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万軍の主の御名によって立ち向かうダビデ

14. 万軍の主の御名によって立ち向かうダビデ

【聖書箇所】17章1節~58節

画像の説明

はじめに

  • 16章から登場したダビデ、そのダビデとサウルの決定的な相違はどこにあるのか、それが17章に明確にされています。17章はイスラエルの民がペリシテ人との戦いに苦慮していたところにダビデが父の遣いでやってきます。そして戦場でペリシテの勇士ゴリアテが生ける神の陣をなぶっていることに対して聖なる怒りを抱きます。そのことを聞いたサウルはダビデを引き寄せたことからゴリアテとの戦いへと展開していきます。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(16:7)とあるように、ダビデの心にあるものが何であったのか、その秘密が明らかにされています。

1. 日々の生活の中での地道な信仰の訓練

  • サウルのもとに呼び寄せられたダビデは次のように言っていることは注目に値します。

17:37
獅子や熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださる。

  • ここにはダビデの信仰を見ることができます。イスラエルの民にも、また自分の他の兄弟にもないすばらしい信仰の賜物があります。
  • エッサイのところにサムエルがやってきたとき、末っ子のダビデは父から全く注目視されていませんでした。ところが、主はこの者に油を注げと言われました。
  • 羊飼いという仕事は決してきれいな仕事ではありません。末っ子(8番目)がするにふさわしい仕事であったようです。しかし神の御計画はそうした誰も監視することもない、隠れた所で準備されていたのです。ダビデは羊飼いの仕事をしながら、主の御名の力を実際に体験していたのです。羊飼いとして獅子や熊との戦いを通して、信仰の訓練がなされていました。そうした下地があって、ゴリアテのとの戦いにおいてその信仰が明らかにされるチャンスが訪れたのでした。
  • 目立たないにところでの神とのかかわりがやがていつかは目に見える形となって現されます。隠れた祈り生活、瞑想の日々がやがてものいう時が来るのです。羊飼いとしての仕事に忠実にやって来たことが報われる時が来るのです。そのあたりはダビデに倣うところ多いと言えます。

2. 万軍の主の御名によって立ち向かう信仰

17:45
私は、おまえがなぶったイスラエルの先陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46
きょう(「今日こそ」という確信に満ちた表現)、主はおまえを私の手に手渡される

画像の説明
  • ダビデがゴリアテと戦ったときの武器は投石のための「石」でしたが、ダビデの本当の武器は「万軍の主の御名」であったのです。この「万軍の主」という神の名の固有名詞はサムエル記で初めて登場します(1:3)。「べシェーム・アドナイ・ツェヴァーオート」(万軍の主の御名によって)の名前にある「ツェヴァーオート」は、軍勢、軍団を意味する名詞「ツァーヴァー」の複数形です。その基になっている動詞(名詞と同じ表記)「ツェヴァー」(צָבָא)は「戦いに出る、戦いを挑む」という意味です。戦いにおいて勝利をもたらす神の固有名詞、それが「万軍の主」という御名です。旧約では250回ほど使われていますが、新約では2回(ローマ9:29/ヤコブ5:4)です。
  • ダビデは「一つの石」による投石により、石はゴリアテの額に当たって食い込みました。なんと一発でゴリアテはうつぶせに倒れたのでした。「石」は「エヴェン」(אֶבֶן)で、メシアの象徴です。この「石」が巨人(サタンの支配)を打ち倒すのです。
  • ゴリアテとの一戦いにおいてもたらされたものは結局のところ何だったのでしょうか。それはダビデが言ったごとく、「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう」というものです(17:46)。これこそイスラエルの王としての理念にぴったり当てはまります。ダビデは若くしてイスラエルの真の王である主を信仰によって証しする、まことにふさわしい人物として紹介とされています。ダビデにあって、サウルにはないものはこの点だったのです。


ゴリアテのうろこ綴じの鎧.JPG

●付記
ゴリアテは「うろことじのよろいを着けていたいた」とあります(Ⅰサムエル17:5)。したがって下記のイラストは正しい。

●ダビデは自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」とあります(40節)。ところが、それを目にしたペリシテ人のゴリアテはダビデに言います。「おれは犬なのか。杖を持って向かってくるが。」と。ここで興味深いことは、ゴリアテが見たダビデの杖が複数形で表されていることです。つまり、ゴリアテは目が悪かったことになります。なぜなら、ダビデが持った1本の杖が複数に見えていたからです。このことは原文で読まないと分かりません。日本語訳はいずれも単数形であるかのように表されているからです。

2012.6.13


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