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ヘブル語の「父」(アーヴ)の秘密

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MDRSH 1. ヘブル語の「父」(アーヴ)の秘密

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ベレーシート

  • イェシュアが弟子たちにこのように祈りなさい(ギリシア語原文では「祈り続けなさい」〔現在形・中態の命令〕)と教えられた「主の祈り」、その最初の呼びかけである「天にいます私たちの父」について、ここでは、「私たちの」という部分を「わたしの」としてみたいと思います。というのは、この祈りは御子イェシュア自身がこの地上で繰り返し祈られた祈りであったからです。
  • ちなみに、福音書でイェシュアが「わたしの父」という表現で語っているその数は36回あります。マタイでは12回、ルカは3回、ヨハネでは21回です(マルコにはこの表現がありません)。
  • 「天にいます私たちの父よ」という部分の「私たちの」という部分はきわめて重要ですが、今回はそのことには触れず、弟子たちに教えたこの祈りは、イェシュアが常に祈っていた祈りであるという前提を重要視しています。イェシュアが祈っていなかったことを弟子たちに教えたとは考えられません。とすれば、その祈りの意味はどういうことであったのかを考察しています。「私たちの」とは、イェシュアもそこに入ってはじめて意味を持ってくるはずです。イェシュアはイスラエルの民を代表している存在であるがゆえに、「わたしの父」と呼ぶことはなんら問題ないと思います。福音書の中で34回も神のことを「わたしの父」と言っています。そのイェシュアが弟子たちに教えたのが、この「主の祈り」と言われるものです。
  • 今回は、特に、「天にいますわたしの父」という呼びかけの中に、なぜ「父」なのか、なぜ神が「父」と呼ばれるか、この呼びかけをヘブル的視点からミドゥラーシュしたいと思います。ミドゥラーシュ(MDRSH;No.1)では、「父」というヘブル語「アーヴ」(אָב)に集中します。「天」を意味する「シャーマイム」(שָׁמַיִם)は、MDRSH;No.2の「あなたの御名」を意味する「シェメハー」(שְׁמֶךָ)と関連づけて扱いたいと思います。

1. ヘブル語の「アーヴ」に隠された秘密

  • 「天」と「父」ということばに対応していることばは、「地」と「子」です。「地」と「子」を意味する語彙がなくとも、「天」と「父」という語彙の中に、「地」と「子」が示唆されています。地のない天はなく、子のない父はあり得ないからです。したがって、「天にいますわたしの父」という呼びかけは、本来、天におられた方が、父によって天から地に遣わされた子、すなわち「子」であるイェシュアが祈り続けていた祈りだと言えます。そして、「子」であるイェシュアが祈っているその祈りの中に、神ご自身のいっさいのもの(創造とその目的、救いとそのご計画)が秘められていると信じます。
  • なぜ、イェシュアは「神」を「父」と呼んだのか。ヘブル語で「父」は「アーヴ」(אָב)です。ちなみに、「わたしの父」は「アーヴィ」(אָבִי)、「私たちの父」は「アーヴィーヌー」(אָבִינוּ)となりますが、なぜ神が「父」(アーヴ)として表わされるのでしょうか。その秘密は、ヘブル文字の中に隠されています。
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  • 「アーレフ」(א)と「べート」(ב)の二つの文字が組み合わされているヘブル語の「父」(アーヴאָב)に秘密があるように思います。それはどういうことかと言えば、この二つはヘブル語の「アーレフ・ベート」の最初と次に来る文字です。「アーレフ」は「牛」の意味で、「力」を表わします。あるいは、「すべての事柄の本源」とも言えます。「アーレフ」は目には見えない本源的実体です。何らかの媒体がなければその存在を見ることのできない力ある実体であり、そのことが「ベート」の文字を必要としているように思います。
  • 「ベート」の文字は「家」(בֵית)の頭文字を表わしますが、同時に、この文字は「子」を意味する「ベーン」(בֵּן)、あるいは「息子」を意味する「バル」(בַּר)の頭文字です。「長子」もヘブル語では「べホール」(בְּכוֹר)です。つまり、本源である父「アーヴ」(אָב)は「子」「息子」「長子」によって、また「家」において、はじめてその実体を現わされる方であると言えます。
  • さらに興味深いことには、「ベート」の文字(ב)が前置詞(בְּ)で用いられると、「(はじめ)に」「~によって」「~と共に」というように、時やかかわりの方法や共働者を意味します。しかもそこにはゆるぎない「信頼」が存在しています。そしてこの「信頼」を意味する動詞が「バータハ」(בָּטַח)で、名詞は「ベタハ」(בֶּטַח)です。何とすべてにおいて、頭文字がベート(ב)なのです。
  • 使徒ヨハネは、御子イェシュアのことを「ことば」(ロゴス)という概念で表わしました。そして「ことばは神とともにあった」と記しています(ヨハネの福音書1:1)。ここの「ともに」という表現にはギリシア語の前置詞「プロス」(προς)が使われており、それは「互いに向かい合っている信頼の関係」を表わしています。そして、ヨハネ1章18節では、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」とも表現しています。だれも見たことのない神を、父の秘密を知っておられる御子が、人となって来られ(「ボー」בּוֹא)て、私たちの間(中)に(「ベーン」בֵּין)住まれ、御父のみこころを語り、そしてご計画を成し遂げられました。そのことを正しく知ることが聖書の教える「悟り」(「ビーナー」בִּינָה)です。
    ※ここに使われているヘブル語の頭文字がすべて(ב)であることに注目する必要があります。

2. 「御父」と「御子」のかかわり

(1) 家を建てる「御父」と「御子」  

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  • 聖書の出だしは、上記にあるように、「ベレーシート・バーラー・エローヒーム」です。旧約聖書には「アルファベット詩篇」というすぐれた語法があるにもかかわらず、なぜ、聖書は「アーレフ」でなく、「ベート」の文字から始まっているのでしょう。それは決して偶然ではなく、奥義です。天と地の創造は、「アーレフ」(א)によって信任された「ベーン」、すなわち、御子によってなされたからです。御子が天にある「家」(ベート)を地にまで広げられ、天地という「家」を創造されたのです。天の父は御子にすべての権限を託して、天と地の創造をまかせました。ちなみに、「創造する」と訳された「バーラー」(בָּרָא)は、例外もありますが、ほとんど神にしか使われない動詞です。このことばも(ב)から始まる単語です。

    コロサイ書1章16~18節【新改訳改訂第3版】

    16 万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
    17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
    18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

  • 興味深いことに、ヘブル語の「創造する」という動詞の「バーラー」(בָּרָא)が、息子である「バル」(בַּר)によってなされたことを示しています。というのは、この二つの言葉は密接な関係にあるからです。
  • このように「御父」と「御子」とは互いを必要とし、永遠に信頼し合って存在しているのです。御父は、御子によって世界を創りました。天と地における「万物」「見えるものも見えないものも」「天と地にあるすべて」、それらは御子によって存在している「ひとつの家」なのです。その家の中に、神のみこころ、創造、堕罪、救い、福音、御国、統治、王座、御国、栄光、シャーロームといった事柄のすべてがあるのです。回復のみわざも、創造のわざをゆだねられた御子によってなされます。
  • そのような御子が、12歳になられたとき(脚注)、巡礼先のエルサレムで両親とはぐれてしまいました。はぐれたといっても、イェシュアはそのままエルサレムに残り、宮の中で律法の教師たちと問答しておられたのですが、迷子になってしまったと思った両親は心配して捜し回り、三日後、エルサレムに引き返して、宮の中にいるイェシュアを見つけました。そんな両親に対してイェシュアはこう言いました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしは必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と。両親ともこのイェシュアの言ったことばが理解できなかったようです。天から遣わされた御子イェシュアは地上においても父の家にいたのです。
  • 御子イェシュアこそ、天地を創造し、地上に人(男と女)を造ることによって、天にある本体の写しを造られました。創造当初、天と地は一つであったのです。堕罪によって天と地を一つにしている「エハード」(אֶחָד)は破られてしまいました。そのために、神は回復のためのご計画を立てられました。その目的は、再び、天にあるものと地にあるもののすべてを、御子イェシュア・ハマシーアッハ(イエス・キリスト)によって一つ(「エハード」אֶחָד)にすることでした(エペソ1:10)。

    エペソ書1章10節【新改訳改訂第3版】
    時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

  • 「ベート」が意味する「家」という概念には、地上にある「神の家」「神の子孫」「主の幕屋」「主の宮」「神殿」「主にある私たちの体」「主の民」「イスラエル」のすべてが含まれ、それらは天にある「家」の写しと言えます。その「家」に住むことが救いであり、救われて神の子となった者はみな神の家における特権と祝福を味わうことが出来るのです。これらすべては、父が「アーヴ」(אָב)であることに秘められているのです。
  • 御子イェシュアが遣わされたこの地上で、天におられる方に向かって「父よ」と呼びかけているのは、そこに壮大な神の使命があり、父と子の住む家と地の家との回復のご計画が隠されているからです。使徒パウロはこのプロセスを「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」と表現しています(ローマ11:36)。

(2) 家を建てる「御父と御子」の写しとしてのモデル

  • 天における「御父」と「御子」の信頼のかかわりとそのみこころを、私たちは地上の御子イェシュアを通して見ることができるのです。そうしたかかわりを地上で写し出された他の例として、アブラハムとイサク、またダビデとソロモンを挙げることができます。アブラハムとイサク、ダビデとソロモンに見られる「父と子」のかかわりは、御父と御子のかかわりの型(写し)です。以下に、そのことを簡単に触れてみたいと思います。

例1―「アブラハムとイサク」
創世記22章6節と8節には、「ふたりはいっしょに進んで行った」(6節)、「ふたりはいっしょに歩き続けた」(8節)とあります(原文ではいずれも同じ表現ですが、訳文では変わっています)。父と子のふたりは常にいっしょに歩き続けた(ハーラフ)ことが強調されています。父と子がゆるぎない信頼で結ばれています。父アブラハムの神への信頼、子であるイサクの父アブラハムに対する信頼がテストされた出来事が22章でした。父アブラハムは、約束された子イサクにすべてを与え、子であるイサクは父アブラハムからすべて(家長の権威、家の財産、神の約束のすべてを)を受けています。ここには「天における御父と御子の麗しい信頼の写し」があります。

例2―「ダビデとソロモン」
ダビデの「主の家(宮)を建てたい」という強い思いは、子ソロモンによって実現します。Ⅰ歴代誌22章5節にはダビデが子ソロモンに語ったことばが記されています。

5 ダビデは言った。
「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。【主】のために建てる宮は、全地の名となり栄えとなるように大いなるものとしなければならない。それで私は、そのために用意をしておく。」

  • 家(ベート)において、父は家のリーダーであり、力と知恵をもって子を導き、教え、その子孫を継続させていく責任を担った存在です。父は子に対しての大きな責任をゆだねられています。子は父に従順であることによって、はじめて「家」は建て上がって行きます。父と子が共に「家」を建てるということは、天における真理なのです。そこに私たちが招かれています。
  • ダビデの主のために宮を建てたいという思いが先行し、その思いがソロモンによって実現することとは別に、神である主とダビデが交わした「ダビデ契約」というものがあります。それは無条件的契約で、「主がダビデのために一つの家を建てる」という約束です。ソロモンにゆだねられた主の宮は、やがてソロモンの罪によって二つに分裂して、やがて崩壊します(バビロン捕囚の出来事)。しかし一度、主がダビデに約束された「一つの家を建てる」という約束は、ダビデの子孫から登場するメシアによって実現します。それは未だ実現してはいませんが、必ず、ダビデ的王国がメシアによって実現する時が到来するのです。それは「千年王国」の到来です。エルサレムを中心として、メシアであるイェシュアが全世界を王として統治する時代が、メシアの地上再臨によって実現します。

こちらも参照のこと

  • 今回、ミドゥラーシュしようとしている「主の祈り」は、まさにその実現のための祈りだと言えます。神のご計画を鳥瞰的視点から見ることが出来なければ、「主の祈り」の意味していることを理解して祈ることは到底できないということです。そのためにも、私たちは神のご計画の全貌を知ることが出来るように求めていく必要があります。使徒パウロがエペソ教会の長老たちを集めて語った訣別説教の中で次のように語っています。「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使徒20:27)と。しかも、このことがイェシュアがなされた「御国を宣べ伝える」ことと連動しているのです(使徒20:25)。

3. 「父」と「子」のかかわりを示すヘブル語の語彙

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「アーヴ」(אָב)は、長子「べホール」(בְּכוֹר)である子「ベーン」(בֵּן)、ないし息子「バル」(בַּר)を信頼して(「バータハ」בָּטַח)、(「ベート」בֵּית)を建てさせました(「バーナー」בָּנָה)。

すべての者が、処女(「べトーラー」בְּתוֹלָה)マリヤから生まれた(「ベーン」(בֵּן)を尋ね求める(「バーカシュ」בָּקַשׁ)なら、その息子(「バル」בַּר)を通して、(「ベート」בֵּית)の中に入る(「ボー」בּוֹא)ことができます。そして主は、私たちに油を注いで(「バーラル」בָּלַל)下さるのです。その油は神の歓迎の喜びとしての油です。またそれは、主からの祝福(「ベラーハー」בְּרָכָה)のしるしです。私たちはこの良い知らせを伝える(「バーサル」בָּשַׂר)という責任があります。やがて、花婿なるキリストは結婚する(「バーアル」בָּעַל)ために、花嫁なる私たち(教会)を迎えに来て(「ボー」בּוֹא)くださいます。なぜなら、主はアブラハム、ダビデと結んだ契約(「ベリート」בְּרִית)を必ず果たされる方だからです。


まとめ

  • 「主の祈り」の最初の呼びかけである「父」という言葉の背景に、「父」を呼ぶ「子」の姿があります。「父」は絶対的信頼をもって「子」に全権をゆだね、みこころを成し遂げられます。一方「子」も十字架の死に至るまで、「父」に対する絶対的信頼を貫くことによって敵の最後の砦である死の力が打ち破られました。そして、天と地は修復されてひとつ(「エハード」אֶחָד)となります。なんという「父と子」の永遠の愛の絆でしょうか。「父」と「子」のゆるぎない信頼が、この「主の祈り」の最初の呼びかけの中にあることを知らされるのです。            

  • ヨハネの福音書に記されている「父と子」は「ひとつ」です。そのかかわりを私たちは徹底的に味わう必要があります。


脚注

「12」という数字が意味すること

「イエスが12歳になられたとき」とあります。普通はそこに特別な意味を感じません。なぜ12歳なのか。この12という数字に何か特別な意味があるのでしょうか。それは十分にあります。巡礼先のエルサレムで両親とはぐれたことで、わたしは必ず自分の父の家にいるという真理が両親にはじめて明かされたからです。しかし、両親はその意味が分からなかったとあります。「12」という数字と「父の家」には密接な関係があるように思われます。

「12」という数字は、聖書においては「神の所有の民」を表わす象徴的な数です。ヤコブの12人の息子たちと、そこから生じるイスラエルの12の部族。約束の地の偵察のためにそれぞれの部族から派遣された計12人の者たち。荒野の旅の途上のエリムという町で見出された12の泉。約束の地に渡って行った最初の宿営の地ギルガルに記念の石として据え置かれた12の石、大祭司が着る服の胸に身に着けるエポデには12の部族を表わす宝石が埋め込まれています。ダビデは神殿で仕える祭司の組織を12を二倍にした24の組に分けています。旧約聖書の小預言書と言われるものの数も12です。

「12」という数は新約においても受け継がれます。イエスが選んだ12の使徒(弟子)に始まって、ヨハネの黙示録では、神の御座の回りには12を二倍した数の長老たち、また、12の部族のそれぞれにつき1万2千人の、合計14万4千人に神の刻印が押され、その者たちが神を礼拝しています。新しいエルサレムにおいては、12の部族の名が刻まれた12の門、聖なる都の12の土台には12の使徒の名が刻みつけられています。新しいエルサレムには年に12回実を結ぶいのちの木があります。

このように、12は神の所有の民の象徴的な数と言えます。なぜ、12なのか、その秘密はヘブル語の「アーヴ」(אָב)にあります。つまり、「12」という数は、「アーレフ」(א)の数である「1」と、「ベート」(ב)の数である「2」の組み合わせの数だということなのです。つまり、御父と御子、神と小羊の永遠のかかわりの中の数字であり、同時にそのかかわりの中に招かれている者たちの数字と考えられます。「1」(א)と「2」(ב)が組み合わさっている父「アーヴ」(אָב)の「家」(בֵּית)の中に、私たちが神の所有の民として招かれていることを表わす数の組み合わせこそ「12」という数だと考えられます。

2014.4.11


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