の愛と喜びの中でその使命を果たされたのでした。神とダビデのかかわりは、御父と御子とのかかわりの型といえます。

2. 23章に見るダビデの最後の歌

  • ここにある歌は、22章が詩篇18篇と同じであったように、詩篇としてまとまったものはありません。ここではダビデが3人称で書かれています。つまり、「義をもって人を治める者」「神を恐れて治める者」として描かれ、「太陽の上る朝の光」「雲一つない朝の光」にたとえられています。このたとえは常に上ってくる朝日のように、永遠の不変性と確実性を意味しています。
  • ダビデとこの家に対する神の契約が神によって守られることを確信する歌です。「これに触れるものはだれでも、・・その場でことごとく火で焼かれてしまう。」とあります。

2012.8.21


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