大祭司アロンとその子ら(祭司)の任職のための聖別
レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。
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7. 大祭司アロンとその子ら(祭司)の任職のための聖別
ベレーシート
- レビ記8章には、アロンとその子らに対する祭司としての任職のための七日間にわたる聖別が記されています。祭司職の聖なる装束を作ること、および祭司職の任命に関する命令は、すでに出エジプト記28、29章に記されています。レビ記8章は、時間軸で見るならば、出エジプト記40章に記されている幕屋の完成の後に位置づけられ、また、レビ記1~7章に記されているさまざまな「ささげもの」に先んじていることを念頭に置く必要があります。実際に、祭司職の任命のために七日間にわたる聖別が行なわれた(レビ記8章)日から八日目に、初めて祭司としての職務が執行されています(9:1)。
- 幕屋があっても、祭司がいなければ幕屋建造の目的を果たすことはできません。それゆえに祭司たちの存在はきわめて重要であり、彼らが神の所有となって、神のみこころをなすためには、実に七日間の聖別期間を要したのです。その内訳は以下の通りです。
- アロンとその子らは、祭司としての任職を受けるために、祭司の「装束」、聖別用の「そそぎの油」、「罪のためのいけにえ」(雄牛)、「全焼のいけにえ」(雄羊)と「任職のいけにえ」(雄羊)として合わせて二頭の雄羊、「種を入れないパンのかご」を持参し、全会衆(おそらくその代表としての長老たち)とともに天幕の入口に集められました。それは、祭司の任職が神と人の証人のもとでなされたということを意味しています。
1. 聖別の対象とその手段
順番 聖別の対象 聖別の手段 1 アロンとその子ら 水で洗う 6節 2 アロン 大祭司の装束を着せる★1 7~9節 3 すべての用具 油をそそぐ★2 10~11節 4 アロンのみ 頭に油をそそぐ★2 12節 5 アロンの子ら 祭司の装束を着せる★3 13節 6 アロンとその子ら 罪のためのいけにえ(雄牛)★4 14~17節 7 アロンとその子ら 全焼のいけにえ(第一の雄羊) 18~21節 8 アロンとその子ら 任職のいけにえ(第二の雄羊)★5 22~24節 9 モーセとアロンとその子ら 奉納物を手のひらに載せる★6 25~29節 10 アロンとその子ら 油と血を装束に振りかける 30節 11 アロンとその子ら 肉を煮、パンとともに食べる 31~32節 12 アロンとその子ら 七日間、幕屋の中にとどまる 33節
★1、★3
●大祭司の装束は「栄光と美を表わす装束」、あるいは「聖なる飾り物」(「ハドゥラット・コーデシュ」הֲדְרַת־קֹדֶשׁ)とも言われ、祭司の着るものとは異なっていました。特に、大祭司の衣服については以下で詳しく取り扱います。●大祭司の装束は、①「ももひき」②「長服(下服)」③「長服を結ぶ帯」④「青の上服」⑤「エポデ」⑥「ターバン(かぶり物)」⑦「胸当て」の七つのパーツから成っています。
★2
●モーセはそそぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油をそそいで、それらを聖別しただけでなく、アロンの頭にもそそいでアロンを聖別しています。ここではモーセは神の代表であり、大祭司アロンはその子らとイスラエルの民の代表です。つまり、アロンは神と人とを仲介する代表的存在です。アロンを聖別することは、その下にいる者たち全員の聖別ともなるのです。
●レビ記8章には油そそがれた者はアロンだけのように記されていますが、民数記3章3節には「・・彼ら(アロンの4人の息子たち)は油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。」と記述されています。
●詩篇133篇に神の民が一つになって共に住むことの永遠のいのちの祝福の絵が描かれています。「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる」ことに象徴されているのです(133:2)。これはまことの大祭司イェシュアによる末広がりの祝福として実現します。
★4
●「罪のためのいけにえ」、原文では「~のための」という語彙はなく、「贖罪の雄牛」(「パル・ハハッタート」פַּר הַחַטָּאת)となっています。「パル」(פַּר)は「若い雄牛」を意味します。ちなみに、アロン自身の「罪のためのいけにえ」では「エーゲル」(עֵגֶל)という雄の子牛をささげています(9:8)。アロンとその子らは「雄牛」(「パル」פַּר)の頭に手を置いたあと、ただちにほふります。
●「置いた」と訳されたヘブル語は「サーマフ」(סָמַךְ)で、本来は、詩篇3篇5節「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主が私をささえてくださる(からだ)。」とあるように、「支える」「養う」という恩寵用語です。しかし同時に、この「サーマフ」は身代わりとなるいけにえの頭の上に手をしっかりと置くことによって、そのいけにえと一つにされることを意味しています。つまり、祭司たちの罪が若い雄牛に移されることを象徴的に示していました。また、この「サーマフ」がニファル態(受動態)で用いられる場合には、「寄りかかる」「寄りすがる」「拠り頼む」という神への信頼関係を表わす礼拝用語となります。
祭司たちは、イスラエルの中で「罪のためのいけにえ」について最初に知った者たちです。それゆえ、祭司たちはこのことについて精通しなければなりませんでした。それまで、アベルのささげもの以来ずっと、神にささげられてきたいけにえはすべて全焼のいけにえでした。血を流すことによって結ばれたモーセ契約(出エジプト24章)の時にも、流された血は全焼のいけにえと和解のいけにえのためでした。罪のために定められたいけにえは祭司が聖別されてはじめて知られるようになったのです。この「罪のためのいけにえ」は、他のいけにえとは異なる特徴をもっています。そのひとつは、その血を祭壇の四隅にある角に指で塗って祭壇をきよめ、その残りの血はすべて祭壇の土台(祭壇の周囲ではなく)に注ぐことによって祭壇を聖別したことです。このことによって祭壇にささげられるすべてのささげ物は、贖罪のために流された血を土台としているということになります。祭壇はまさに注がれた血の上に確立されているのです。つまり、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という大いなる真理がここに象徴的に表されているのです。
●「罪のためのいけにえ」を「焼いて煙にする」という動詞は「カータル」(קָטַר)ですが(レビ8:16)、また「香をたく」という意味でも使われます。ところが、そのいけにえの皮や肉、および汚物を宿営の外で火で焼く場合の「焼く」という動詞は「サーラフ」(שָׂרַף)が使われます。同じく「焼く」という意味ですが、使われている動詞が異なっています。前者の「カータル」(קָטַר)の場合は、香ばしいかおりが天におられる神に立ち上り神に喜ばれるのに対して、後者の「サーラフ」(שָׂרַף)の場合、罪のためのいけにえが宿営の外で焼き尽くされる場。この動詞は、怒りのうちに焼き尽くすという、おおむね「火」(「エーシュ」אֵשׁ)という言葉と結びついて使われています。たとえば、ナダブとアビフが焼かれる箇所(レビ10:2)や、コラの仲間たちの箇所(民数記16:35)などがそうです。
●イェシュアの場合は、上記の二種類の「焼かれる」ということが密接に結び合わされています。つまり、イェシュアは宿営の外で神の怒りの火で焼かれる「罪のためのいけにえ」として死なれましたが、同時にイェシュアの死は祭壇の上で焼かれる全焼のいけにえのように、神に喜ばれる香ばしい香りであられたのです。「全焼のいけにえ」はきわめて崇高ないけにえです。なぜなら、それはすべてが主への香ばしい香りとして祭壇の火によって煙が「立ち上った」からです。「全焼のいけにえ」(「オーラー」עֹלָה)は、「上る、立ち上る」を意味するヘブル語「アーラー」(עָלָה)から来ています。
●神の御子イェシュアは、地上での生涯の初めから終わりまで、進んでご自身を神にささげ、その最後には全き従順のうちに十字架の上でそのいのちを明け渡されました。そのことのゆえに、キリストは「私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげに」なった(エペソ5:2)と記されているのです。それゆえ、信仰をもってこのキリストの上に手を置いた者は、全焼のいけにえとして焼き尽くされた煙の香ばしさが神を喜ばせるように、完全に神に受け入れられるのです。
★5・・「任職のいけにえ」(雄羊)の場合にも、アロンとその子らは雄羊の頭に手を置き、その雄羊をほふり、その血を祭壇の回りに注ぎかけます。そしてさらにその血は、アロンとその子らの右の耳、右手の親指、右足の親指に塗られました。
●「右の耳」は「主の声を聞くため」であり、「右手の親指」は「主の働きをなすため」であり、「右足の親指」は「主に従って歩むため」の象徴です。ヘブル語の動詞で表現するならば、耳は「シャーマ」(שָׁמַע)、手は「アーサー」(עָשָׂה)、足は「ハーラフ」(הָלַךְ)と関係しており、それらは祭司の存在のすべてが、神のために聖別されることを意味しています。
★6・・「任職」を意味するヘブル語は「ミッルイール」(מִּלֻּאִים)、あるいは、冠詞付の「ハッミッルイール」(הַמִּלֻּאִים)とも表わされます。これは「満たす」という意味の動詞「マーレー」(מָלֵא)から派生した語彙です。つまり、モーセが「任職のいけにえ」と「パン」を両手に取って、それをアロンとその子らの手のひらに載せ、再度、彼らの手のひらからそれを受け取るという動作によって「手を満たす」という意味を表わし、そこからことから「任職」という語彙が派生したのです。
2. 「七日間にわたる聖別」
- 聖別のためになんと七日間も要したということは驚きです。なぜ「七日間」なのでしょうか。「七」という数字は「完全数」として知られています。まず最初に留意すべきことは「七日間」連続の聖別が、聖なる祭司職の召しの重要性と任職の資格の完全性を祭司たちに教えるのものであったということです。
(1) ヤコブ(イスラエル)の葬儀の期間(創世記50:10)
(2) 「過越」の後に七日間「種を入れないパン」を食べる(出12:15)。
(3) 牛と羊の初子は七日間、母親のそばに置き、八日目に主にささげる(出22:30)。
(4) 「仮庵の祭り」が七日間にわたって行なわれ、その期間を「仮庵」で過ごす(レビ23:34, 42)。
(5) ツァラアトに冒されたミリヤムは、七日間、宿営の外に締め出された(民12:15)。●その他に、ダニエルの「七十週の預言」、「七の七十倍」というより徹底した神のご計画の中に表されている神の恵みも、「七」という数字に関係しています。
- このように、聖書には「七日間」という語彙がしばしば登場しています(69回)。これは神が定められた厳粛な聖別の期間と言えます。
- そして次に留意すべきことは、「七日間」の後には必ず「八日目」があるということです。実際、アロンとその子らが七日間の聖別期間を満たしてから、「八日目に」はじめて祭司職の務めを執行していることです(9:1)。そのことによって「主の栄光が民全体に現れ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くし」ました(9:23~24)。しかも、この天からの火によって祭壇の火はたえず燃え続けている必要があったのです(6:9, 12, 13)。
- 「過越の祭り」の後の安息日の翌日から七週(7×7=49日)の翌日、すなわち50日目には「初穂の祭り」という主の例祭があります。これも「八日目」に通じる象徴的な位置づけにあります。つまり、五旬節(ペンテコステの日)に天からの火である聖霊が注がれたという出来事の型が、レビ記8~9章にあると考えることができるのです。
- まさに、「八日目」は新しい週の一日目であり、ここにはよみがえりの型があります。イスラエルの主の祭りにおいて八日目に行なわれた唯一の祭りは、仮庵の祭りでした(レビ23:36, 39, 民29:35)。この祭りはやがて地上に現わされる栄光に満ちた「千年王国」の型と見ることができます。割礼も八日目に行なわれました(レビ12:3)。これも明らかによみがえりをもたらすものの型です。つまり、真の割礼とは「肉のからだを脱ぎ捨てる」ことだからです(コロサイ2:11~13)。
2016.5.14
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