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主は与え、主は取られる

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2. 主は与え、主は取られる

【聖書箇所】1章13~21節

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  • 神のヨブに対する「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」という評価に対して、サタンは果たしてそうだろうかと悪意をもって答えます。「いたずらに」、つまり、何の理由もなく、自分にとって何の益もなく、純粋に神を信じることがあるでしょうか。神がヨブに多くの祝福を与えているからではないでしょうか。もしそれが奪い取られたとしたら、必ず、ヨブは神をのろうに違いないとサタンは反発します。そこで神は「彼の身に手をのばしてはならない」という条件付きで、サタンの手にヨブのすべての持ち物を任せます。
  • ところで、ヨブ記には「サタン」(正確には「サーターン」שָׂטָן)という言葉が14回、1章と2章にそれぞれ7回使われています。「サタン」とはどのような存在なのでしょうか。

1. 「サタン」の正体(「サタン」と「悪魔」はどう違うのか?)

  • 1章6節をみると「神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」とありますから、いわば、天上会議の中の構成員の一員として「サタン」がいることになります(天上会議の例としては、Ⅰ列王記22章19~23節を参照)。ここでの「神の子ら」とは天的存在である御使いたちの意味で使われていると考えられます(2:1, 10/38:7)。神の諮問会議の中に、その構成員の一員か、あるいは傍聴者として冠詞付の「サタン」(שָׂטָן)と呼ばれる一員がいたことになります。まことに不思議な天上会議です。
  • そして「サタン」の存在も私たちのイメージとは随分と異なります。なぜなら、神の諮問会議の中に入ることのできる御使いの一人だからです。ところが、この「サタン」と呼ばれる存在は、他の御使いとは異なって「地を行き巡って、そこを歩き回っている」存在です。つまり「あちこち回って、人間を見ている」のです。何のために・・・?
  • 「地を行き巡って、そこを歩き回っている」サタン。地を「行き巡る」と訳されたヘブル語は「シュート」(שׁוּט)は、かつてイスラエルの民が毎朝神の与えて下さるマナを集めるために歩き回ってそれを集めたところの、その「歩き回って」が「シュート」です。ヨブ記の場合は、地上のいろいろなところを「行き巡る」意味で使われています。また、そこを「歩き回っている」と訳されたヘブル語の「歩く」を意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)には強意形のヒットパエル態が使われています。つまり、本来、神に仕えるべき御使いが人間の行状を監視する者のように、自らの意志であちらこちらと「歩き回っている」のです。ですから、「おまえはどこから来たのか」と主から尋ねられています。
  • 主に対するサタンの態度が、「シュート」(שׁוּט)と「ハーラフ」(הָלַךְ)のヒットパエルの二つのことばで良く表わされていると同時に、「シュート」という動詞には「侮る」というもうひとつの意味があります。サタンの主に対する横柄で、しかも反発的な態度はそこからも見て取れます。
  • そのようなサタンが神の諮問会議に参加しているのを見た主は、サタンに、「おまえが地を行き巡り、歩き回って来たと言うなら、当然、おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたはずであろう」と皮肉っています。なぜなら、主の目は一瞬にしてあまねく見渡すことができるからです(Ⅱ歴代誌16:9参照)。この「あまねく見渡す」という動詞も「シュート」(שׁוּט)ですが、主の「シュート」とサタンの「シュート」には雲泥の差があるのです。
  • サタンも黙っていません。主の言われることに対して悪意的です。そこが他の御使いとは異なる点です。つまり、「サタン」は悪意性をもった存在だということです。そして、はからずも、その犠牲となったのがヨブです。北森嘉蔵牧師は「ヨブ記講和」(教文館)の中で、「悪魔というのは、悪意を人格化したもの。悪意の結晶である。」と定義しています。「むべなるかな」です。

2. ヨブにふりかかった最初の災難(所有物の奪取)

  • サタンは、ヨブが「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」のは、物質的な祝福と結びついているということで、サタンは神の許容のもとでその祝福をヨブから奪い取ります。その奪取方法は人的災害と天的災害によるものでした。

    (1) 13~15節・・人的災害(アラビア南部のシェバ人の来襲)
    (2) 16節 ・・・・天的災害(神の火が天から下る=雷のこと)
    (3) 17節・・・・人的災害(ティグリス下流西に定着したカルデヤ人の来襲)
    (4) 18節・・・・天的災害(荒野からの大風)

  • 突然に襲った災害によって、自分の全財産と子どもたちのすべてを一時にして失ったヨブが悲嘆にくれたことは言うまでもありません。このことによって、神とヨブの関係は、財産や家族を媒介としない直接的なものとなったと言えます。

3. ヨブの信仰告白に見る「敬虔」の実証

  • ところが、そんな状況に置かれながらも、ヨブは神に愚痴をこぼすことなく、非難することなく、呪うこともなく、それを受け入れて、主を礼拝したのです。そしてヨブの口から出て来たのは以下のことばでした。それは神の主権性を告白した実に味わい深いことばです。

    【新改訳改訂第3版】ヨブ記1章21節

    私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。
    【主】は与え、【主】は取られる。
    【主】の御名はほむべきかな。


    この箇所をリビングバイブルは次のように訳しています。

    生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も何一つ持って行けません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。

  • 「主の御名はほめたたえられるべし」(ここでは「ほめたたえる」を意味する「バーラフ」בָּרַךְの強意の受動態が使われています)。この告白によって、ヨブの敬虔(信仰)が見事に実証されています。全財産と子どもたちが奪い取られたなら、必ず、ヨブは神を呪うに違いないと断言したサタンの思惑はみごとに打ち破られてしまいました。
  • 「母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに変えろう。」というヨブの告白にある「母」は「エーム」(אֵם)で、この言葉には「存在の出発点、分岐点」といった意味もあります。つまり、自分の存在の出発点があり、そこに戻るということを意味します。母の胎内に入ることは出来ませんが、神がその出発点であるとすれば、そこに戻り、再び始めることができるという含みがあります。すべてを失ったとしても、自分の戻るべきところがあるということは恵みであり、福音です。しかもこの告白の背景には、神こそすべてのはじまり(源)であるという信仰、同時に、神である主はどこまでも良い方、常に、良いことしかなさらない方であるいうぶれることのない信仰が存在しているのです。
  • しかし、サタンはそう簡単には引き下がりません。ヨブの所有物を打つことで神を呪わせることに失敗したサタンは、2章においては、ヨブ自身を打ちます。



2014.5.2


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