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千年王国(メシア的王国)の終わり

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12. 千年王国(メシア王国)の終わり

サタンの最期と大きな白い御座のさばき

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ベレーシート

  • これまで、千年王国の祝福、つまりメシアの地上における統治の祝福を学んできました。かつてシェバの女王がイスラエルの王ソロモンの名声を伝え聞き、ソロモンをためそうと難問をもってエルサレムにやって来た話があります。そして女王がそこで知ったことは、ソロモンについて聞いていたことは本当であり、自分が来て、自分の目で見るまでは、ソロモンの知恵のすばらしさについてその半分も知らされていなかったということでした。そして彼女は、「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは」と絶賛したのです。おそらく千年王国では、シェバの女王が驚いたようなことを私たちも実感することでしょう。なぜなら、千年王国はイスラエルの歴史の中で黄金時代を築いたソロモンとその統治をはるかに越えた地上の王国となるからです。
  • 普遍的平和が訪れること。イスラエルの民が地の四方から集められ、彼らに約束された地に帰り、領土が与えられること。またエルサレムが千年王国の首都となり、王であるメシアは公正と正義をもって統治されること。また「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ことで教える者がいなくなること。すべての国がメシアの統治の下に置かれ、神がかつて人間をエデンの園の管理に当たらせた目的が、第二のアダムであるメシア・イェシュアによって成就された形となります。まさにメシアによる千年におよぶ支配は、全地にとって、あらゆる領域において、「シャーローム」の充溢の時、喜びと平安と祝福の時なのです。
  • 黙示録はこの祝福の期間が「千年」であることを明確に預言しており、その千年王国の終わりにどんなことが起こるのか、その光景についてもすでに黙示録20章7節以降に啓示されているのです。それによれば、三つのことが起こります。
    第一は、7~10節に記されているように、「サタンの解放と最後の反逆によるサタンの最期」。
    第二は、11節に記されているように、「天と地が完全に崩れ去り、あとかたもなくなること」。
    第三は、12~15節に記されているように、「大きな白い御座の前のさばきがあること」。

1. サタンの解放と最後の反逆

  • まずは、サタンが千年の間閉じこめられていた「牢」から解放された後に、最後の反逆が起こり、そしてサタンの最期が記されている箇所を見ていきましょう。

    【新改訳改訂第3版】黙示録20章7~10節

    7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
    8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
    9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
    10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

  • 「千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」ます。「その牢」とは、千年の間、諸国の民をまどわすことのないようにと御使いによって捕えられ、縛られて、投げ込まれていた「底知れぬ所」(定冠詞付の「アブッソス」αβσσος)のことです。サタン(悪魔)は霊的な存在であるゆえに、「底知れぬ所」も物質的な場所ではなく、神によって備えられた霊的な場所と考えられます。新約聖書では9回使われています。ギデオンという汚れた悪霊たちはイェシュアに、「底知れぬ所へ行け、とはお命じになりませんように」と願いました(ルカ8:31)。その「底知れぬ所」が「アブッソス」です。ところでデギオンはどこに行ったのでしょうか。ルカの8章にはその行き先は記されていません。ただ、Ⅱペテロ2章4, 17節、並びにユダ書6, 13節によれば、「暗やみ」の下に閉じ込められている御使い(堕天使)たちがいることが分かります。

    Ⅱペテロ 2章4節
    神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(「地獄に引き渡す」は「タルタロウ」ταρταρόωでここにしか使われていない言葉です。「暗やみ」は「ゾフォス」ζοφος)

    ユダ 6節
    また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

  • サタンとその手下どもが最後のさばきの時まで閉じ込められている霊的な場所は、使われている語義からすれば異なっているようですが、それがとう違うのかは分かりません。いずれにしても、彼らの本当の最後のさばきの場所は、地獄ではなく、「火と硫黄との池」と呼ばれる永遠の苦しみの場所です。人間が死んだ後に行くところが「パラダイス」であったり、あるいは「ゲヘナ」「ハデス」であったりしますが、特に後者の場合、その訳語は聖書の訳によって以下のようにまちまちです。

画像の説明

  • 上の表を見ると分かるように、ギリシア語の「ゲヘナ」「ハデス」は、従来、「陰府」(よみ)とか「黄泉」(よみ)と訳されていましたが、それらの訳語は他の宗教の教えを混入させて読み込まれているという懸念から、新改訳聖書の場合はそのまま音読みでとどめています。「ハデス」とは「未信者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる場所」を指し、「ゲヘナ」とは「神の究極のさばきによって、罪人が入れられる苦しみの場所」を指しています。この「ゲヘナ」が黙示録20章では「第二の死」に至った者が行く「火と硫黄との池」として描かれています。

(1) 悪魔が解き放されなければならない理由
さて、「底知れぬ所」(地獄)に投げ込まれていた「悪魔」が、千年の終わりにしばらくの間、「解き放されなければならない。」とあります。何ゆえにサタンは解き放たれなければならないのでしょうか。そこには神の必然性を表わすギリシア語の「デイ」δει (現在形)が使われています。「ディ」は論理的に必ずそうならなければならないという動詞ですが、その理由について聖書は何も記していません。その理由として考えられるのは、以下の事です(ジョン・F・ワルブード著「イエス・キリストの黙示」、いのちのことば社、555頁参照)。

① 人間はどんなに恵まれた環境の下に置かれていたとしても、自分の選択に任せるなら、罪と悪に陥ることを示すため。
② 人間の行為について、神が予知できることを示すため。
③ サタンの決して変わることのない悪性を明らかにするため。
④ 長期間、神の支配の下に置かれても、人 (自然体の体を持った人) の邪悪な性格は変わらないことを明らかにして、永遠の刑罰を正当なものであることを人々に知らせるため。


(2) 悪魔が召集した「ゴグとマゴグ」(20:8)

  • 「ゴグとマゴグ」について、黙示録20章ではなんの説明もなく用いられています。黙示録20章の「ゴグとマゴグ」は、エゼキエル書38章と39章に記されている預言の成就であるとは言えません。なぜなら、以下に見るように明らかな違いがあるからです。ここにきて、私も誤解していたことが分かりました。

    ① エゼキエル書のゴグの軍隊は同士打ちで滅びますが、黙示録のゴグの軍隊は天からの火で焼き尽くされるとあるからです。
    ② エゼキエル書ではゴグとマゴグの軍隊の兵士たちを片付けるのに七か月かかるとされていますが、黙示録20章ではゴグとマゴグが滅ぼされると、その直後に大きな白い御座による最後のさばきが始まるからです。
    ③ エゼキエル書ではゴグとマゴグとの侵略があった後にイスラエルの民は自分たちの罪を悔い改めると記されていますから、ゴグとマゴグの侵略は千年王国の前に行われると考えられます。
    ④ エゼキエル書の「マゴグ」は地名、「ゴグ」はその大首長名ですが、黙示録の「ゴグとマゴグ」は、神と聖徒たちを襲撃する人々を象徴しています。

    ―したがって、エゼキエル書と黙示録に記されているゴグとマゴグのエルサレム侵略は、それぞれ異なる出来事なのです。

  • では、黙示録20章の「ゴグとマゴグ」とは何でしょうか。それは邪悪な性格をもった支配者(ゴグ)と諸国民(マゴグ)を表わしており、解き放されたサタンの惑わしによって召集された軍隊です。しかも、彼らの数は海辺の砂のようだとあります。
  • 千年王国では百歳までに死ぬ人はのろわれた人と言われるほどに、平和が支配し、主を知る知識が世界を覆っているにもかかわらず、サタンが解放されるとたちまちサタンの呼びかけに応ずる輩がいるのです。それが、「ゴグとマゴグ」です。それにしても、人の罪がいかに深いかということをこのことから思い知らされます。
  • 朽ちないからだを与えられて千年王国に入った人々は、御使いたちと同じく、めとったり、嫁いだりすることはありません(マタイ22:30)。また、罪を犯すこともできないのです。しかし、患難時代を生き延びて、朽ちないからだを持たずに千年王国に入った者たちは、現代の私たちと同様の肉体を持つために、結婚し、かつ子どもを産むことができます。また、千年王国においては百歳以下で死ぬ者はのろわれた罪人とされますが、それ以外の者たちは死ぬことがないため、人口の数は時間の経過とともに次第に多くなっていきます。
  • 子どもが生まれたとしても、信仰は遺伝するわけではないので、中にはイェシュアをメシアとして信じることを拒む者たちがいてもおかしくありません。千年王国において生まれた人間が、たとえ神の栄光を見たとしても、即、神を信じる力が与えられるということはないのです。自分の肉に従う道を選ぶことが許されているのです。
  • 牢から解き放されたサタンの惑わしと欺きは、そうした諸国の者たちにものすごい勢いで影響を及ぼします。千年王国の始まりの時点では「剣」が「鋤」に、「槍」が「鎌」に打ち直されました。しかし千年王国の終わりには、サタンが「鋤」を「剣」に、「鎌」を「槍」に打ち返して武器をつくり、神に対する大反乱を引き起こします。サタンに従った諸国の軍勢はイスラエルに侵攻し、「聖徒たちの陣営と愛された都」、すなわち、エルサレムを取り囲みます。しかしその時、天からの火によって諸国の軍勢は一瞬にして焼き尽くされるのです。原文では「火が天から降って来て、食い尽くした」となっています。皮肉なことに、エルサレムに「上って来た」敵の軍勢に対して、天からの火が「降って来て」彼らを焼き尽くすというのが神の答えでした。こうした光景は、旧約聖書のユダの王ヒゼキヤの治世の時に起こったことと似ています。エルサレムを包囲したアッシリヤの軍勢(18万5千人)を、神がひとりの御使いを遣わして、一夜にして全滅させました(Ⅱ列王記19章、Ⅱ歴代誌32章に詳しく記されています)。これは悪の勢力を、一瞬にして、十把一絡げにして滅ぼすという神の最終的勝利のひな型です。

(3) 悪魔の最期

  • 10節を見てみましょう。その後に、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」とあります。この「火と硫黄との池」に投げ込まれたならば、そこから出る方法は全くありません。これが悪魔の最期の運命です。すでにその池には、「獣」と多くの人々を惑わした「にせ預言者」も生きたまま投げ込まれています(黙示録19:20)。彼らはその池で、「永遠に昼も夜も苦しみを受ける」と記されています(黙示録20:10)。

2. 天と地は崩れ去り、あとかたもなくなる(20:11)

  • (1)「私は・・を見た」という定型句
    これは黙示録の独特で重要な表現です。黙示録では預言的啓示の次の段階を表わす時に使われているようです。20章だけでも5回ありますので、ヨハネが何を見たのか確認しておきましょう。

① 20:01「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。」
② 20:04「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。
③ 20:04「また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。」
④ 20:11「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」
⑤ 20:12「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」
⑥ 21:01「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
⑦ 21:02「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、・・・・神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

⑥と⑦の「新しい天と新しい地」における「聖なる都」、つまり「新しいエルサレム」については、次回に扱うことにしたいと思います。

  • 悪魔(サタン)が「火と硫黄との池に投げ込まれた」後に、ヨハネは黙示録20章11節で「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」と記しています。と同時に、とてつもない、物凄いことをヨハネは見たのです。それは、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」という記述です。最後の審判がなされるこの段階で、それまでの天と地(聖書では「地も天も」とありますが、同義です)が、「あとかたもなくなる」のです。
  • イェシュアは初臨のときに次のように言われていました。「この天と地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)と。これと同じことを使徒ペテロも語っています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ 3章10節
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

  • ここに記されていることが起こるとはどういう状況なのでしょう。どんなイメージなのでしょう。想像がつきますか。全宇宙が一瞬にして崩壊することを・・・。天が大きな響きをたてて消え失せ、地も焼き尽くされるということですから、この時点で地上にある千年王国は完全に終わりを告げることを意味しています。と同時に、21章では、「新しい天と新しい地」が代わって創造されます。特徴としては、海がなくなっていることです。その「新しい天と新しい地」に、「聖なる都」、すなわち「新しいエルサレム」が天から下ってくるのです。このことは次回に取り上げたいと思います。

(2) 天と地が崩れ去った後に、最後の審判、そして新しい天と新しい地に・・

  • 流れとしては、11節の「大きな白い御座」を見ると同時に、ヨハネは「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」ことを見ています。ということは、「白い大きな御座」は「天」にも「地」にもないということになります。では、いったいどこにあるのでしょうか。天でもなく、地でもないところと言えば「空中」しかありません。中途半端な場所ですが、そこで最後の審判が行われるのです。あるいは、パウロが見た「第三の天」かもしれません。いずれにしても、そこで最後の審判が行われると考えられます。

3. 大きな白い御座における最後の審判(20:12~15)

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

(1) 白い御座とそこに着座されている方とはだれか

  • ヨハネは「大きな白い御座」とそこに着座しておられる方を見ています。なにゆえに「白い御座」なのでしょうか。黙示録4章には、ヨハネが天にある御座を見たことが記されています。御座に着いている方が碧玉や赤めのうのように見え、また御座の回りには緑玉のように見える虹があり、それらの光が交差するところが白くなっているため「白い御座」なのです。また白いために、その御座にだれが座っているのか目には見えなかったのです。
  • しかし、御座に座っておられる方をヨハネは見ています。だれが座っていたのでしょう。ちなみに、黙示録では、「御父」とか、「御子」という表現は一度もありません。御父の場合は「御座におられるお方」と表現し、御子は「小羊」が使われています(「アルニオン」は黙示録の特愛用語です)。この場合の「小羊」は「勝利の小羊」です。
  • 黙示録20章において、最後の審判のために「白い御座に着いておられる方」とはだれのことなのでしょうか。
    黙示録では、「御座に着いておられる方」は御父です。答えは、ヨハネの福音書5章22, 27節、10章30節のみことばがヒントになります。
    ①ヨハネ 5:22 「父はさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
    ②ヨハネ 5:27 「父はさばきを行う権を子に与えられました。」
    ③ヨハネ10:30「わたしと父とは一つです。」
  • 上記のみことばによれば、黙示録の最後の審判において、御座に着座されている方は王であリ、メシアであるイェシュアということになります。とはいえ、イェシュアは独断でさばくのではなく、自分をこの地に遣わされた方のみこころに従ってさばくとありますから、御子がさばくことは、御父がさばくことでもあるのです。

(2) 最後の審判

  • 最後の審判を免れる者はだれひとりとしておりません。おのおのすべての人がその行いに応じて、さばきを受けることが定まっているのです。ヘブル人への手紙9章27節には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たち人間にとって、これ以上、確かなことはありません。人はみな例外なく百パーセント死にます。それと同時に、百パーセント確かなことは、「審判」を受けるということです。
  • ここで重要なことは、ここでの審判は「救われているか、救われていないか」の審判ではありません。救いは人が死んだその時に決定されています。ですから、ここでの審判は人が生前行った行いを通して、さばきの程度を決定するためのさばきなのです。

(3) 審判の基準

  • その審判についてヨハネが見たことを私たちも見てみたいと思います(12節~15節)。どのような基準によってさばきがなされるのでしょうか。

    12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
    13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた
    14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
    15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

  • 白い御座の前には幾つかの書物が開かれており、死者たちは一人一人その書物に記されているところに従って裁かれます。いのちの書に登録されていない者はみな火の池に投げ込まれます。ただし、いのちの書に記されている者はフリーパスです。御座の前に立つ者たちは、死とハデスから出されてくる死者、海から出されてくる死者です。彼らはそれぞれの行いに従い、書物に記された基準によってさばかれます。死者の牢獄となっていた「死とハデス(救われていなかった者の魂が死んだ後に行く所)」も火の池の中に投げ込まれます。そしていのちの書に記されていない者も火の池に投げ込まれます。この火の池に入ることを、聖書は「第二の死」と説明していますが、人間の最後の敵である「死」はここにおいて完全になくなるのです。

(4) キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで

  • 使徒パウロは、だれにも見ることのできない「第三の天」にまで引き上げられた人です。その「第三の天」のことを「パラダイス」とも言います(Ⅱコリント12:1~4参照)。そのパウロが、最後の審判の後に起こることを以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント15章24~28節
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。
27 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。


最後に

  • これまで学んできた「千年王国」の祝福は旧約の預言成就の頂点でしたが、それも神のご計画の中では、最終的なご計画に至る一つのプロセスにすぎません。新しいエルサレム(イェルーシャーライム)こそ、最終的なゴール地点です。次回はそのことについて学んでいきたいと思います。
  • サタンと最後の敵である死が滅ぼされた後に来る「聖なる都、新しいエルサレム」、アブラハムが夢見ていた「生ける神の都」の到来こそ、主にあって救われた私たちの唯一の希望です。ですから、次の勧めを心に留めていなければなりません。

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ 3章15 節
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、
だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。


2014.3.2


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