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ヨナに対する神のお取扱い

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9. ヨナに対する神のお取り扱い

ベレーシート

  • ヨナ書の最後の瞑想になります。ヨナ書が語ろうとしているメッセージは4章にあると考えます。ニネベの人々が悔い改めたこと以上に、ヨナに対する神のお取り扱いこそが最も重要なことです。これは、ヨナ個人の問題というよりは、今も続いているユダヤ人と異邦人の間に横たわっている分裂のルーツ的問題なのです。平和の君と言われるメシアが地上に再臨されることで実現するメシア王国において、はじめて解決可能な問題が提起されているのです。おそらく、それまでこの問題はずっと引きずって行くことになるのですが、神のご計画は必ず実現するのです。

1. ヨナの神に対する抗議

  • 2節にヨナは「主に祈って言った」とあります。確かに、ここでの「祈る」という動詞は「パーラル」(פָּלַל)が使われていますが、その内容は神への抗議であり、いわば神への喧嘩腰的な対話です。一応、一方通行ではなく、神との対話がなされているので「祈り」ということが成立していますが、結局のところ、解決が示されないままでヨナ書は終わっているのです。ヨナの怒りはヨナにとって正当性をもった訴えであり、それゆえ、「怒るのは当然のこと」としています。口語訳は「怒りのあまり狂い死にしそうです」と訳しています。まさに、「生きているより死んだ方がましだ」とするヨナの「激昂」です。
  • 「ニネベの人々」に神の憐れみが向けられてわざわいが思いなおされたことは、ヨナを非常に不愉快にさせ、怒らせました。この単純な表現の中に、ヨナを代表とするイスラエルの民の異邦人に対する心の機微が表わされ(隠され)ているのかも知れません。

2. ヨナに対する神の取り扱い

  • ヨナの取り扱いのために、神が備えられたものは三つあります。一つ目は「一本のとうごま」、二つ目は「一匹の虫」、三つ目は「東風」です。

(1) 一本のとうごま

トウゴマの葉.JPG

●神である主は、ヨナの不機嫌を取り扱うために(原文は「救う」を意味する「ナーツァル」נָצַלの使役形の不定詞)、一本のとうごまを備えて、ヨナの頭上を覆うように生えさせました。「とうごま」(「キーカーヨーン」קִיקָיוֹן)はヨナ書にしか使われていません。

●10節には「一夜で生えたとうごま」と説明されていますが、これは強調表現でしょう。ヨナは陰を作って自分を覆ってくれるそのとうごまを非常に喜んだとあります。⇒右図は「とうごまの葉」(ハウチワカエデの葉の形と似ています)。

(2) 一匹の虫

●ところが神が、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えたことで、とうごまは枯れてしまいます。一匹の虫でとうごまが枯れてしまうというのも不可解ですが、神はそのようにされたのです。ここに登場する「虫」は「トーレーアー」(תּוֹלֵעָה)という虫で、かつてイスラエルの民が荒野で食べた「マナ」を腐らせた赤い虫、うじ虫(複数)です(出16:20)。また、詩篇22篇6節にある「私は虫けらです」にある「虫」も同じ虫です。

(3) 「東風」

●「焼けつくような東風」とあります。イスラエルの場合の「東風」と言えば、アラビアから吹く風を言います。しかしニネべの東風はどこから吹くのか分かりません。しかし「焼けつくような」風であることには変わりません。


  • 神である主は、怒るのは当然とするヨナに対して、三度、語りかけます。

【新改訳改訂第3版】
(1) 4章4節
「あなたは当然のことのように怒るのか。」
(2) 4章9節
「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」
(3) 4章10~11節
10 「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

  • ここでの神の問いかけは何でしょうか。10節に「惜しむ」という動詞があります。この語彙は「フース」(חוּס)という愛情用語で「あわれむ、惜しむ、ひかれる」ことを意味し、そのための骨折りや労苦、配慮と育成を伴っています。ところが、労して育てたこともないとうごまを惜しんでいるヨナに対して、いかに愛に乏しい人間であるかを神は訴えているのです。愛とはある者のために「労する」ことであり、「育て上げることだ」と言わんばかりです。愛と労苦は切り離すことができないものだということをヨナに語っているように思われます。
  • ヨナの姿は、イェシュアの時代におけるパリサイ人や律法学者たちとの同じ心を持っている象徴的な人物として描かれているとも解釈できます。彼らは安息日にしてはならないとされている行為やいやしに対して腹を立てました。彼らにとって「安息日を守らないのは、神から出たのではない」とする正統的な神学がありました。人のいのちよりも、律法の方が大切だったのです。それに対するイェシュアの教えは、「安息日は人間のために設けられたもので、人間が安息日のために造られたのではない」という解釈でした。この主客転倒の神学の過ちをイェシュアは指摘したのですが、イェシュアの意図とは反対に、彼らを不愉快にさせ、怒らせてしまいました。


2. ヨナの心は私たち人間の心の奥にある根深い問題

  • ヨナ書における民族的構図は、ヨナに代表される神の選民ユダヤ人とニネベの人々に代表される世界中の異邦人との間に横たわっている確執的な分裂の根(ルーツ)です。これは異邦人である側から見るならば、なかなか理解しがたい問題を含んでいます。
  • この確執は今も続いています。この確執が解決されるのは神のご計画の歴史における最終段階であるほどに深いのです。例えば、キリスト教の歴史には、教会がユダヤ人を迫害し続けてきた歴史の真実があります。恐ろしくも悲しい過去の事実があります。根強い反ユダヤ主義は今もなお世界中で横行しているのです。そうした現実の中で、使徒パウロがエペソ人への手紙の2章で語っている「新しいひとりの人」という概念を正しく理解することは容易なことではありません。その「新しいひとりの人」、つまりユダヤ人と異邦人の間に存在する隔ての中垣を打ち壊して、二つのものを「新しいひとりの人」という新しい創造物に造り上げて平和を実現することは、神のご計画の目的であると同時に、神によってしか実現されないことなのです。ヨナ書はその実現がいかに難しいかを明らかにしている書と言えます。
  • なぜ青年パウロが「この道」にある者たちを執拗にどこまでも追いかけて行ったのか。なぜ主は、使徒ペテロにご自身がきよいとしたもの(異邦人)を受け入れさせるために三度もやりとりをしたのでしょうか。それほどに分裂の根は私たちが考える以上に深いのです。これこそが、ヨナ書が現代においても常に語っている神の問いかけなのではないでしょうか。
  • 「鳩」を意味する「ヨナ」が神の心に添って柔和な者となるためには、神の特別な取り扱いが必要です。「神とともに歩む」というのは言葉としては美しいですが、そのためには私たちの心が探られ、きよめられる必要があるのです。

2015.5.26


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