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人を汚すものは何なのか

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65. 人を汚すものは何なのか

【聖書箇所】マタイの福音書15章11~20節

ベレーシート

●今回のテキストをご覧ください。10~20節は、「人を汚すものは何なのか」についてイェシュアが語っています。語る対象は、群集と弟子たちですが、群集の場合には「呼び寄せて」とあります。イェシュアが群集をあえて「呼び寄せた」のは、彼らがイェシュアのことばを「聞いて悟るため」でした。悟るべき内容は11節の「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。これが今回の心に留めるべき神のことばです。

●これについての説明は16節以降に持ちこされていますので、あとで説明したいと思います。13~14節は弟子たちの言った言葉に対して語られたもので、話の流れとすれば本筋ではなくて挿入部分です。しかし、そこにも大切なことが語られていますので、目を留めていきたいと思います。

1.「聞いて悟りなさい」

●まず、イェシュアの語った、「聞いて悟りなさい」ということばに目を留めましょう。このフレーズはここ一回限り(他は並行記事のマルコ7:14)で、いずれも現在命令形です。「聞き続けなさい。そして悟り続けさない」ということです。御国の民になるためには、このことがとても重要なのです。「聞く」とはイェシュアの語る神のことばです。そして、「悟る」とは神のことばの隠された真の意味を理解することです。イェシュアは言われます。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:)・・このイェシュアのことばは御霊の助けなしには悟ることができない、理解することができないことを意味しているのです。

●「悟る」はギリシア語で「スニエーミ」(συνίημ)ですが、これをヘブル語にすると「ビーン」(בִּין)です。「悟る」と訳された動詞は「よく注意し、よく考え、よく調べて、よく理解する」という意味にもつながって行きます。しかも「ビーン」の類語の「ベーン」(בֵּין)は、「・・の間、~と~の間」を意味する語彙でもあります。その意味するところは、振り子が左右に振られるように幅をもった理解の仕方です。つまり、ひとつの偏った偏狭な理解ではなく、いくつかの答えが考えられるという幅をもった理解の仕方なのです。これは御霊によって与えられるもので、御国の民の重要な資質なのです。

●「ビーン」(בִּין)の初出箇所は創世記41章です。ここにはヨセフがエジプトのファラオの夢を解き明かしたことが記されています。ファラオの見た夢は神がなさろうとすることを示すものでしたが、その内容は大変深刻な内容でした。七年間に及ぶ大豊作と聞けば、たれでも頬が弛みますが、その後に七年間の大飢饉という国が滅びかねない事態が来ることを知らせる夢でした。そのことをヨセフが神によって解き明かしたのです。七年間の未曽有の大飢饉に対処するヨセフの提言は、「ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。・・・豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように」というものでした。「さとく」という部分に「ビーン」(בֵּין)が使われています。ヨセフの提言はファラオとすべての家臣たちの心に「かなった」(感心した)とあります(37節)。そして、ファラオはヨセフに言います。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。・・」(41:39~40)。

●このように、「聞いて、悟る」ことは、神のご計画とみこころ、そしてそのみ旨と目的を知ることであり、それによって、生きる対応力を持つことです。また、それは真の自由を与えられることでもあるのです。使徒パウロもキリストの福音を悟ったことで、それまで彼を縛っていた律法主義から解放されて、真の自由を得ることができたのです。その結果、多くの人々を暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配に導くことができたのです。この意味において、イェシュアは「聞いて悟りなさい」と絶えず命じているのです。それは、「言い伝え」(伝統)や規則・命令ではなく、神のみことばの本質を知って、御霊の助けに従った対応力が求められるのです。パリサイ人たちとイェシュアとのやりとりを周囲で見ていた群衆たちにとって、「聞いて悟りなさい」というイェシュアのことばはどのように聞こえたことでしょうか。

2. 腹を立てたパリサイ人

●12節を見ると「そのとき」(「トテ」Τότε)という副詞があります。これは新しい話が導入される時の常套句です。弟子たちがイェシュアに近寄って来て言いました。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」と。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11:6)とイェシュアは言われましたが、多くの者たちがイェシュアのことばにつまずきました。それはイェシュアの言っている教えの真理を理解しなかったからです。目に見えることだけで理解しようとしたからです。例えば、五千人の給食の奇蹟などもそうです。つまずきは避けられないのです。ここでの「つまずき」は「人を不快にさせて憤らせること」です。ですから、パリサイ派の人々はイェシュアのことばを聞いて「腹を立てた」のです。「腹を立てる」ことは、クリスチャンとして「悪いことだ」と決めつけないでください。ちなみに、イェシュアも腹を立てたことがあるのです。どんなことに腹を立てたのでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書16章21~23節
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

●ここに「つまずかせるもの」(「スカンダロン」σκάνδαλον)があります。新改訳改訂第三版では「邪魔をするもの」と訳されていました。聖書協会共同訳も「邪魔をする者」となっています。神のことを思わないで、人のことを思っている者こそが、イェシュアを「つまずかせるもの」なのです。

●イェシュアに「腹を立てた」パリサイ人のことを、イェシュアは二つのたとえで表現しています。一つは「わたしの天の父が植えなかった木」、後の一つは「盲人」です。

(1)「わたしの天の父が植えなかった木」

【新改訳2017】マタイの福音書15章14節
イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

●イェシュアはパリサイ人たちの教えのことを「天の父が植えなかった木」とたとえています。聖書で「木」(「エーツ」עֵץ)は「トーラー」(תוֹרָה)、すなわち、「神の教え」を意味します。特に、「種のある実を結ぶ果樹」とは、「キリストの教え」のことを意味します。「御霊の実」を結ぶ木も「種のある実を結ぶ果樹」(例えば、「ぶどうの木」)です。しかし、「天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます」と言っています。ちなみに、「父が植えた木」とは「義の樫の木」、「【主】の植木」と呼ばれます。

【新改訳2017】イザヤ書 61章3節
シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる。

●聖書で実のなる木と言えば、「ぶどうの木」「いちじくの木」「オリーブの木」ですが、イザヤ書では「義の樫の木」です。「樫の木」は「テレビンの木」とも呼ばれ、がっしりとした幹の荘厳な木(10~13m)で実を結ぶ木です。保護、誠実、偽りの教えに対する抵抗などの象徴として引用されています(キリスト新聞社「新聖書辞典」より)。

(2) 「盲人」

【新改訳2017】マタイの福音書15章14節
彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」

●また、イェシュアはパリサイ人たちのことを「盲人」と呼んでいます。ユダヤ人が「盲人」のことをどのように理解していたかを知るには、ヨハネの福音書9章34節を見ればわかります。そこで盲人とは「全く罪の中に生まれている者」と言っています。当時、民衆のことを霊的に「盲人」と呼ぶことはあっても、宗教指導者であるパリサイ人たちを「盲人」と言うことは、当時の常識としては考えられないことでした。しかし、イェシュアは「彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます」と言っています。ここで「穴」とは、「墓の穴、滅びの穴」(「シャハット」שַׁחַת)のことです。イェシュアはパリサイ人を「盲人」と呼び、「わざわいだ、目の見えない案内人たち」(マタイ23:6)と断罪しています。

●さらにイェシュアは、パリサイ人のことを「目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。」 (マタイ 23:24) とも言っています。これはどういうことでしょうか。これは、パリサイ人や律法学者たちが律法の最も小さな点にまでこだわりながら、律法の中ではるかに重要なものをおろそかにしていたことを指摘していることばです。つまり、彼らは物事を正しいバランスで広く見渡す視野を失っていたのです。その彼らの行いを「ぶよはこして除くが、らくだはのみこんでいます」と表現しています。

●イェシュアはパリサイ派のある人々を「盲目の導き手」と言われました。なぜなら、「これこそ神の御前にある、本物かつ完全無欠な聖い生活だ」と言っていた彼ら自身の行ないが偽りだったからです。彼らには自分自身の過ちが見えませんでした。傲慢と自己正当化の生き方が、思いやりに欠けた律法主義的な行為を生み出し、それが貧しい人々を真の義人に導くどころか、盲人が盲人を案内して、二人とも穴に落ちてしまうようなことをしていたのです。

3. 「口に入る物と口から出るもの」のたとえ
 

【新改訳2017】マタイの福音書15章15~20節
15そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心(「カルディア」καρδία,「レーヴ」לֵב)から出て来るからです。

●ここが今回のテキストの重要な部分です。イェシュアは「聞いて悟りなさい」と言われました。「聞く」とは「耳」からですが、それを悟るのは「心」です。イェシュアのみことばを聞いて、それを心のうちにたくわえ、かつその意味を悟ることが求められているのです。なぜなら、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)とイェシュアが語っているからです。イェシュアの語ることばこそが、永遠の唯一の基準なのです。

●17節でイェシュアは言われています。
17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

●つまり、口から入る物は、人を汚すことなく、口から出るものが人を汚すということを言っています。このようなことを言ったのは、イェシュアが初めてでした。ユダヤ教では「食物規定」という戒めを今日でも厳格に守っています。ここで、ユダヤ人が「清いものと汚れたもの」をどのように考えていたかを示す一つの話を取り上げたいと思います。

【新改訳2017】使徒の働き10章1~16節
1 さて、カイサリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。
2 彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。
3 ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。
4 彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。
5 さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。
6 その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。」
7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリウスはしもべたちのうち二人と、彼の側近の部下のうち敬虔な兵士一人を呼び、
8 すべてのことを説明して、彼らをヤッファに遣わした。
9 翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。
11 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。
12 その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。
13 そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。
12 しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
15 すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」
16 このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。

●この箇所は福音がユダヤ人から異邦人へと広がっていくその最初のプロセスとして、ユダヤ教の神を信じる(敬神者の)コルネリオを通して、主がユダヤ人である使徒ペテロに対して主が取り扱われるという場面です。そのために、御使いがメッセンジャーとして「下り上りしている」のを見ます。御使いは目に見えるかたちでコルネリオを訪ねています。しかしペテロに対しては、姿を見せずに、ただ「声」だけでした。御使いはいろいろな形(姿)で主のメッセージを人に告げるメッセンジャーなのです。

●特に、注目したいことは、ペテロに対して御使いが示したことです。ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」、すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」・・・これらのことばは、イェシュアの十字架の死と復活によって、それまでの「食物規定」が廃棄されたことを意味します。

●訳文では分かりませんが、原文で見ると「立ち上がる」を意味する復活用語「アニステーミ」(άνιστημι)が三か所に使われています。そこには単なる「立ち上がって」という動作の意味を越えた、新たな神の導きの一歩を意味する霊的な「アニステーミ」(すべてアオリスト)で、その語彙が使われている箇所は以下の通りです。

①【新改訳2017】使徒の働き10章13節
そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり(άνιστημι)、屠って食べなさい」という声が聞こえた。
②【新改訳2017】使徒の働き10章20節
「さあ(άνιστημι)、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」
③【新改訳2017】使徒の働き10章23節
「それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた。翌日、ペテロは立って(άνιστημι)、彼らと一緒に出かけた。ヤッファの兄弟たちも数人同行した。」

●ここに使われている「アニステーミ」(άνιστημι)は、これまで考えられなかった新しいことが起こったことを促しています。ペテロはまだそのことを知らずにいるのですが、まさに神のみわざがすでに始まっていることを示す促しです。神の定めた「食物規定」という規則(食べてもよい食物と食べてはいけない食物を規定している教え)を、その既成概念を打ち破って、新しいことを神が始めようとしていることを、この「アニステーミ」が表していると思われます。レビ記11章の「食物規定」の中で「食べてもよいもの」とは、イェシュアのことを示唆するものであったのです。そして、新約では「イェシュアの血と肉を食べること」が「イェシュアを信じること」であり、「イェシュアと一体となること」を意味するのです。

●ユダヤ人たちは「食物規定」の律法を文字(もんじ)通り厳格に守ってきたのです。しかしその律法が指し示してきた本体であるイェシュアが来ても彼らは律法の文字(もんじ)にしがみついていたのです。律法(神のおしえ)を「善悪の知識の木」として食べてきた者に神が言われた「それを食べると必ず死ぬ」ということが、ここに如実に示されています。マタイの福音書15章10~20節でイェシュアが語っている事柄は、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」ということです。パリサイ人や律法学者たちにとっては、イェシュアのことばを理解することができなかったはずです。できなかったばかりか、彼らの「きよめと汚れ」に対する既成概念を打ち壊すものであったためにつきずきをもたらしました。さらに、彼らの教えが人間の教えとして、「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます」とさばきが宣言されています。イェシュアのことばはまさにスキャンダルなものだったのです。

4. 人を汚すものは何か

【新改訳2017】マタイの福音書15章18~20節
18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
20 これらのものが人を汚します(「コイノオー」κοινοω)。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

●人を汚すものは「食べ物」ではなく、「心」なのだとイェシュアは語っています。「心」はギリシア語で「カルディア」(καρδία)ですが、へブル語では「レーヴ」(לֵב)です。この「心」と訳された「レーヴ」(לֵב)は、私たち日本人が考えるような心情的・情緒的な意味の「心」とは異なります。へブル語の「心」とは「計画・意図・良心・決断」の意味を含んでいます。

●19節にある原文はすべて複数形になっていますが、単数形で表記します。
(1)「悪い考え」(「ディアロギスモイ・ポネーロス」διαλογισμός πονηρος)
(2)「殺人」(「フォノス」φόνος) 
(3)「姦淫」(「モイケイア」μοιχεῖα)
(4)「淫らな行い」(「ポルネイア」πορνεῖα) 
(5)「盗み」(「クロペー」κλοπη)
(6)「偽証」(「プシュードマルテュリア」ψευδομαρτυρία) 
(7)「ののしり」(「ブラスフェーミア」βλασφημία)

●「これらのものが人を汚します」(20節)のですが、なぜ、最初に「悪い考え」が出てくるのでしょうか。「悪い考え」をヘブル語では、「マフシェヴォート・ラー」(מַחְשְׁבוֹת רָע)となっています。この語彙の初出箇所は創世記6章5節です。

【新改訳2017】創世記 6章5 節
【主】は、地上に人の(「ラ」רַע)が増大し、その心(「レーヴ」לֵב)に図ること(「マフシェヴォート」」מַחְשְׁבוֹת)がみな、いつも(רַע)に傾くのをご覧になった。

●「図ること」と訳された「マフシェヴォート」(מַחְשְׁבוֹת)とは、「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)の複数形で、「思い、計画、たくらみ」を表す「数々の計画的な熟考、習慣的な熟考」を意味します。したがって、「悪い考え」とは「悪い数々の計画的・習慣的な熟考、」の意味となります。創世記6章は「神の子ら」であるセツの子孫が、カインの子孫の美しい女をめとったことから悪が増大したことを語っています。そのことを主がご覧になり、人々を洪水によるさばきによって滅されたのです。その原因は「神の子ら」の「マフシェヴォート」(מַחְשְׁבוֹת)だったのです。

●エレミヤ書17章9節に「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とあります。イェシュアこそ「人の心を探り、思いを知られる」唯一のお方です。この方こそ十字架の血潮で私たちの汚れを洗い流してくれる力をもっています。そして、私たちをきよめてくださるのですが、きよめる力はイェシュアの語る「神のことば」だけなのです。今回はペテロのことが出てきましたので、ペテロのことばをもって閉じたいと思います。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙1章23節、2章1~2節
1:23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

●「朽ちない種」とはイェシュアの語るみことばです。それは混じりけのない純粋なものです。これによって成長し、救いを得なければなりません。

2019.11.24


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