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十字架上のイェシュア(4)「渇く」


22. 十字架上のイェシュア(4)「わたしは渇く」

画像の説明

【聖書箇所】
ルカの福音書23章46節、ヨハネの福音書19章28~30節

ベレーシート

●当初の予定を変更して、イェシュアの十字架上の7つの言葉のうち、最後の3つをまとめて瞑想したいと思います。その3つとは「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)、「完了した」(ヨハネ19:30)、そして「わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)です。これらは、イェシュアによる贖いの一連の事柄を意味しています。2015年の瞑想は、No.22とNo.23は空欄でした。それは自分で納得できないものだったからですが、4年の月日が経って、初めて新たな啓示を与えられました。それをNo.22として今回書き込みしました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書19章28~30節
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった

【新改訳2017】ルカの福音書23章46節
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。


1. 「わたしは渇く」とはどういう意味か

●これまで、私はこの「わたしは渇く」ということばを、霊的な意味で言われたと長い間思っていました。しかし今回の瞑想(2019.4.18)で、このことばは文字通りの意味であることに気が付きました。というのは、イェシュアの「渇き」は十字架の上で血を注ぎ出されたゆえの「渇き」だということです。一滴残らず、イェシュアは血を注ぎ出されたのです。

モーセの幕屋.PNG
  • 「聖書が成就するために」とあります。これはモーセの幕屋において啓示されていたことなのです。モーセの幕屋における⻘銅の祭壇は、贖罪の啓⽰においてきわめて重要です。出エジプト記 29 章にはモ ーセがアロンとその⼦らを祭司に任命する際に、次のことを主から⽰されました。
青銅の祭壇.PNG

【新改訳2017】出エジプト記29章10~12節
10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。
11 あなたは会見の天幕の入り口で、【主】の前で、その雄牛を屠り、
12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ

●祭壇の四隅にある「⾓」に、鉢の中に⼊れたいけにえの⾎を指で塗ることは、「罪のきよめのささげ物」の⾎に限られています(レビ4:25, 30, 34)。そして「罪のきよめのささげ物」の⾎のみ、祭壇の⼟台に注がれました(出 29:12、レビ 4:7, 18, 25, 30. 34)。このことが初めて⽰されるのは、幕屋における祭司の「罪のきよめのささげ物」について記されている箇所です。特に、祭司は「罪のきよめのささげ物」について精通していなければなりませんでした。それは神が⼈と共に住むためのきわめて重要な⼟台となる事柄だったからです。このように、祭壇は注がれた⾎の⼒の上に確⽴されていたのです。

⾝代わりの⾎が祭壇の四隅にある⾓に塗られるだけでなく、その残りがすべて祭壇の⼟台に注がれるのはなぜでしょうか。どのような意味がそこに隠されているのでしょうか。「罪のためのいけにえ」の⾎は祭壇の四つの⾓に塗られ、その残りの⾎はすべて祭壇のまわりに「注がれる」か、⼟台に「流された」のです。「罪のきよめのささげ物」の⾎は、やがて⼗字架の上(=祭壇の格⼦の上) で流されるイェシュアの罪のない尊い⾎潮を啓⽰していたのです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙9章22節
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すこと(שְׁפִיכַת דָּם)がなければ、罪の赦しはありません。

●以下の旧約の箇所は、いずれも、メシアについて預⾔されている箇所ですが、いずれもメシアのいのちである⾎が⽔のように「注ぎ出される」、「流される」ということが預言されています

① 詩篇22篇14節の「私は、⽔のように注ぎ出され」の「注ぎ出され(た)」は、「シャーファフ」(שָׁפַךְ)の1⼈称完了ニファル態(受動態)の「ニシュパフティー」(נִשְׁפַּכְתִי)です。

② 主のしもべの受難を預言しているイザヤ書53章12節にある「彼が⾃分のいのちを死に明け渡し(た)」の「明け渡した」は、「アーラー」(עָרָה)のヒフィル態(使役態)の「へエラー」(הֶעֱרָה)が使われていますが、これが強意形ピエル態で使われる場合には「注ぎ出す、空にする」という意味になります。

③ マタイの福音書26 章28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される(「ハンニシュパーフ」הַנִּשְׁפָּךְ)、わたしの契約の血です。」、マルコ14 章24節「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」、ルカ22章20節「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」にある「流される」で使われているギリシア語では冠詞付の「エックセオー」(ἐκχέω)の分詞受動態ですが、それをヘブル語に訳すと、すべて冠詞付の「シャーパフ」のニファル態(受動態)の分詞「ハンニシュパーフ」(הַנִּשְׁפָּךְ)が使われています。つまり、イェシュアの⾎は、多くの⼈のために「注ぎ出されたもの」なのです。 それゆえに、イェシュアは「わたしは渇く」と言われたのです。


2019.4.17

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