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人をえこひいきしてはならない

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4. 人をえこひいきしてはならない

【聖書箇所】2章1~13節

ベレーシート

  • ヤコブの手紙は、御国の民とされた者たちが、この世において、あるいは同じ信仰に立つ者同志とどのようなかかわりをもって生きるべきか。そのための実際的、実践的な指導書です。今回は、ヤコブの手紙2章1~13節(特に1節)にある「えこひいき」というテーマに焦点を当ててみたいと思います。「えこひいき」ということばは、「偏見」「差別」「分け隔て」「不平等」「特別待遇」「お気に入り」「偏愛」「なおざり」といった言葉にも言い換えられます。ヤコブの手紙では3回、この言葉が登場します(2:1, 9、3:17)。
  • ところで、「えこひいき」というテーマを考える前に、あなたは「神がえこひいきされる方」だと思いますか、それとも「えこひいきなどされない方」だと思いますか。思う所を正直に話し合ってみましょう。

1. えこひいきの諸相

  • かなり以前の「朝日新聞」に、小中学生の約30パーセントが親や教師に対して暴力をふるいたい気持ちがあるという総理府の調査結果が掲載されていました。実際に教師に対して暴力を加えた生徒は全体の1.5パーセントとごく少数に過ぎなかったのですが、心の中で場合によっては殴っても構わない」と考えている生徒は30パーセントもいることが分かったということです。しかもそう考えているのは男子ではなく、女子の方が多いという結果でした。
  • その理由はいろいろありますが、最も多い理由は何かと言えば、「先生がえこひいきする」というのが圧倒的でした(51.4%)。ある生徒が先生からえこひいきされることによって、同輩や先輩たちから嫌がらせやシカトをされるのです。学校だけでなく、職場でもこうしたことが日常茶飯事なのです。えこひいきが嫌われる反面、えこひいきされることを自ら求めて、上司に気に入られるために、あるいは「コネ作り」のために、「媚びたり」「へつらったり」「ごまをすったり」「お世辞を言ったり」する。そのことによって、上の者から目をかけてもらおうとするのを、しばしば見たり、聞いたりします。逆に、こちらが求めもしないのに、勝手に「えこひいき」されることで多大な迷惑をこうむっているという人もいます。いずれにしても、「えこひいき」はいつの時代にもある問題だということです。
  • ちなみに、初代教会にもその問題が起こりました。そして、使徒たちはこの問題を早急に解決しようとしたのです。

【新改訳2017】  使徒の働き 6章1節
そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

  • 聖書に見られる「えこひいき」の例

(1) ヤコブの11番目の息子ヨセフに対する偏愛(創世記37:4)
「彼の兄たちは、父が兄弟たちの誰よりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」

①「偏愛の理由」・・年寄り子であったこと。愛する妻ラケルの子であったこと。
②「偏愛の証拠」・・長袖の着物(カラフルな着物、上等な長服)を着せた。
③「偏愛の結果」・・兄弟たちから妬まれ、憎まれたヨセフは、エジプトに行く行商人に売られてしまった(長男ルベンの提言で殺されることは免れたが)。

(2) ヤコブの父イサクと母リベカも、双子の兄弟をそれぞれ偏愛しました(イサクはエサウを、リべカはヤコブを)。

  • 神は人間の偏愛をご自身の計画の中に取り込んで善いことに変えてしまいますが、一般的には、偏愛は当事者たちにとっては、決して良い結果を生まないということです。たとえ、親や教師が、子や生徒に対して平等にしているつもりであっても、子どもや生徒から見れば、不公平に見えることが多いのです。特に、子どもが多い家庭は大変です。上の子のお古は下の子へという構造、不公平感が残ります。また親の無遠慮な評価によって兄弟同士が比較され、心に傷をつくってしまうことも多いのです。

●さて、ヤコブの手紙2章1節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】
私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

  • 「私の兄弟たち」、あるいは「愛する兄弟たち」、「兄弟たち」という呼びかけは、ヤコブの手紙の場合、区分点になっています。確認してみましょう。⇒1章2節、1章19節、2章1節、2章14節、3章1節、4章11節、5章7節、5章9節、5章12節、5章19節。
  • 御国の民とされた成熟した者の生き方は、「人を偏り見ない」ということです。偏食は子どもの特徴ですが、大人になっても偏食を続けるならば、健康な体をつくることはできません。偏食は直さなければなりません。それと同様に、人に対する好き嫌いの激しい人も偏愛を直さなければならないのです。教会という一つの共同社会における人間関係の中で、「えこひいき」は共同体そのものを壊すからです。キリスト者の成熟さは、華やかな活動の中にではなく、きわめて身近な人間関係の中で、えこひいきをしないということに見られるのです。
  • 当時の初代教会の実態は、貧富の差が大きかったようです。お金持ち、この世の権力者、有名人という理由で、その人に特別な注意を払うということがあったようです。教会にこの世と同じ価値観が入り、それがまかり通る懸念がありました。自分にとって都合のいい人だけを身近に置き、あまり好ましくない人をできるだけ遠ざけようとする誘惑が私たちのうちにあるからです。今日においても、学歴とか、育った環境とか、病気などで偏見をもってはならないのです。
  • 人種的偏見、地域的偏見(都会/田舎)、学歴的偏見、身体的偏見、職業的偏見、経済的偏見・・など。聖書はそうした偏見を非難しています。なぜなら、それは教会内にさまざまなバリア(障壁)をつくることで神の家とはならないからです。しかしこの世においてはそうした偏見(バリア)はまかり通っています。教会はそうした偏見がぬぐい去られなければならない唯一の場所なのです。

2. 公平さという概念

  • 偏愛、偏見の反対語としての「公平」「公正」ということについて少し考えてみたいと思います。特に、教育界においてはこのことは重要です。河合隼雄という精神科医が「母性社会の日本の病理」という本の中で次のように述べています。

「教育に携わる者にとって必ず直面する問題がある。それは能力主義か平等主義かという問題である。平等、あるいは公平という概念のあり方も、欧米と日本とでは食い違いがある。例えば、日本の社会などでは、同時に雇った人には公平に同じ給料が払われるのは当たり前と考える。ところがアメリカは違う。働きの多寡、能力を無視して給料を同じくするのは不公平であると考える。・・そこには二つの原理がある。つまり母性原理に基づく公平さと父性原理に基づく公平さである。」

  • 父性原理に基づく公平さ」とは、その人の能力に相応した扱いをすることが公平と考える。その前提として、個人の能力に対する評価がある。能力別に分けて学習することが公平で、学習効果の点からも効率が良い。落第や飛び級があるのもこうした観点からである。ただ、能力がない者に対しては劣等感という傷を与えることになる。「母性原理に基づく公平さ」とは、その人の能力の差に関係なく平等に学習することが公平と考える。学習効率としては悪い。さらには、本当の自主性や主体性は育たない。
  • この二つの原理に対して、優劣を簡単に決めることはできません。おそらく相補性の関係を持っていると考えます。例えば、日本の母性原理に基づく公平さによって、教育の機会が均等に与えられていることは評価すべきですが、反面、そうした表面的な平等性が強調されればされるほど、裏では人と「差をつける」ことにも評価が置かれ、その結果、分け隔てという偏見が生まれているという構造になっています。いずれにしても、双方に人間中心があることは否めません。したがって、二つの原理をもってしても「えこひいき」の問題を解決することはできないのです。

3. 栄光の主イエス・キリストの心を心とする

  • ヤコブの手紙2章1節をもう一度見てみましょう。そこにはこうあります。

私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

  • 「えこひいき」の問題に対して、ヤコブは「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから」という前提を記しています。これはどういうことを意味しているでしょうか。それは、教会が、あるいは主にある者たちが「人をえこひいきしない」という生き方をするためには、「栄光の主イエス・キリスト」に目を留めなければならないということです。栄光の主に学び、その主に倣い、主と同じ心、同じ思いが心を支配するようにならなければならないということです。なぜなら、この方こそ、「公正な唯一のお方であり、完全な公平さを持っておられる方」だからです。
  • イェシュアはこの世の「罪人」と言われる人の友となった。

①人種的偏見がなかったイェシュア
一見、不道徳と見なされがちなサマリヤの女は真の愛に飢え渇いていた女性だと見ることができますし、さらに彼女は「五人の夫を持つ身」であったことから、モーセの律法の中に束縛されていた人とも解釈できます。御国では人種的偏見がありません。

②社会的偏見がなかったイェシュア
売国奴として嫌われていた取税人のザアカイは、一見、多くの財産があっても真の友がいない孤独な人と見ることができます。しかしそんな彼であってもイェシュアに関心をもっていました。主を熱心に尋ね求める人であったのです。そしてそんな彼を主が熱心に捜しておられたのです(ルカ19章)。社会的立場ではなく、主を熱心に尋ね求めるかどうか、その観点から主は彼をご覧になっていたのです。

③心身的障害への偏見がなかったイェシュア
いろいろな病気にかかっている者たちがイェシュアのもとに来ました。イェシュアはいかなる病気であっても、偏見を持つことなくいやされました。なぜなら御国においては、すべての病が完全にいやされるからです。それだけでなく、新しい朽ちることのないからだが与えられます。それは神のあわれみです。その観点からイェシュアは病める者たちに対する偏見がなかったと言えます。

  • イェシュアの観点は、この世のあらゆる偏見、すなわち身体的偏見、能力的偏見、社会的偏見をもって人を見ることなく、御国の視点から、神のあわれみの視点から人々を見ていたということです。自分の利害に関係する人にこびたり、へつらったりすることなく、また自分の敵対する者に対しても遠ざけることなく接触されました。イェシュアはこの世において人々の偏見にさらされました。「おまえが神であるなら、十字架から降りてみよ。おまえがキリストなら・・。」と。偏見という罪の痛みを味わわれたイェシュア。彼こそ、御国における真の王であり、神と人とを結ぶ祭司であり、神の心を伝える真の預言者です。
  • 今回は、2章2~13節のみことばの注解はできませんでしたが、1節がすべてを代表しています。ヤコブの手紙は、御国の民となった者たちの成熟した歩みについて、御国の王であるメシア・イェシュアに倣って生きることを示唆しているのです。私たちが、この世の「偏見」や「偏愛」に打ち勝たれたイェシュアの心を心として歩む成熟した者となれるように、やがてそうなるという「御国を目指す歩み」ができるように、聖霊の助けを求めたいと思います。

1996.11.3、改訂2017.11.07


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