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十字架上のイェシュア(2) 六つの奇跡

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20. 十字架上のイェシュア(2)  六つの奇蹟  改訂

【聖書箇所】
マタイの福音書27章45~56節、マルコの福音書15章33~41節
ルカの福音書23章39~49節、ヨハネの福音書19章25~30節

画像の説明

●ヘブル時刻は朝から夕方までの12時間を上記のように表わします。夜間の時刻は午後6~9時までを「第一の夜回り」、午後9時から真夜中の午前0時までを「第二の夜回り」、午前0時から3時までを「第三の夜回り」、そして午前3時から6時までを「第四の夜回り」と言っていました。

ベレーシート

  • イェシュアが十字架につけられたのは、第三時(午前九時)頃です。そして、その6時間後の第九時(午後三時)以降に息を引き取られました。その間に、六つの奇蹟が起こります。これらの出来事は決して偶発的なことではなく、神のご計画に深く関係していることです。ここではその一つひとつを取り上げ、神のご計画(マスタープラン)における最後の出来事を予告する奇蹟(しるし)であったことを論証したいと思います。このことは、今回の「主の受難-24」の瞑想の中で初めて気づかされたことです。
  • 六つの奇蹟とは以下の出来事です。

    (1) 一人の強盗が神に立ち返って救われたこと
    (2) 真昼に太陽が暗くなり、三時間の暗やみが全地を襲ったこと
    (3) 神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が上から下へ、二つに裂かれたこと
    (4) 地震が起きたこと
    (5) 岩が裂けたこと
    (6) 墓が開いて多くの聖徒たちが生き返ったこと

  • ヘブル的視点、つまり「御国の福音」の視点から十字架につけられたイェシュアとその周辺的な事柄を見るならば、以下のようなことが見えてきます。

1. ひとりの強盗が神に立ち返って救われたこと

  • イェシュアの十字架の左右にふたりの強盗(犯罪人)がかけられました。そのひとりはイェシュアに対して冒涜的な悪口を言い(原文は「言い続ける」という未完了)ましたが、もうひとりの強盗は悔い改めて神に立ち返り、イェシュアが神の子であることを信じて救われます。「なぜ、ふたりの強盗がイェシュアとともに十字架につけられたのか」、私にとってずっとなぞでした。しかし今回の瞑想でその必然性に気づかされました。それは、この二人がやがてメシアの再臨の時のイスラエルの民を代表しているということです。つまり、反キリストによる大患難という試練の中で、最後の最後に神に立ち返るユダヤ人とそうでないユダヤ人がいるという預言的光景です。悔い改めた強盗は、主の日にイェシュアがメシアであることを「恵みと哀願の霊」(ゼカリヤ12:10)によって悟り、悔い改める「残りの民」のたとえだということです。
  • 悔い改めたその強盗はイェシュアに対して「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と嘆願していますが、この嘆願は「主の日」(すなわち、メシアの再臨のこと)と深く関連しています。ですからイェシュアは彼に対して「あなたはその日に、わたしとともにエデンの園にいる」と約束されたのです。(脚注)

2. 真昼に太陽が暗くなり、三時間の暗やみが全地を襲ったこと

  • マタイは「さて、十二時から」、マルコは「さて、十二時になったとき」「全地が暗くなった」ことを記しています。ここでの「十二時」とはヘブル的時刻ではなく、今日の時刻表記で訳されています。「三時まで」というのも現代表記です。
  • 「全地」とは地球的規模なのか、あるいはエルサレム周辺の規模においてなのかは分かりませんが、いずれにしても、エルサレムが暗やみに覆われるということの事実は変わりません。「主の日」には「暗闇」が覆うことは、旧約の預言者たちが預言していることです。

(1) 【新改訳改訂第3版】ヨエル書 2章1~2節
1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。
2 やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。


(2) 【新改訳改訂第3版】ヨエル書2章31節
【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
この箇所は、使徒の働き2章20節にも引用されています。


(3) 【新改訳改訂第3版】アモス書5章18節、20節
18 ああ。【主】の日を待ち望む者。【主】の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。
20 ああ、まことに、【主】の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない


(4)【新改訳改訂第3版】アモス書8章9節
その日には、──神である主の御告げ──わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、

  • 「主の日」には、真昼に暗闇が覆うことが預言されています。
    マタイは「これらの日の苦難(=反キリストによる大患難)に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、・・」と、イェシュアの「終わりの日についての説教」の中にあることばを記しています。
  • また、ヨハネの黙示録においても同様に、小羊が第六の封印を解いたときに、「太陽は毛の荒布のように黒くなり」(6:12)と預言されています。
  • 以上のことから、イェシュアが十字架にかかっているその日の正午から三時間襲った「暗やみ」は、やがて「主の日」(終末)に起こることの予表的出来事を示唆しているのです。

3. 神殿の垂れ幕が上から下に引き裂かれたこと

  • このことも神の奇蹟です。神殿の中の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕は、その厚みがなんと20センチほどもある丈夫な布製のものであり、二頭の牛を左右に結んで引っ張っても裂けないほどの丈夫なものだったと言われています。それが上から下へと裂けたというのは奇蹟以外の何ものでもありません。まさに不可能なことが起こったのです。それは神と人との仕切がなくなり、神と人とが共にいること、神と人とが共に交わる新しい道が開かれたことを意味します。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙10章19~20節
19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

  • 垂れ幕が二つに裂かれたことは、イェシュアが十字架で息を引き取られた後で起こっています(ルカは、その逆)。それが意味する霊的な出来事はすでに実現していますが、それが完全な形でこの地上において実現するのはメシアが再臨された後の「メシア王国」(千年王国)、および、その後に来る最終ステージである「永遠の御国」においてです。

4. 地震が起きたこと

  • 聖書においては、神のさばきと地震には密接な関係があります。ヨハネの黙示録では、主の日には未曾有の地震が起こることが預言されています。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録16章17~18節
    17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。
    18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

  • 前代未聞の「大きな、強い地震」によって反キリストが築いた統治システムのすべてが破壊されます。メシア再臨前に起こる地震は未曾有の地震です。そのことを予表する地震が、イェシュアが十字架で息を引き取られた後に起こったと考えられます。聖書において「地震」という現象は、常に神のメッセージと密接な関係があります。

5. 岩が裂けたこと

  • これはマタイの独占記事です。地震が起こったことと、岩が裂けたことは直接的な関連があってもなくても、そのこと自体に意味があります。岩が裂けたことと、垂れ幕が裂けたことは、同じ動詞で「スキゾー」(σχιζω)のアオリスト受動態です。
  • かつて、荒野においてモーセが杖で岩を打つと岩から水が出たという奇蹟があります(民数記20章)。使徒パウロもそこから、「(私たちの父祖たちはみな・・)・同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」と述べています(Ⅰコリント10:4)。岩がキリストで、その岩から出た水が御霊だということを説明しようとしています。
  • すでに「岩である」キリスト(メシア)が裂かれたことで、そこから流れる御霊によって新しい時代が到来することを予表しています。終わりの日において、ユダヤ人たちは反キリストから逃れてエドムの首都「ペトラ」(=「岩」という意味)に隠れます。しかしそこにいたユダヤ人に「恵みと哀願の霊」が注がれることで、長い間彼らにとって「妨げの岩」であったイェシュアがメシアであることに目が開かれます。これらの人々は「残りの者」です。「ペトラ」はギリシア語で「岩」という意味ですが、「メシア王国」は真の「岩」である方の上に建てられるのです。
  • 「岩が裂かれる」というのは、神殿の垂れ幕が上から下に裂かれたように、多くの者が同じ御霊を飲むことになるという預言的表現なのです。

6. 聖徒たちのよみがえり

  • 最後の奇蹟は、地震と連動して、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことです。これは三日目にイェシュアが「初穂」として死からよみがえる時に、多くの聖徒たちがその「初穂の束」として墓から出てくることの予表です。イェシュアが死んだ後に地震が起こり、多くの聖徒たちが「生き返って」います。しかし、三日目にイェシュアが復活されて(受動)から、彼らは墓から出て聖都であるエルサレムに入って多くの人に現われているのです。
  • この出来事もやがて「メシア王国」においてエルサレムに聖徒たちが集められることの予表と言えます。あるいは「永遠の御国」における「新しいエルサレム」における聖徒たちの存在を予表しているとも言えます。
  • 「御国の福音」とは、アブラハムに対しての約束、ダビデに対する約束、そして多くの預言者たちが預言したことが完全にこの地上において目に見える形で実現することです。しかし、私たちのからだが新しいからだに変えられることなくして、御国に入ることはできません。またその祝福に与ることができません。イェシュアはその祝福の初穂です。初穂であるということは、その後に多くの者たちが同じく新しいよみがえりのからだが与えられることを保証しているのです。
  • 主の例祭の一つである「初穂の祭り」(レビ記23章)の規定によれば、「過越の祭り」の週の「安息日」の後に来る週の第一日目に、人々は大麦の初穂を祭司に持って来なければなりませんでした。祭司はその初穂を束にして主の前で振ってささげたのです。
  • 「初穂の祭り」は、イェシュアを信じる者がやがて新しいからだに変えられることを啓示する祭りでした。イェシュアが死んだ後に墓が開いて多くの聖徒たちが生き返った出来事は、「初穂の束」を証しする奇蹟でした。この奇蹟は、やがて主にある者たちが新しいからだを与えられてメシア王国の一員とされることの予表的出来事だったと言えます。
  • ヘブル語で「からだ、肉体」のことを「バーサール」(בָּשָׂר)と言いますが、その動詞は「バーサル」(בָּשַׂר)で、なんと「良きおとずれを告げる」という意味を持っています。新しいからだが与えられることは「御国の福音」の重要な祝福なのです。このことは、ヘブル語こそが「御国の福音」の正確な概念を有し、および神のマスタープランの重要な意味を有しているという何よりの証拠とも言えるのです。

ベアハリート

  • 十字架の上で語られたイェシュアの七つのことば、そしてイェシュアが十字架にかかられてから息を引き取られるまでに起こった六つの奇蹟にも、深い意味が示唆されていたことに気づかされました。すべてのことが「御国の福音」と密接に関連する出来事だったのです。とすれば、主にある者たちは神のご計画にある「御国の福音」について、その理解をますます深めていく必要があると信じます。


脚注

●悔い改めたその強盗はイェシュアに対して「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と嘆願しています。この嘆願は「主の日」(すなわち、メシアの再臨の時)と深く関連しています。ですからイェシュアは彼に対して「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束されたのです。「います」は原文では未来形です。ですから、「いるでしょう」という意味です。この部分をヘブル語に訳し戻すと「あなたはきょう、わたしと共にエデンの園にいます」となります。問題は「きょう」という訳です。悔い改めたその強盗はイェシュアに対して「あなたの御国の位にお着きになるときには」と言っています。それに対してイェシュアは「きょう」(「セーメロン」σήμερον)と答えています。ヘブル語訳を見ても「ハッヨーム」(הַיּוֹם)です。旧約で「ハッヨーム」を調べてみても、「きょう」としか訳されていません。ちなみに、終末的な意味での「その日に」という場合には、「べハッヨーム・ハフー」(בַּיּוֹם הַהוּא)という言い方をし、「その日」だけなら、「ヨーム・フー」(יוֹם הוּא)となります。とすれば、ルカの23章43節の「きょう」(הַיּוֹם) は文字通りの「きょう」(today)なのでしょうか。文脈的な意味としては、「その日には」となるのが自然なはずです。なぜなら、イェシュアが「御国の位に着くとき」とは、メシア王国が成就した時を指しているからです。

●ところで、新約で「きょう」(「セーメロン」σήμερον)という語彙を福音書の中から検索してみると、マタイ5回、マルコ1回、ルカ11回、ヨハネ1回です。ルカが圧倒的に多く使っています。その最初は「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(2:11)。最後は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)です。イェシュアの生涯がその最初の「きょう」と最後の「きょう」の中に囲い込まれているのです。ルカはこのことを明確に意識して書いているように思われます。

●ちなみに、ルカの福音書の中で他に使われている重要な箇所としては、以下の箇所に見られます。
①「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家にとまることにしてあるから。」(19:5)、
②「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(19:9)。
③「きょう鶏が鳴くまでに、あなた(ペテロ)は三度、わたしは知らないと言います。」(22:34)

●特に、③の部分はマタイもヨハネも記していません。ルカの他にはマルコのみで、しかもマルコの「きょう」はこの箇所しか使われていません。イェシュアの弟子の筆頭格のペテロが、完全にイェシュアを否定するこの箇所は、「きょう」という日時に意味があるのではなく、否認の背後にある最も深い暗闇が歴史的時間の中に支配したことを暗示しています。つまり、それはペテロという個人を越えた、「終わりの日」に訪れる暗闇の力を示唆しているのです。

●ルカの福音書における「きょう」という用法は、純粋に時間的な意味での「きょう」というよりは、神の定められたご計画が時間の枠の中に突入してくる時に用いられているというのが一義的な意味のように思われます。したがって、ルカ23章43節の「きょう」は、終末論的な意味において、メシアが再臨された「その日に」というニュアンスで解釈することができるのです。また、ヘブル訳聖書が「パラダイス」を「エデンの園」(「ガン・エーデン」גַן־עֵדֶן)としているのは、明らかに、「御国の福音」の視点から解釈されていると言えます。


2015.3.30


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