****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

モーセの執拗なとりなしによる神との契約更新

19. モーセの執拗なとりなしによる神との契約更新

【聖書箇所】 32章30節~34章35節

はじめに

  • モーセがシナイ山で神との契約の板を受け取る間に待ちくたびれた民たちが金の子牛の像を造り、それを礼拝し、飲み食いして「戯れた」ことを見たモーセは神からいただいた二枚の石の板を投げつけて粉々にしてそれを民たちに飲ませました。ここまでは良く聞いている出来事ですが、そのあとどのようにして契約更新できたのか、その流れをしっかりと把握する必要があります。

1. 33章から34章の契約更新までの流れ

  • まずは、その流れを33章~34章で順にたどってみます。

(1) 民の罪の赦しを願うモーセの贖いの決意(32:30~33:6)

モーセは民の赦しを願うために山に登ろうとします。そのときモーセはこう言います。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」(33:30) ここには、モーセの犠牲的な決断があります。「あながたの罪のために贖う」というのは、自分の名が主の書物の中から消し去る」という代償を払うという意味です。モーセがそのことを主に言ったときに、とり合ってくれませんでした。むしろ「今は行って、わたしが告げた場所に、民を導け」と言われたのです。しかも、主の使いがモーセの前を先導するが、主自身は上らないと言ったのです。つまり、主は民とともには行かないということです。神の怒りはおさまっていないようです。このことをモーセが民に伝えた時、民は悲しく心が痛みました。


(2) モーセは宿営の外に設けた天幕で主に談判する(33:7~33:23)

まだ神が指定した幕屋はなかったので、モーセは民たちの宿営する外側に会見の仮の幕屋を設けました。そこに主は訪れました。ここでモーセは主に執拗に食い下がり談判します。ここでの談判はとても見ものです。モーセ自身は神の心にかなっていますが、民は神の心にかなってしません。怒っている状態が続いています。モーセは民がどうすれば神の心にかなうのか教えて欲しいと訴えます。

さらに、33章15節で「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」とある意味では神を脅しているような感覚です。訴えているモーセは、人が自分の友と語るように、主が顔と顔とを合わせて語られるかかわりが与えられています。そのモーセが、自分はイスラエルの民と一つであることを示そうとしているのです。この談判によって主の方が動かされました。


(3) 契約の更新(34:1~34:28)

神はモーセの訴えによって再度契約を交わす手続きをモーセに指示します。それは前の契約の時のように、神ご自身が石の板を切り出し、そこに神の指で書くのではなく、モーセ自身が二枚の板を切り出し、そして神の語られる契約内容を書き記すということでした。

モーセは再び山に登り、40日間、主とともにいて、石の板に「契約のことば、(すなわち)十のことば」を書き記しました(接続詞を表わす「ヴァヴ」ないので、言い換えた表現とみなすことができます)。そして、それをもって山を降りたのです。

その契約内容を見ると、先の石の板に書き記されたものとは少し異なっています。先の板には「倫理的な内容」が目立ちましたが、後の板には「祭儀的な内容」が記されているのが特徴です。


(4) 光を放っていたモーセの顔(34:29~35)

画像の説明

山を降りてきたモーセの顔が光を放っていたため、だれもモーセに近づくことができませんでした。モーセが語っているときはそうでした。しかし語り終えると、モーセは顔に覆いをかけたので、人は彼に近づくことができたようです。

「光を放つ」と訳されるヘブル語は「カーラン」(קָרַן)という動詞です。その動詞が名詞になると「ケレン」(קֶרֶן)となり、「角」という意味になります。ミケランジェロという彫刻家は、モーセの像を造りましたが、そのモーセの頭には「角」が生えているのです。おそらく、彫刻では光をあらわすことができないため、「角」で光を表そうとしたのかも知れません。


2. 本音で神にぶつかったモーセ

  • モーセのとりなしに焦点を当てる時、モーセの民に対する犠牲的精神、本音で神にぶつかっていく姿を見ることができます。それが神の心を動かし、契約の更新へと持ち込みます。民の側に立ってとりなすモーセの姿は、神の御子イエス・キリストのひな型です。
  • モーセに勝る大祭司のイエス・キリストも私たちの弱さに同情できない方ではありません。自分自身も肉体という弱さを身にまとっていたので、私たちの弱さを思いやることのできるのです。それだけでなく、モーセが自分の名が神の書物から消されてもよいとする切り札を出したように、キリストも私たちの罪のために身体を張って罪の身代わりとなって死んでくださることによって贖いをなしてくださいました。この方が死から復活され、永遠の大祭司として、今もとりなし続けて下さっているのです。大祭司なるキリストに感謝と賛美と栄光とをささげます。

2011.12.30


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