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主との親しい交わりを妨げるもの <1>

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A-13 主との親しい交わりを妨げるもの <1>

はじめに

  • 私たちの神との関係は、人々との関係と互いに不可分に織り合わされている。イエス・キリストのメッセージの中核は二つの要素からなっている。ひとつは神との内的な交わりの生活の必要性(Worship)と、世にあって、神のいのちを反映する生き方への招き(Intercession)である。それを実現させるのが豊かな祈りの生活であることを学んできた。しかし、その祈りの生活を妨げる障害となるものがある。ジェームズ・フーストンは『神との友情』(第2章)の中で、祈りの生活の障害となるものを以下のように四つあげている。これらのものは深いところでみなつながっている。本講義では、以下の(1)と(2)についてのみ取り上げてみたい。
    (1)心の傷
    (2)行動主義(自分を駆り立てている内なる衝動)
    (3)神への不信
    (4)内なる暗闇という恐れ

(1) 心の傷

①「心の傷」とはなにか

  • 心の傷とは、ほとんどの場合、人との関係―ゆがめられ、損なわれた人格と人格の関係―から受けた傷のことである。(注1)
  • 創世記1章にあるように、神は人間を<神のかたち>に創造された。「神のかたち」とは、神ご自身の存在のあり方、つまり、父なる神、子なる神、聖霊なる神が、三つのパーソナリティーを持ちつつ、真の愛の交わりにおいて一つであることを示している。人間もそれぞれのパーソナリティを持ちながら、互いの交わりの中に生かされている存在なのである。人間は、神との交わりや人との交わりの中にあってこそ、真に生きる者とされる。しかし人は神のみことばに背いて罪を犯し、神との交わりを失い、人との交わりを失ってしまった。その結果、自分自身の中で自己分裂を経験するようになった。自己分裂というのは、人が神に罪を犯した結果として、自分が裸であることを知り、いちじくの葉で自分たちの腰の覆いを作ったことにより、神の前に裸で出ることができず、他の人の前にもありのままの姿を出すことができなくなり、自分の真の姿を見ることさえも避けてしまったということである。つまり、神との交わりと他者との交わりとから疎外され、自分自身の内部に自己疎外を生じた結果、心の傷を持つようになったと考えられる。
  • 自分自身のあるべき姿を知りつつ、そうなっていない自分自身を見ては自分をさばき、自分で自分を傷つける。また、他の人の目を気にして自分ではない自分を演出すること(パフォーマンス)によって自分を傷つけ、また他の人の批判によって傷つけられるーという自己分裂。
  • 本来、神によって造られ、神によって愛され、神によって自分自身のアイデンティティを確信できた人間が、神から離れたとき、他の不完全な、罪深い人間との関係においてアイデンティティを得なければならなくなってしまった。神から離れた人間は、特に、両親との関係において、自分の存在価値を見出さなければならなくなってしまった。その結果、この両親との関係において、「心の傷」を受けるようになってしまったと考えられる。

②親子関係における心の傷

  • ある人は、親子関係における心の傷、つまり、私たちが親から受けた影響がどのように自分の人格に影響を与えているかを<禁止令>(注2)という概念で次のように説明している。
    a.「存在するな」という禁止令・・・「この子さえいなけば、こうできるのに(こうなったのに)」
    b.「お前であるな」という禁止令・・「お前が女の子(男の子)だったらよかったのに」
    c.「近寄るな」という禁止令・・・・「今、忙しい(疲れている)から、あっちに行ってなさい」
    d.「属するな」という禁止令・・・・「お前のような人間は一家の恥さらしだ、迷惑だ」
  • 私たちは親からの言葉や態度(何気ないものから意識的なものまで)で何らかの禁止令を受けてきているーある人にとってはそれがきわめて当たり前になっているため、気づかないこともあり得る。そのような禁止令によって心に傷を受けてしまっている。それが人との関係において、また、神との関係において影響を与えているのである。
  • キリストにあって新しくされたクリスチャンの内なる生活は、祈りを通して、キリストの心に倣うものへと変えられてゆく。しかし、多くの人が豊かな祈りの生活を味わえないでいるのは、まさに人との関係から受けた傷のゆえであることが多いのである。
  • 例えば、人との関係に傷ついているとき私たちは人との間に距離を置く。もうそれ以上の傷を受けまいと人から遠ざかる。だまされた経験があると人を信用することが難しくなり、攻撃された経験があれば人を赦さなくなる。愛を感ずることのできない状況に追い詰められたことがある人は怒りを持ち続ける。そして、そのような経験はしばしば自分は誰からも必要とされていないと思い込み、落胆し、自分は愛されていない、と感じるようになるのである。
  • このような感情は性格の隅々にまで深い影響を及ぼす。神は私たち人間を他と関わりを持つ存在として造られた。人を愛し、人から愛され、人と愛を共有するよう定められている。しかし心の内に傷ゆえの痛みや怒りがくすぶっていると、この愛し(与え)、愛される(受け取る)というバランスが崩れる。祈ろうとして行き詰まるのは、この隠れた傷の痛みと失意がその原因となっていることがある。赦そうとしない心の怒りは、私たちの想像以上に私たちを害するものである。その結果、神は遠くに感じるようになり、自分のことに無関心であるように思えるのである。このように、心の傷は神との交わりとしての祈りにおいて大きく影響しているである。

③心の傷のいやし、親(人)からの禁止令を解除する方法

  • 心の傷がいやされ、親から受けた禁止令のことばを解除するためには、私たちを造られた御父のことばを絶えず聞くことが必要である。たとえば、「存在するな」という禁止令を受けた人は、それが非聖書的なことばであるゆえに、聖書のことば(神のことば、御父のことば)を受け取ることである。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを(あなたの存在を)喜ぶ」(ルカ3章22節)という御父の声を聞き、御父との交わりが深まり、御父のイメージが豊かになるにしたがって、心は癒されはじめ、それだけでなく、肉の父に対して抱いていた感情も変えられて行くのである。
  • 今日、心の傷のゆえに「弱り果てて倒れている」人々は大勢いる。イエスはそのような人々を「かわいそうに思われる」に違いない。イエス・キリストのいやしのミニトリーを見るなら、そこには、親や人々からも、また社会から疎外された人々がいる。そしてイエスはひとりひとりにかかわられたのである。(例)「ツァラアトに冒された人のいやし」(マルコ1章40~42節)、「生まれつきの盲人のいやし」(ヨハネ9章)等。
  • 親から受けた<禁止令>の責任を親に持っていってもどうにもならない。また自分を責めたところで問題は解決しない。家系の呪いとしての心の傷のいやしは、深層レベルの領域である。それゆえ、その領域におけるいやしは聖霊の力によってのみもたらされる。私たちひとり一人がそうしたいやしにあずかるだけでなく、このように、聖霊による全人的ないやしをもたらすイエスのあわれみのミニストリーのために、教会における牧会の働きに関わる人々を神は求めておられるのである。(注3)


(注1)

  • この定義は、坂野慧吉師の『スピリチュアル・ジャーニー』(いのちのことば社、1999年) 200頁参照。200~220頁において、「心の傷と交わりによるいやし」について述べられている。そこでは人が心の傷を受けるようになってしまった聖書的原因について述べられている。

(注2)
ここで言う<禁止令>とは、非聖書的なことばであり、ある意味で、神を否むことばである。もし人が禁止令を握るならば、それは三代、四代にまで影響が及ぶものである。

(注3)
今日、深層レベルのいやしについて数多くの本が出版されている。たとえば、チャールズ・クラフト著『あなたの心の傷がいやされるために』(プレイズ出版、1995年)、ニール・アンダーソンの著書、「いやし・解放・勝利」等はお勧め文献。今日、牧師が教会を牧会していくとき、複雑化した社会、問題を抱えた家族、精神的な病について、その他多くの知識とそれに関わる経験が求められる。説教するにもただ聖書の知識があれば良いというわけではない。人々の心やその必要を見抜く洞察力、時代を判断する識別力、そして何よりも、説教を聞く人々に対する愛と祈りが求められる。問題を抱えてうめき苦しむ人々の相談にのっていくことは、単に「仕事」として割り切れない。それらの人々のことがいつも心に重荷としてのしかかってくるからである。そしてそれにすべて応えることは不可能である。



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