不信仰によって神が見失われるとき
民数記の目次
12. 不信仰によって神が見失われるとき
【聖書箇所】 14章1節~45節
はじめに
- 民数記14章は、エジプトから救い出された人々の信仰が最底辺に落ちた姿を表わしている出来事です。私たちが民数記を読む時、常に心に留めていなければならないことは、使徒パウロがコリントの教会の人々に語ったように「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:11~12)ということです。
1. 民たちの落胆と神への反逆的な態度
- 14:1にあることば「全会衆は大声を上げて叫び、民はその夜、泣き明かした。」に目を留めてみたいと思います。「泣き明かす」と訳された原語は「バーハー」(בָּכָה)です。「しくしく泣くというのではなく、声を上げて泣き悲しむ、泣き続ける」ことを意味します。
- しかし、この「バーハー」(בָּכָה)には麗しい面があります。たとえば、アブラハムが信仰の伴侶であるサラを失ったとき、生涯でただ一度、サラのために泣きました。ヤコブも最愛の息子ヨセフが死んだと他の息子たちから聞かされた時も泣きました。ヨセフに至っては涙の人です。創世記には7度も彼が泣いたことが記されています(創世記42:24/43:30/45:14, 15/46:29/50:1, 3, 17)。しかしイサクだけは泣いたという記述は一度もありません。偉大な預言者サムエルを産んだハナンは夫に愛されながらも子どもが与えられない悲しみとぺニンナの嫌がらせために、主の前で激しく泣きました(1サム1:10)。しかしその涙を主は聞きかれました。また、ダビデとヨナタンの友情の涙は麗しさの極みと言えます(1サム20:41)。
- しかし、民数記14章1節の涙は不信仰による「落胆の涙、失望の涙」です。愛する者を失った悲しみの涙とは異なる涙で「自己憐憫」に近い涙と言えます。1年半ほど前の出エジプト記15章のあの信仰はどこへいったのかと思わせる落胆ぶりです。
【新改訳改訂第3版; 出エジプト記15章】
1 【主】に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。・・・
14 国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕らえた。
15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。
16 恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。【主】よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。
- 不信仰による落胆とつぶやきは、やがて神への反逆へと変わっていきます。それを示すひとつのことばは4節の「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」です。神に立てられた指導者であるモーセとアロンを完全に否定しています。さらには、申命記1:27にあるように、「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、‥‥私たちを根絶やしにしようとしておられる」とつぶやきました。神は「いつくしみ深い(トーヴな)」方であられることを完全に否定しています。こうしたつぶやきは癌のように広まり、民全体を汚していきました。
- 斥候として遣わされた12人の者たちで、ヨシュアとカレブの二人を除く10名のものは神にさばかれて疫病で死にます。そして彼らの影響を受けたすべての20歳以上の登録された者たちも、荒野で死ぬことが神によって定められました。偵察に要した40日の1日を1年にかぞえて40年間、彼らの背信の罪を償うために、やがて約束の地に入国する第二世代の者たちが40年間の放浪の旅を余儀なくされたのです。この40年間の放浪の旅におけるレッスンはただひとつ、それは「神を信頼して従う」ということでした。
2. 純粋な信仰も、神の時を待ち望むことか求められた
- 溝の中に咲く一輪の蓮のように、イスラエルの民全体の信仰が汚染された中にも、きわめて純粋な信仰を持つ者がいたのです。それがカレブでありヨシュアでした。彼らの信仰は以下の告白にみられます。
民数記14章7節~
7 私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
8 もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
9 ただ、【主】にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
- 民たちを説得しようとする純粋な信仰者が民たちの不信仰によって石で打ち殺されかねない状況になりました。それゆえカナン入国は断念されることとなりました。このことから、どんな純粋な信仰をもっていたとしても、周囲の不信仰が強い状況では待つこともあることを学ばなければなりませんでした。純粋な信仰を持つ者も、神の時、神の方法、神の備えがあることをあらためて信頼しなければならないことを学ぶ必要がありました。
3. 新約に生きる者たちへの警告
- 新約聖書のこの民数記13~14章の出来事の教訓として、ヘブル書では以下のことを述べています。
3:19
彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
3:12
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
2012.2.1
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