****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(10)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.10

人の霊(10)

べレーシート

●昨年(2021年)の7月29日、全国牧師会の「霊性の回復セミナー」において、「初代教会における『福音の理解』の再考」というタイトルで分かち合いました。そこで初めて語ったことは、イェシュアが復活された日に「いのちを与える御霊」となられたということです。しかし、その時に語らなかったことがあります。それは、「いのちを与える御霊」となられたイェシュアが、人の霊の中に入られたという事実です。つまり、イェシュアが「人の霊」の中に入ることによって、人の霊を回復されただけでなく、そこに御霊として入ったことで、人を「新しく造られた」者(「新創造」New Creature)とされたという事実です。シリーズ「霊の中に生きる」では、この事実がどんなに大きなことであったかをランダムに取り上げながら、今回10回目を迎えています。そして今回は、人の霊が天の御座とつながることによって天と地がつながり、神が本来ご計画し意図した創造の目的が成就しつつあること、かつ、何によっても、誰によっても、決して妨げられることのない圧倒的な勝利者として安息の中に生きることが出来るということを分かち合いたいと思います。

●前回のメッセージでは、神の前においては二人の人間しか存在しないこと、その二人の人間とは、「最初のアダム」(第一の人)と「最後のアダム」(第二の人)であることを学びました。第一の人とは神によって造られた最初の人・アダムです。第二の人は神の御子イェシュアです。この二人の中にすべての人間が括られることを話しました。イェシュアの贖いは、私たちを「最初のアダム」から「最後のアダム」に包括的に移し替えてくださったことです。そのためにはイェシュアが受肉し、三十三年半の間、罪なき生涯を送られ、受難と死によって「最初のアダム」の罪と呪いを十字架上で終結させてくださいました。そのあと葬られ、三日目に死からよみがえり、「いのちを与える御霊」となって人の霊の中に入ってくださいました。そのことによって私たちを新しく造られた者としてくださいましたが、これらの一連の贖いの出来事なしには神のご計画は実現されません。今回は、私たちが霊の中に生きることによって、初めて「天と地」がつながるという話をしたいと思います。下図をご覧ください。

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1. 人の霊の中での御霊の奥義的な務め

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●「最後のアダム」であるイェシュアの地における奥義的務めは今も継続されています。その務めは死から復活されたイェシュアが、「いのちを与える御霊」となって人の霊の中に内住されたことによるものです(Ⅰコリ15:45、ヨハネ20:22、コロ1:27)。これらの聖句はあえて括弧の中に入れていますが、とても重要で、それを確認しておくことをお勧めいたします。特に、人の霊の中におられるキリストは奥義(コロ1:27)であることをパウロは語っています。「いのちを与える御霊」は御霊ご自身でもあり、またキリストの霊、御父の霊でもあります。なぜなら、神の本質は霊だからです。すべてを含む霊が人の霊の中に入って人にいのちを与えるために、神の一連の出来事がすべて必要だったのです。そのうちの一つが欠けても、人を新しく創造することはできなかったのです。いのちを与える御霊が人の霊とミングリングすることで、私たちが神の子であることを証しすることができるのです(ローマ8:16)。またここからが大切な事柄なのですが、人の霊の中におられる御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、神のみこころにしたがってとりなしていてくださっているという事実です。このとりなしの目的は何なのでしょうか。それは、人を「御子のかたちと同じ姿に」(ローマ8:29)造り変えるためなのです。

【新改訳2017】ローマ人の手紙8章26~29節
26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

●「人の霊」の「人」とは、単なる個人を意味しているのではありません。確かに個人も含んではいますが、むしろ集合的・団体的な人なのです。混乱しないでいただきたいのですが、パウロはこの「人」を、「キリストと栄光をともに受ける共同相続人(複数)」(ローマ8:17)、「神の子どもたち」(同8:19)、「御霊の初穂をいただいている私たち」(同8:23)、「聖徒たち」(同8:27)、「神を愛する人たち」、「神のご計画にしたがって召された人たち」(同8:28)、「多くの兄弟たち」、「(神が)あらかじめ知っている人たち」、「あらかじめ定めた人たち」、「義と認めた人たち」(同8:29~30)、「神に選ばれた者たち」(同8:33)と表現しています。このように、すべてが複数形です。私たちは個人ではなく、包括的、かつ集合的存在なのです。

●これらの複数形は「教会」を構成する人々ですが、私個人としては、「教会」を「エックレーシア」という言葉で表現したいと思います。「教会」という訳語は、他に、「集会」、「会衆」、「召会」、「召衆」などと訳されています。しかし第一情報である原語はただ一つです。それは(エクレシアではなく)「エックレーシア」(ἐκκλησία)です。これも混乱に一役買ってしまうかもしれませんが、「エックレーシア」はキリストをかしらとする「キリストのからだ」を意味します。あるいは花婿なるキリストの「花嫁」とも言えます。その「キリストのからだ」を、あるいは「キリストの花嫁」を、「御子のかたちと同じ姿に」造り変えるために、御霊が人の霊の中においてとりなしの務めをしてくださっているのです。この御霊によるとりなしは、私たちが異言で祈ることとは関係なく、恵みの事実としてなされているのです。

●パウロはまた、8章28節で「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」と述べています。有名な聖句ですが、ここでの「すべてのこと」の中には、神の敵の諸々の働きも入っています。その敵の活動さえも、主の主権的な働きによって「益となる」としています。その「益」とは、主にある私たちが「御子のかたちと同じ姿になる」ことを意味しているのです。

●御子のかたちの「かたち」はヘブル語の「ツェレム」(צֶלֶם)です。ツェレムは御子を目に見えるかたちとして表現すること、あるいは、御子を入れる「器」となることを意味しています。御子を表現する人を「外なる人」とも言い換えられます。他方、御子と同じ姿の「似姿」はヘブル語の「デムート」(דְּמוּת)です。これは「内なる人」とも言い換えられます。ちなみに、この二つのことばは、神が神格会議で話し合われたものでした。

【新改訳2017】創世記 1章26節
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

神の「かたち」が「ツェレム」、「似姿」が「デムート」です。特に神の「似姿」は権威を与えられた「王なる祭司の務め」を意味します。この務めはエジプトから解放されたイスラエルの民に対する使命として期待された務めでした。イェシュアが復活されたことで、私たちも長兄である御子と同じ務めをする兄弟とされたのです。その長兄であるイェシュアの務めとは「王なる祭司の務め」です。それは創世記2章15節に「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」とあるように、「最初のアダム」に与えられた務めですが、最初のアダムは神のかたちに似せて造られた存在であるということです。その反対ではありません。話を戻しますが、アダムに与えられた「耕す」(「アーヴァド」עָבַד)という務めが「祭司としての務め」であり、「守る」(「シャーマル」שָׁמַר)という務めが「王としての務め」です。この二つで「王なる祭司の務め」をすることが「最初のアダム」に与えられていたとするなら、「最後のアダム」であるイェシュアがそれを回復することは当然のことです。

●「祭司」とは「神に仕える人」です。「仕える」といっても、神のために何かをするということではなく、いつも神の御前にいる人のことです。神とともに歩み、神のことばを食べることで、神を知って、神と一つになる人。多くの時間を神とともに過ごすことで神に満たされ、神の豊かな知恵と知識に満たされている人を言います。これが祭司としての務めであり、これが「御子の似姿(דְּמוּת)となる」ということです。こうした務めを回復させるために、人の霊の中におられる御霊が、継続的にとりなしておられるのです。私たちが霊の中に生きるとは、王なる祭司として整えられるように造り変えられることを意味します。しかもこの事実を霊の中で信じることが、聖書のいう「信仰」(「ピスティス」πίστις)です。

●すべては、聖書は「恩寵先行・信仰後続の論理」が基調となっています。神のなされた事実が信仰に先立つという論理です。神のなされた事実を正しく理解していなければ、信仰の内実も怪しくなります。たとえば、「益」ということばが、私たちにとって都合の良い肉の「益」と理解されてしまいます。神の事実が信仰の前に先立たなければなりません。そうするときに、信仰が実体化される(=目に見えるかたちになる)のです。つまり、「御子のかたちと同じ姿になる」ということが目に見えるものとなっていくのです。

●「いのちを与える御霊の務め」は地における奥義的な務めと言えます。パウロが「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と宣言しているように、すでに神による新創造(New Creature)が開始されています。「古いものは過ぎ去って」の「過ぎ去って」はアオリスト(過去)です。しかし「新しくなった」の「なった」(「ギノマイ」γίνομαι)は現在完了形で、新しくなったことが今も継続していることを意味しています。それは、人の霊の中にある御霊の奥義的務めによって継続されているのです。人の霊は神と人がともに住む家そのものであり、それは御国(神の国)そのものと言えます。それゆえイェシュアは、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と語っています。キリストは人の霊を新しく回復(新創造)して、神の国は今もなお「御子のかたちと同じ姿になる」ことに向かって継続しているのです。これが地における御霊の奥義的な務めです。ちなみに、旧約の幕屋を造る目的は「わたしは彼らのただ中に住む」(出25:8)ことでしたが、それは、人の霊の中にキリストが「いのちを与える御霊」となって入ることで神と人がともに住むということの予型だったのです。

2. 天の御座に着かれたキリストの務め

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●さて、地の務めと同時に、復活されたキリストは昇天され、父の右の座に着かれて、天における務めをしておられます。私たちの霊の中にいると同時に、天においても同じキリストが存在して、私たちのためにとりなしをしておられるのです。キリストの「天における務め」と「地における務め」は、三一の神がそうであるように、相互内在、かつ同時同存の務めです。頭と身体が繋がっているように、天と地はキリストによって繋がり、一体となるのです(創世記1:1、エペソ1:10を参照)。ただ天におけるキリストの務めの際立った特徴は、私たちが圧倒的な勝利者となるように、主権をもってとりなしておられるということです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章33~35、37節
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
37 ・・・これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

●復活されたイェシュアが昇天し、神の右の座においてなしている天における務めは、教会のかしらとしての主権的な務めです。それは神の大能によってすべてのものをすべてのもので満たしてエックレーシア(ἐκκλησία)を建て上げる務めなのです。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章20~23節
20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

●23節に「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」とあります。「満たす方」と訳された「ホ・プレーローマ」(πλήρωμα)は、「満ちている」を意味する動詞「プレーロー」(πληρόω)の名詞です。「満ちておられる」は「プレーロー」(πληρόω)の分詞で「満ち満ちている、充満している」状態を意味します。「教会、集会、召会、召衆」とも訳される「エックレーシア」は「キリストの充満」です。聖霊で満たされることも、キリストの充満によって満たされることも、同じく「プレーロー」(πληρόω)です。エックレーシアは人間的な組織や制度によらない、「神の現臨、霊的なあふれそのもの」です。

●天の御座は比類なきものであり、すべてのものをキリストの足の下に従わせることのできる支配と権威の座です。Ⅰ歴代誌 29章23節に「こうしてソロモンは【主】の王座に就き、父ダビデに代わって王となった。彼は栄え、全イスラエルは彼に聞き従った。」とあります。「ソロモンは【主】の王座に就き」とは、エックレーシアのかしらとしてのキリストの型です。ソロモンの王座はその影にすぎません。そのような意味で、イェシュアは「王としての神の座に着かれた」と言うことができます。

●「外なる人」である御子のかたちも、「内なる人」である御子の似姿も、いずれも私たちの霊の中におられる御霊のとりなしによって造り変えられていくのです。その造り変えられた石が「新しいエルサレム」(黙示録21章)においては、様々な宝石と真珠となります。宝石にしても真珠にしても、それらは石が造り変えられることによってできるものです。イスラエルの民は「12の宝石」に、エックレーシアは「12の真珠」に造り変えられています。それは人が永遠の「王である祭司」として造り変えられたことがたとえられているのです。

3. すべての名にまさる「イェシュアの御名」

●御座におけるキリストには、「すべての名にまさる名であるイェシュアの名(御名)」が与えられています。その根拠となる理由が以下の箇所に記されています。その理由とは、全き謙遜です。イェシュアの全き謙遜のゆえに、神は「すべての名にまさる名」、すなわち「イェシュアの御名」(「シェーム・イェーシューアשֵׁם יֵשׁוּעַ)という名を与えたのです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~9節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました

●復活前にもイェシュアという名前で呼ばれていたと思われますが、復活後には「イェシュアの御名」という名前が与えられたのです。この御名こそ「すべての名にまさる名」なのです。それゆえ、私たちは「イェシュアの御名」、「シェーム・イェーシューア」(שֵׁם יֵשׁוּעַ)と呼び求めましょう。いつでも、どこでも、私たちがこの名を呼び求めるなら、救われるだけでなく、危機的な状況からも救出されます。また神の知恵と知識の豊かさに霊の目を開かせていただけるだけでなく、圧倒的な勝利者としていただけるのです。

●17世紀、イギリスのバプテスト教会が生んだ有名な説教家、チャールズ・ハンス・スポルジョン(1834~1892年)は次のような体験を語っています。

  • ある日、彼は寝たきりの老婦人の家に呼ばれました。老婦人は栄養失調で今にも死にそうな状態でした。スポルジョンが彼女の家を訪れると、部屋の中には額縁に入れられた一枚の文書が壁に掛けられていました。彼は彼女に「これはあなたのものですか。」と尋ねました。彼女は「そうです。」と答えました。そして彼女はかつて自分がイギリスの貴族の家でメイドとして働いており、その貴族の家の奥様が亡くなられる前に、それを自分にくれたことをスポルジョンに話しました。彼女はなんとその亡くなった夫人に半世紀(50年)近くもの間仕えてきたのでした。そしてその奥様がくれた文書を大切に額に入れて、その奥様が亡くなられて以来10年もの間、壁にかけてあるのです、と彼女は説明しました。
  • スポルジョンは「それを私にお貸し願いませんか。もっと詳しくそれを調べてみたいのです。」字を読むことができなかったその婦人は言いました。「ええ、いいですよ。ただ、必ずそれをお返しください」と。スポルジョンはその筋の権威のところにその文書を持って行って調べてもらいました。それはなんと遺産でした。イギリスの貴族の夫人が長い間仕えてくれたメイドに家とお金を遺していたのでした。老婦人はたった一部屋しかない木の箱のような小さな家に住み、飢えて死にそうになっていたのです。しかしながら、彼女には十分に世話をしてもらい、立派な家に住むことのできる遺産が与えられていたのです。そのことを示す文書を彼女は知らずにずっと壁に掛けていたのです。
  • スポルジョンはその遺産が実際に彼女のものとして使えるように手助けをしました。彼女がもっと早くにそのことを知っていれば、得られたであろう益は大きかったはずです。知らないばかりに、みじめな生活をしていたのです。

●この話は今日のクリスチャンを代弁しているかもしれません。私たちは偉大な遺産を与えられているにもかかわらず、みじめな生活をしているかもしれないのです。キリストによって与えられている遺産の文書をしっかりと読んでいないかもしれません。あるいは読んでいても、目がふさがれていて理解できないのかもしれません。信じる者に与えられている神の偉大な力、それは「イェシュアの御名」という権威なのです。

ベアハリート

●最後に使徒の働き3章の話を取り上げ、「イェシュアの御名」の権威について印象づけられたいと思います。

【新改訳2017】使徒の働き3章1~8節
1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。

●この話は、物乞いをしていた足の不自由な一人の男(40歳)の話のように見えます。しかしそうではありません。これはイスラエルの民を預言している話なのです。「足の不自由な人」とその人が「40歳」(使徒4:22)であったことが、そのことを物語っています。ペテロは彼に対して「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じます。するとその男は「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、二人と一緒に宮に入って行った」のです。この話は、やがて終わりの日に、イスラエルの残りの民が「恵みと嘆願の霊」によって主に立ち返り、メシア王国に入って行くという預言を啓示しています。ペテロも「この人が治って直ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名による」ということを語っています。この御名以外にはイスラエルは救われないことを語っています。イスラエルの民が悔い改めて救われるという出来事は、エゼキエル書の「枯れた骨」の幻のように(37章)、復活中の復活を思わせるほどの出来事ですが、それは天の御座におられる「イェシュアの御名」によるのです。このイェシュアの御名にこそ力があるのです。ですから、私たちはこのイェシュアの御名の権威を思い起こし、「シェーム・イェーシューア」(שֵׁם יֵשׁוּעַ)と呼び求めるべきです。私たちはキリストとともに死に、キリストとともによみがえり、天におけるキリストとともに権威の立場に座している者だからです。

三一の神は私たちの霊とともにあります。

2022.9.4
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