ボツラにおける民族的悔い改めの祈り
63. ボツラにおける民族的悔い改めの祈り
【聖書箇所】64章1~12節
ベレーシート
- 新改訳聖書では、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」という部分を64章1節としていますが、原文ではこれを63章の最後の節の後半に置いています。新共同訳もそのようにしてあります。したがって、新改訳と新共同訳では節が1節分ずれています。
- イザヤ書64章は63章から続いている「神の民の悔い改めの祈り」として途切れることなくつながっています。ということは、ここでの悔い改めの祈りは、ユダヤ人たちが反キリストの軍勢から逃れるために避難したボツラでの祈りだということです。
- この祈りは、神の民の認罪と立ち帰りへの渇望の祈りです。神の民が悔い改めるとき、主は贖い主として来られますが、その表現が59章では「激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている」(19節)と表現されていますが、ここ64章では「天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動く」(64:1, 3)と表現されています。つまり、いずれも神ご自身の介入の結果として、私たちが予想もしないような主の御名の主権と栄光が現わされるのです。
1. 「私たちはみな」というフレーズ
- 「私たちはみな」という表現は聖書の至る所にあるように思いますが、実は、意外と少ない事に驚かされます。新共同訳の訳語は「わたしたちは皆」としています。新改訳でこのフレーズを検索すると10件ヒットします(創世記42:11、民数記17:13、ネヘミヤ4:15、イザヤ書53:6, 59:11, 64:6, 6, 8, 9、マラキ2:10)。
- どのように使われているのか、イザヤ書だけを取り上げてみたいと思います。
(1) 53章6節
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
(2) 59章11節
私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
(3) 64章6節
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
(4) 64章8節
しかし、【主】よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
(5) 64章9節(ただし訳文にはありませんが、原文にはあります)
【主】よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。
- 「私たちはみな」というフレーズはイザヤの特愛用語だということが分かります。ヘブル語では「みな、すべて」を意味する「コル」(כָּל)と「私たち」(נוּ)という1人称複数の人称語尾がついた「クッラーヌー」(כֻּלָּנוּ)です。
2. ユダヤ人の民族的回心の出来事
- 「私たちはみな」とは、反キリストによって迫害をのがれた者たちの悔い改めの祈りであり、民族的回心の祈りだということです。63章の16節に二度も主に対して「あなたは私たちの父です。」という告白があること、そしてまた64章8節にも同じく「しかし主よ。今、あなたは私たちの父です。」とあります。この告白は聖霊の助けがなければ決してできない告白です。
- ゼカリヤ書12章には「恵みと哀願の霊」が注がれることが預言されていますが、民族的回心を示唆する「私たちはみな」というフレーズはありません。逆に、イザヤ書64章には悔い改めに導く「恵みと哀願の霊」という表現はありませんが、民族的回心を示唆する「私たちはみな」というフレーズがあります。
- 預言書にある関連するさまざまなピースを集めることで全体が見えてきます。ひとつの箇所ですべてが言い尽くされていないことが多いのです。これが預言の特徴です。イェシュアが十字架にかかりよみがえって、昇天した後に聖霊が注がれ、主を礼拝して集まっていた多くのユダヤ人たちがイェシュアこそ真のメシアであることを確信したのです。この聖霊の傾注は、やがてメシア王国の直前にも起こります。長い間、覆い隠されてきたイェシュアこそメシアであることに目が開かれることになるのです。
2014.12.6
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