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ルカの福音書における「主の祈り」のコンテキスト

ルカの福音書における「主の祈り」のコンテキスト


聖書箇所内 容テーマ
10:25~37良きサマリヤ人のたとえ有言不実行・言行不一致にあった当時の律法の専門家・あるいは指導者たちに対しての痛烈な批判としてのたとえ。
10:38~42マルタとマリヤマルタに対して 「マリヤは良い方を選んだ」とのイエスの弁護。「良い方」とは、ダビデに言わせれば、「ただ一つのこと(One Thing)」です。すべてがそこからはじまっていくような位置、正しいあり方、基本姿勢、土台となること。つまり、神と人とのかかわりにおいて、「最も重要な事柄」である。マリヤの姿勢は実はイエスの姿勢であった。それは次の「主の祈り」においても反映されている。
11:1~4主の祈り弟子たちに教えられた「主の祈り」、その祈りはイエスご自身の生き方そのものである。祈りの内容は前半と後半に分かれるが、特に、前半の嘆願(賛美ではなくすべて嘆願の祈りであることが重要)は、生来の罪ある人間には祈ることのできない祈りである。それゆえ、「私たちの天の父よ!私たちはあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで私たちの生き様を通して、私たちの存在を通して、あなたの御名があがめられるようにしてくだい。」と自ら祈る必要があった。
11:5~13子に良いものを与える父「主の祈り」の嘆願の姿勢について(自分の必要だけでなく、他者の必要のためのとりなしも含めて)、イエスはたとえを通して、私たちが自分の友の必要を満たすことのできない者であることを認識し、それを満たすことのできる天の父に熱心に求めること。そうすれば、必ず、天の父は良いものを与えてくださると教えられた。すべての良いものは父から来るからである。「主の祈り」を補強する意味で語られている。



◆ちなみに、マタイの福音書の「山上の説教」の中で扱われている「主の祈り」は、祈りという主題で語られた一連の教えの中に位置づけられています。


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