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メフィボシェテに恵みを施したダビデ

35. メフィボシェテに恵みを施したダビデ

【聖書箇所】 9章1節~13節

3節-ダビデ
「私は、ヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
8節-メフィボシェテ
「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」


はじめに

  • Ⅱサムエル7章で、ダビデが主のために家を建てたいと思ったときに、はからずも、「主は、あなたのために一つの家を造る」とあまりにも想定外な、破格の恵みの約束を聞いたときに、ダビデは「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの目には取るに足りない者でしたのに、・・・・」と答えています。
  • Ⅱサムエル9章では、神の恵みを受けたダビデが自分の過去を静かに思い返したとき、あることを思い起こしました。そしてダビデは「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したいと。」と思ったのです。そして、ヨナタンの息子メフィボシェテがいることがわかりました。「恵みを施したい」というダビデの思いが実際に実現したことがしるされているのです。実に、感動的な章といえます。

1. 「恵みを施したい」と願ったダビデ

  • 9章には「恵みを施したい」というフレーズが3回出てきます(1, 3, 7節)。岩波訳、フランシスコ会訳は「真実を尽くしたい」と訳し、新共同訳では「忠実を尽くしたい」と訳しています。NKJV訳ではkindnessと訳しています。
  • 「恵み、真実、忠実、kindness」と訳されている原語は「ヘセド」です。契約を結んだ相手に対してどこまでも責任をもって、真実、誠実を尽くすことを意味します。ダビデはヨナタンと交わした契約のゆえに、その息子メフィボシェテに対して「恵みを施した」のです。
  • 具体的には、彼を自分の息子の一人として受け入れ、毎日、ダビデの食卓に招かれて食事をするということと、サウル家の不動産が与えられ、そこから得られる一切のものを自分の所有とすることができるという恵みでした。

2. メフィボシェテの反応

  • ダビデの申し出に対して、メフィボシェテはかつてダビデが主に対して語った同じことばをダビデにいいます。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(8節)と。「死んだような犬」とは「非常に無価値な存在」という意味です。ダビデはあくまでもヨナタンとの約束のゆえに真実を尽くしただけですが、メフィボシェテからしてみれば、無価値な者に対する一方的な好意というほかありません。この一方的な好意を旧約聖書のへブル語では「ヘーン」(חֵן)、ギリシャ語では「カリス」χαριςということばで表わします。
  • 「何者だというので、私を顧みてくださるのですか。」という表現は、ダビデもメフィボシェテも共に使っていますが、この表現は「なぜ、それほどまでにこの私に良くしてくださるのですか。親切にしてくださるのですか。」という意味です。これは一方的な神の好意を正しく受けとめた者のことばと言えます。第三者的な立場から見るなら、メフィボシェテに与えられたこの恵みは「めちゃ、うらやましい!!」ということになることでしょう。
  • メフィボシェテに対するダビデの態度をまとめてみると、以下のようになります。

画像の説明

  • これらはすべてメフィボシェテの人柄や功績によるものではありません。ダビデの上に注がれた神の選びの愛、契約の愛があふれ出たところのものであったと言えます。

3. メフィボシェテは神の惠みに与ったキリスト者のひな型

(1) メフィボシェテは滅ぼされて当然の者であった

  • メフィボシェテはサウル家の血筋の者であり、当時としては新たな王が統治した場合、以前の王族はみな殺される運命にありました。しかし、彼は父ヨナタンとダビデとがそのことを想定したうえで、決してダビデが王となってもヨナタンの家族を殺さないという契約を交わしていたのです。
  • 私たちも生まれながらして神から離れ、その離反、背反の罪のゆえに神の呪いのもとにあり、有罪と宣告されて死罪と定められた者です。ところが、主イエスがこの私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことにより、私たちが裁かれることはなくなりました。なぜなら、罪のない方が、死ぬべき私たちの身代わりとして十字架の上で死んでくださったからです。これこそ、神の罪人に対する一方的な愛と恵みです。使徒パウロは、「キリストによって今立っているこの恵みに信仰によって導かれた私たちは、神の栄光を大いに喜んでいます。」(ローマ5:2)と述べています。

(2) メフィボシェテは不毛の地に住んでいた

  • さて、メフィボシェテの住んでいたところに注目します。そこは「ロ・テバル」と言われる場所でした。そこはヨルダン河の東側北部。その意味するところは「不毛の地」、あるいは「空虚な、満足のない地」です。生涯そこで生きる以外になかった彼が、ダビデの破格な取扱いによってそこからエルサレムへ連れて来させ、思いもよらない恵みの生涯へと導かれます。その恵みの生涯とは、ダビデの息子の一人として、他の息子と同じ立場で食事を共にすることが許されただけでなく、祖父サウルの地所のすべてが与えられて、何不自由なく生活することができたということです。
  • 使徒パウロはエペソ人への手紙の中で、キリストにあってもたらされている霊的祝福がどれほどのものであるかを知ることができるようにと祈っています。神が私たちに備えておられる霊的祝福は無尽蔵です。
  • イエス・キリストは「あなたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる。」と言われました(ヨハネ15:16後半)。ここには「何でも」という驚くべきことばがあります。ただし、その「何でも」という約束は、後半にあるキリスト者の選びとその目的に従ってという範囲があります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」という目的のために、求めるものは何でも与えられるのです。

メフィボシェテは、不幸にも、自分の力では移動することのできない足の不自由な者でした。彼は神の惠みがなければ救われようもない人間の型です。その彼がどうしてダビデ王から恵みを受けたのか。ダビデ自身は何のメリットもありません。ただメフィボシェテの父ヨナタンのゆえにそれを受けることができたのです。同様に、愛される価値のない私たちにもかかわらず、神の恵みの中に導き入れられ、神の恵みの中に立つ者とされ、その恵みによって取り扱われ、養われているのは、ただただひとえにキリストの血潮のゆえです。もし、私たちが自分の努力や善行によって神の恵みを買わなければならないとしたら、絶望以外のなにものもありません。メフィボシェテがへりくだってダビデの一方的な好意を受け取ったように、私たちもありのままで主の好意を受け取れば良いのです。それは神からの賜物(プレゼント)だからです。


2012.7.21


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