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人の霊(4)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.4

人の霊(4)

べレーシート

聖書の最高の教えは「霊の中で生きる」ことです。それは、霊とたましいとを見分けてそれを区別することができることを意味しています。また「霊の中で生きる」ことは、ベタニアのマリアのように御霊に属する人として「キリストの奥義」を悟ることでもあります。使徒パウロは以下のように言っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章14節、3章1~3節
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

●ここには三種類の人が記されています。一つは「生まれながらの人」です。これはキリストを信じていない人のことで、御霊に属することが理解できない人です。もう二つはキリストを信じて神の御霊を受けている人で、「肉に属する人」と「御霊に属する人」です。「肉に属する人」とはそれまでの自分の肉(からだとたましいー知・情・意―)に支配されている人のことで「キリストにある幼子」です。キリストがもたらしてくださった祝福が分からずに、自分の肉にしがみついている者たちです。一方、御霊に属する者とはすでにキリストがなされたことを信じて、上のものを求めている者たちのことです。それゆえ、神のうちに隠されているいのちを知り、キリストの奥義を悟ることができる者たちです。

●今回も前回、前々回に引き続いて「霊の中で聖書を読む」ということがどういうことであるかを訓練したいと思います。以下の聖書箇所を読んで、聖霊がそこで指し示そうとしていることを見つけ出してください。答えが当ったとか間違ったとかで一喜一憂しないようにしましょう。なぜなら、御霊の示すことに信仰をもって従うことができるかどうかが大切だからです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章1~14節〔五千人の給食のしるし
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。


1. 「五つのパンと二匹の魚」の本体 

●五つのパンと二匹の魚で五千人の人々が養われたという話ですが、これはキリストを証しする「しるし」です。しるしそのものが、「霊であり、いのち」をもたらすのです。イェシュアの言動のすべては、例外なく「御国」に関するものです。「たましい」(心)で読むなら、「五つのパンと二匹の魚」は一人の少年が持っていたわずかな食べ物としか思えません。ところが「霊」で読むなら、あることを指し示していることが分かるのです。

画像の説明

●ズバリ、「五つのパンと二匹の魚」が指し示しているのは、「モーセ五書と預言書と諸書」のことです。ユダヤ教では聖書を「タナフ」と言います。内容はキリスト教の旧約聖書ですが、構成が異なります。キリスト教の旧約聖書は四つの区分〔①モーセ五書(創世記~申命記)、②歴史書(ヨシュア記~エステル書)、③聖文書(ヨブ記~雅歌)、④預言書(イザヤ書~マラキ書)〕です。ところが、タナフは三つの区分〔①モーセ五書、②預言書(ヨシュア記~マラキ書)、③聖文書(詩篇など) 〕から成っています。

●ユダヤ教で神殿に仕えるサドカイ派はモーセ五書のみを正典としています。後の「預言書」と「聖文書」はその解釈および参考書としての位置づけです。しかし、律法を重んじるパリサイ派はモーセ五書のみならず、預言書も諸書も正典としています。共通するのは「モーセ五書」です。この「モーセ五書」が、五千人の給食のしるしでは「五つのパン」にたとえられています。そして、「預言書」と「聖文書」は「二匹の魚」にたとえられています。つまり「五つのパンと二匹の魚」はタナフを指し示しているのです。弟子のアンデレは、「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」とイェシュアに現状を訴えています。ところがイェシュアはそれを取って、大勢の群衆の望むだけを与えられたのです。群集はイェシュアがなさったことを見て、イェシュアのことを「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いましたが、これはたましいの反応です。霊の反応ではありません。群衆はこれらのパンと魚を文字通りの意味として理解したからです。ところがそのしるし(奇蹟)の後で、イェシュアがこのしるしの意味を教えました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)と。これを聞いた多くの弟子たちは「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、つまずいてイェシュアから離れて行きました。

●この箇所で最も重要なフレーズは12節のイェシュアのことばです。それは「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」です。このしるしは、タナフが当時の人々にいのちを与えることができないことを示しているのです。と同時に、イェシュアを食べる者はイェシュアによって生きること、イェシュアが与えるいのちのパンは無尽蔵であるということを啓示する出来事だったのです。「五つのパン」が「五千人」の食を満たしました。これは「五」の千倍です。ヘブル語の「千」は「一」と同じく「アーレフ」(א)で表します。ヘブル語の「千」は最高の単位ですが、それは同時に「完全で終わりがない」、つまり「永遠の無尽蔵」を意味するのです。「モーセ五書」は人を生かすことはできないが、「五千」という数は単なる五千ではなく、イェシュアが与えるパンが神のことばとして無尽蔵なものであることを啓示しているのです。

2.「集める」という語彙の本意

●イェシュアが「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」と言って、弟子たちが集めると、「大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」とあります。それが意味することはこうです。

(1) 「かご」と訳された語彙は聖書では二つあります。一つは「コフィノス」(κόφινος)、もう一つは「スピュリス」(σπυρίς)です。ここでは前者の「コフィノス」(ヘブル語は「サル」סַל)で、地のすべてを含むキリストを表すメタファーです。
(2) 「十二」は「神の惜しみない恵み、いのちを与える神の完全で究極的な豊かさ」を表わす象徴数です。
(3) 「いっぱいになる」は「キリストによる豊穣、充溢、盈満、無尽蔵としてのあふれ」を意味します。
(4) 「集める」は「スナゴー」(συνάγω)で、「天からのパンを集めて、それを食べることで生きる」ことを意味します。それはキリストに「とどまる」「住む」ことをも意味します。しかもここでの「集める」はアオリスト命令形で、自覚的に、主体的に「集める」ことが命じられています。このことを使徒パウロは、以下のように語っています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)。このことを【恩寵先行・信仰後続の論理】と言います。パウロはすでにキリストによって与えられたものを無駄にすることなく、それを獲得しようとして追求していると言っているのです。この話は、ヨシュア記が啓示している「乳と蜜の流れる地」を嗣業とすることと似ています。


3.「乳と蜜の流れる地」はキリスト

●「乳と蜜の流れる地」―何とすばらしい表現でしょうか。この詩的な表現はだれが考えたのでしょうか。その発案者は神ご自身です。旧約で20回ほど使われていますが、その初出箇所は、主がモーセをホレブ山で召した時に言われました。「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである」(出 3:8)。モーセの死後、その従者のヨシュアが、新しい世代を引き連れてヨルダン河を渡り、カナンの地に入って行ってその地を嗣業とする物語が「ヨシュア記」です。神が約束された「良い地」である「乳と蜜の流れる地」について、より詳しく見ていきたいと思います。それらはすべて、キリストのことを啓示しているのです。申命記からこの地について考えてみたいと思います。そのことを話す前に、パウロが御子キリストについて語っていることを読みましょう。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙1章15~17節
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ
16 権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

●イェシュア自身が「聖書は、わたしについて証ししているものです」(ヨハネ5:39)と言っている通り、この視点は聖書を読む上でとても大切です。そのことを踏まえながら、以下のみことばを読んでください。

【新改訳2017】申命記8章7~9節
7 あなたの神、【主】があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
9 そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。

(1) 豊穣の地

●その地は「良い地」であって、エジプトと違って谷間や山があり、こんこんと湧き出る水の流れと泉と深い淵があります。神の豊かさを表わす無尽蔵の象徴は「泉」です。イェシュアはこのシンボルをよく使いました。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)。「」は自分の心を満たすだけでなく、自分から溢れ、流れ出て、人にも分かち与えることのできるものです。ですからイェシュアは「決して渇くことがない」と言われたのです。

●イスラエルの民がエジプトにいたときには、エジプトは山や谷がありませんから、水は川から汲んで自分たちのところに運ばなければなりませんでした。しかし、カナンの地は山あり、谷ありですから、水を運んで来なくとも流れて来る地なのです。しかも湧き出る水の流れと泉と深い淵によって地は潤され、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ油と蜜があり、多くの実を結ぶ収穫豊かな地です。何一つ不足のない豊かなものが保障されている地です。またその地は「鉄」や「銅」など多くの隠れた宝を掘り出すことのできる豊かな地でもあります。その地はキリストそのものを啓示しています

神の約束の地は無尽蔵な地であり、結実豊かな地です。満ち足りることのできる地なのです。ちょっぴり満足するというのではなく、常に、絶えず、すべてにおいて満ち足りることのできる地であり、それはすべてキリストを表すたとえなのです。使徒パウロは神の尺度に従った表現を好んで使った人です。「あふれるばかりの」「あふれるほどに」「溢れ出て」「勝ち得て余りある」「絶大な」「はるかにまさる」「測り知ることのできない」「ますます」「満ち溢れる」といった表現です。これらの表現はキリストにのみ当てはまるのです。

●再度申命記8章に戻って、神が与えてくださる良い地について見てみましょう。「そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地」とあるように、神の嗣業としての地は目に見えない宝の山だということです。無尽蔵の富が眠っています。ですから、それを掘り出す者がいなければなりません。使徒パウロはそうした霊的な無尽蔵の富を掘り出した人です。私たちには天にある霊的な富がキリストにあってすでに与えられているのですが、鉄や青銅のような価値あるものを石や山から掘り出すことが必要なのです。どんなに掘り出したとしても無尽蔵なのですから、無くなりません。この世のものは無尽蔵ということはありません。掘り尽くしていつかは無くなります。しかし霊の世界では私たちの知らない真理が聖書の中に埋もれ隠されているのです。そのことが「パンの奇蹟」での「集める」に相当します。いのちを与える神のことばは無尽蔵なのです。

(2) 恩寵の地

【新改訳2017】申命記11章9~12節
9 また、【主】があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われたその土地、すなわち、乳と蜜の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
10 なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。エジプトであなたは野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。
11 しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。
12 そこは、あなたの神、【主】が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、【主】が、絶えずその上に目をとどめておられる地である。

●エジプトでは自分の力で野菜の種を蒔き、自分の力で水をやらなければなりませんでした。すべて「自分の力」が求められる地でした。しかし「乳と蜜の流れる地」は「神の恵みによってすべてが与えられる地」です。しかも「主が絶えずその上に目をとどめておられる地」とあります。使徒パウロは「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)と述べています。「豊かさの中から」ではなく「豊かさにしたがって」、つまり「それにふさわしく」という意味であり、しかも「必要をすべて」とあります。文字通りの「すべて」なのです。キリストこそ私たちのすべてとなるのです。

●以上のように、良い地の測り知れない豊かさが、キリストによってすでに与えられています。「乳と蜜の流れる地」は「天上にあるすべての霊的祝福をもって祝福してくださった」(エペソ1:3)という実体の影です。それゆえ、私たちがその祝福を楽しむためには、私たちが常にキリストのうちに(キリストによって、キリストのために)ある必要があります。それは私たちが「霊の中に生きる」ことを意味します。私たちはキリストにある測り知れない豊かさを無駄にしていることはないでしょうか。信仰によってそれを得ることができるにもかかわらずです。

4. イェシュアのことばを信じて生きる

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章1~9節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
4 【本節欠如】 
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

●「ベテスダ」(בֵּית חַסְדָּא)とは「恵みの家」という意味です。「五千人の給食」のたとえでは「五つのパンと二匹の魚」、つまり、文字(もんじ)としてのみことばは人を生かすことができないことを啓示していました。ここでも「恵みの家」という池は名ばかりで、人を生かす場所にはなっていなかったのです。時は「過越の祭り」の時、イェシュアはこのベテスダに立ち寄り、三十八年間も病気であった人に声をかけられたのです。イェシュアの語ることばは「霊であり、いのち」です。つまりイェシュアの語ることばは、書き記された文字としての「ロゴス」ではなく「レーマ」です。これは信仰をもって聞く時に神の力が放たれます。ここでは「良くなりたいか」と「起きて床を取り上げて、歩きなさい」ということばがレーマです。このレーマを信仰をもって聞くことが、「霊の中に生きる」ことなのです。肉は何の力もありません。つまり、「理解の型紙」としての人間的な判断は何の力もないばかりか、つまずいてしまいます。反対に、霊の中で聞く神のレーマはつまずくことなく信じることができるのです。「たましい」で聞くことと、「霊」で聞くことの違いがここにあります。

●イェシュアは多くの病人がいたにもかかわらず、なにゆえに「三十八年も病気であった人」に声をかけたのでしょうか。そこにもしるしがあります。「三十八年」というのは、イスラエルの民がエジプトを出て神の約束の地であるカナンに向かったはずなのに、第一世代の者たちが荒野で死んでしまった不信仰の期間であったのです。

【新改訳2017】申命記 2章14節
カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。【主】が彼らについて誓われたとおりであった。

●モーセは神が約束されたカナンの地がどのような地であるかを探るために、12の部族からそれぞれひとりずつを選んで斥候として遣わしました。選ばれた12人の斥候は40日間もかけてその地を探ったのです。エジプトから連れ出された民たちの中で誰一人その地を見た者はいなかったのです。モーセ自身も然りでした。斥候たちの報告は、そこはまことに乳と蜜が流れていて、すばらしく良い地だが、その地の民は力が強く、その町々は城壁があって、そこに住む民はみな背が高い者たちであるというものでした。この報告に基づいて、その地を占領することはとてもできないという者たちと、神が与えると約束したのだから必ず占領できるという者たちとに、意見が二分しました。その結果、イスラエルの民は38年間荒野をさまようことになったのです。その背景を「三十八年」ということばが意味しているのです。単に一人の人ということではなく、イスラエルを代表しているのです。

●「良くなりたいか」というイェシュアのことばも信仰を呼び起こす「霊のことば」です。彼は肉の現実を話しますが、イェシュアはその人の中に霊のことばを語りました。それが「起きて床を取り上げ、歩きなさい」でした。するとどうでしょう。その人は起きて床を取り上げて、歩き出したのです。信仰とはキリストのことば(レーマ)を聞くことから始まるのです。霊の中でキリストのことばを聞くとは、肉(理解の型紙をもった心)で聞くのではないということです。心では理解できないことでも、それを信じることによって神の力がその人に解き放たれるのです。信仰とはキリストのことばを人の霊の中で聞くことで生じるのです。心ではありません。心は曲者です。心はサタンが足場を築いている場であり、心に従うと信じることはできなくなるのです。

●イェシュアのことば「起きて床を取り上げ、歩きなさい」は「霊であり、いのち」をもたらすレーマです。このフレーズには、三つの動詞による命令形があります。

(1)「起きて」は「起きる」(「クーム」קוּם)の現在命令形。復活を意味する語彙です。つまり、「あなたがキリストとともによみがえらされたこと」を信じることを命じています。
(2)「(床を)取り上げ」は「取り上げる」(「ラーカハ」לָקַח)のアオリスト命令形。「床」は「眠る(死ぬ)」を意味する名詞「シャーハブ」(שָׁכַב)で、「床」はこれまで自分を縛ってきた諸力を意味します。それを主体的・自覚的に取り払うことを意味しています。「ラーカハ」は結婚用語でもあります。それはキリストと結びつくことを意味するのです。
(3)「歩きなさい」は「歩く」(「ハーラフ」הָלַךְ)の現在命令形。信仰による新しい歩みを促すことばです。

●イェシュアのことばに信仰をもって従うなら神の奇蹟が起こります。「床」は死をイメージさせます。「床を取り上げる」とは新しいいのちにあずかり続けるために、古きものを自発的に取り上げ(取り去る)ことを意味します。つまり、復活の力を信仰によって解き放つことを「歩く」ということばで表しています。不信仰によって約束の地カナンに入れなかった者たちを象徴する「三十八年の病人」が、イェシュアによって生き返ることを預言しているしるしなのです。このしるしは文字(もんじ)としての聖書ではなく、イェシュアによる「いのちを与える御霊」によって新しく造られた者として生きることを促しているのです。

●私たちはキリストにあって「新しく造られた者」(Ⅱコリ5:17)であることを意識する必要があります。そのためには、「上にあるものを求める」必要があります。「上にあるもの」とは、死んでよみがえられて「神の右の座に着いておられるキリストにあるいのち」です。そこにすでに「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:1~4)からです。やがて「キリストが現れる」時に、「私たちも栄光のうちに現れる」(将来)からです。キリストとともに神のうちに隠されている私たちのいのちは、すでに完成されて、守られているのです。

三一の神が私たちの霊とともにおられます

2022.6.12
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