****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

三世代におよぶ信仰継承の責任

文字サイズ:

箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

28. 三世代におよぶ信仰継承の責任

【聖書箇所】17章6節

ベレーシート

  • 私が結婚して神から賜った子どもは「娘」でした。一人娘です。特別に制限したわけではありませんが、一人しか与えられませんでした。娘の名前は、やがて大きくなったときに神様の御用のためにいつでも飛び立てるようにと願って「飛鳥」と名づけました。神を信じる信仰をもって、神のために役立つ者となってほしいと思ったからです。神からの「賜物」には常に責任が伴うというのが聖書の教えです。
  • 子の直接的な教育者はその父(両親)にありますが、信仰の継承という責任は自分から数えて三世代までの範囲です。「三世代にわたる継承の範囲」を順繰りにリレーしていくことが各世代の課題です。そのことを示唆しているのが17章6節のことばです。ですから、それは一人の信仰者の生涯全体に掛かってくる課題と言えるのです。

1. 孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父

  • 箴言17章6節には、以下に見るように、三世代にわたる信仰継承の祝福が記されています。

【新改訳改訂第3版】
孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。
【新共同訳】
孫は老人の冠、子らは父の輝き。
【口語訳】
孫は老人の冠である、父は子の栄えである。
【フランシスコ会訳】
子供の子供は老人の冠。子供たちの誉れは彼らの父。
【バルバロ訳】
息子の子どもは老人の冠であり、父親は息子の誇りである。


●「孫」のことをヘブル語では「息子たちの息子たち」と表現します。ヘブル語表記も「ベネー・バーニーム」(בְּנֵי בָנִים)。「ベネー」(בְּנֵי)は、「バーニーム」(בָנִים)の連語形。ヘブル的社会では、幼い乳飲み子から15歳くらいまでを子どもと見なしていたようです。

●「冠」と訳された原語は「アターラー」(עֲטָרָה)
「光栄、輝き、栄え、誉れ、誇り」と訳された原語は「ティフェレット」(תִּפְאֶרֶת)

  • 娘が与えられた頃に、私たち夫婦と年代を同じくするクリスチャン夫婦と親しいおつきあいをしていました。クリスチャン夫婦であっても、彼らの子どもに対する教育観は、私たち夫婦とは異なっていました。彼らの教育観とは、「子どもには子どもの人生があって、私たちの信仰を子どもに押し付けたりはしない。神を信じるかどうかは子どもが決めれば良い。」というものでした。果たして、彼らの子どもが信仰を持ったのかどうか、今となっては分かりません。聖書の教育法を学ぶ限りにおいて、彼らの考え方が認められるような余地はないように思います。特に、箴言においては、親こそ子どもの第一の教育者であり、神を恐れるという人生の本質的価値の教育を子どもに授ける権威と責任が与えられていることが明確に教えられています。信仰の継承と家庭教育の重要性がその背景にあります。
  • 私の一人娘が成長してクリスチャン青年と出会い、結婚して、今や私には4人の孫がいます。親が期待したほど遠くへ羽ばたくことはありませんでしたが、信仰を受け継いで、今は夫と共に四人の子どもたちを養育しつつ、神に仕え、主にある家庭教育にいそしんでいます。昨年、長兄(小6)が洗礼を受け、大人の礼拝に自ら進んで参加しています。信仰の継承に関して、祖父である私の責任の範囲はこの孫までです。つまり私が第一世代だとすると、信仰の継承の責任は第三世代である孫たちまでだというのが聖書の教えのように思います。
  • この世の文化的価値は、世代を越えて伝承されます。かといって昔の人とただ同じことをやっていれば良いというわけではなく、先達を乗り越えていくことがなければ伝統そのものが生きているとは言えないように、信仰の継承においてもそれぞれの時代における新たな課題と向き合うことではじめて信仰の価値が生かされていくと信じます。特に、終わりの時代においてその取り組みはますます困難なものとなっていくはずです。
  • 神が、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)と語られたのはモーセを召し出す時でした。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という名はひとつの神の名前であると同時に(使徒3:13、7:32)、信仰継承における一つの型と言えます。イスラエルの民の礎はこの三者(三世代)の上に建てられたことを銘記すべきです。

2. 教会は「家庭」をどう見てきたか

  • みことばから離れますが、1990年、カトリック教会が第二回福音宣教推進全国会議のテーマを「家庭」とするということを受けて、日本カトリック宣教研究所がそのテーマに関する連続研究講座を企画しまとめた本に「教会は『家庭』をどう見てきたか」があります。その本には「家庭」に関するさまざまな領域の視点と立場からなされた提言が盛り込まれています。今から25年も前に、日本カトリック教会が「家庭」というテーマを取り上げて、その神学的根拠を掘り下げようとしていたことを知りました。
  • このテーマは、今日のプロテスタント教会も真剣に取り組むべき古くて新しい問題だと思います。旧約聖書における「家庭」、新約聖書における「家庭」のあり方、キリスト教会の歴史における家庭理解の変遷、家庭における信仰教育など、今、自分自身や自分が置かれている団体と教会に突きつけられている緊急の課題であり、継続的な課題です。箴言はこの課題において、その知恵を教えています。
  • 聖書が意味する「家」(「バイト」בַיִת)は、今日の「マイホーム主義」の意味での「家」とは異なります。聖書が意味する「家」とは神のヴィジョンと密接なつながりを持っています。家(家庭)の基本は夫と妻との出会いです。その夫婦の一体性の中に神のヴィジョンが啓示されています。結婚した夫婦の中に、そしてその夫婦から生まれた子どもとの関係とその教育の中にも、神のヴィジョンが啓示されています。家長である父は自分の家において、メシアが神の国を建て上げる務めと同じ務めが委ねられているのです。

(1) 預言者的務め・・神のことばを柱として家を建てる。

(2) 祭司的務め・・・神を礼拝し、神に祈り、神を恐れることを教える。

(3) 王的務め・・・・神の代理者としての権威をもって家を治める。

  • 箴言において強調されている家庭の建設と信仰の継承は、神の国(御国)の建設のヴィジョンと深く結びついています。それゆえ、神の知恵が不可欠なのです。

3. 危機に直面している世代の到来

  • ついでにもう一冊、衝撃的な本があります。これはCS成長センターから出版されている本で、「教会からクリスチャンホームの子がいなくなる」という、タイトルからして衝撃的です。翻訳出版は2004年ですが、原書のタイトルは「Right from Wrong」で、1994年に発行されています。今から約20年前のアメリカで起こっている現実の調査を元にして書かれています。アメリカで起こっている事はほぼ間違いなく日本にその影響を及ぼします。ですから、訳本の「どうしたら次世代に聖書の基準を継承できるのか」という副題は、深刻、かつ危機的な問いかけです。しかもその問題の根は深い所にあります。原著者は「子どもの教育に対する大きな変化は、子どもに対する第一の教育の責任は自分である、と考えていない親の頭の中で起こったのだ」と訴えつつ、不変・普遍の真理に立ち返るように促しています。

2016.1.12


a:2092 t:5 y:4

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional