****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

天上のハレルヤ・コーラス

本論 13. 天上のハレルヤ・コーラス

  • ところで、19章1節には、天において、大群衆による「ハレルヤ」の叫びが上がる。「ハレルヤ」の叫びはヘブライ語の「ハレルー・ヤー」、訳すと「ヤー(神)をほめよ」である。ヨハネはこれを詩篇から取り入れ、19章で4回使っている。「ハレルヤ」という単語は新約聖書においてはここにしか見られない。それゆえ、ハレルヤの喜びはそれを裏付ける大切な根拠があるのである。

1. 神の義(さばき)の確かさ

  • 19章1~8節は「天上のハレルヤ・コーラス」として有名であるが、この賛美の叫びを動機づける根拠(理由)の第一は、神の義のわざの確かさのゆえである。
  • ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(1~2節)
  • 1節bは、悪よりの救い、つまり神がご自分の持っておられる栄光を私たちに回復してくださること、しかもそれらを実現にまで至らせる力、これらはただひとえに神によるものであることを歌っている。
  • 2節では「神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた」とある。黙示録6章10節で殉教者は「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」と祈ったが、その願いが聞き入れられ、悪によってかき乱されていた神の聖が回復し、しかも彼らの祈りの力をはるかに上回る仕方で回復されたのである。まさに神の義のわざ(裁き)は約束どおり、確かに行なわれたのである。
  • 天にいる大群衆(御使いたち)は3節で、再度「ハレルヤ。」と叫び、「彼女の煙は永遠に立ち上る」と歌った。なぜなら、悪の重荷が人間の歴史にどれほどの苦しみもたらしてきたかを見てきたからである。「煙」は神による悪の破壊の結果を象徴している。
  • 4節では、24人の長老たちと四つの生き物が、この段階で神を拝み、「アーメン。ハレルヤ」と賛美する。ここで彼らは黙示録の舞台から姿を消している。

2. 小羊の婚宴の到来

  • 天上のハレルヤ・コーラスを裏付ける第二の根拠は、小羊の婚宴のゆえである。救いの最終段階は単に悪が滅ぼされることに尽きるのではない。19章5節から神の民のすべてに、新たな「ハレルヤ」の賛美を裏付ける出来事が啓示される。その出来事とは小羊の婚姻である。
  • ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(6~8節)
  • 神への賛美は更に高まる。なぜなら“小羊の婚宴の時が来たからである。”である。新郎はキリストで花嫁は教会(キリスト者)である。聖書には度々神とその民との交わりを婚礼にたとえているが、それは神に対する信頼と愛の交わりを示すのにふさわしいたとえだからである。教会はキリストの十字架によって与えられる義の衣をまとって、主との信頼と愛の交わりに生きる花嫁である。花嫁は、派手に着飾ったバビロン、大淫婦とは対照的に、素朴さと純潔さが結びついた、輝く清い麻の衣をまとって式場に臨んでいる。そしてその装いを“正しい行ない”と言っている。それは神の言葉に対する服従を意味している。それが花嫁である教会がまとう衣装であり、これまで、その衣を汚さないために迫害を受け、殉教の血を流してきたのである。

3. 白馬の騎手キリストと聖徒たちによる統治

  • 19章6節の「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」という賛美は、11節以降にある王の王、主の主であるキリストの勝利に対するものとも受け取ることができる。そこで、天上のハレルヤ・コーラスを裏付ける第三の根拠は、贖われた者たちが地上で千年間、キリストに仕え、キリストとともに地上を治めることのできるゆえである。
  • ここでは、キリストは小羊としてではなく、勝利の主として登場する。白馬にまたがった方は王としての権能を持っている。その名が「忠実、真実」と呼ばれるとは、義をもって支配し、完全に信頼できる方であることを意味する。
  • 目の燃える炎とは不純を焼き尽くすことの象徴であり、王冠にだれも知られない名が記されているとは、人の理解を超える至高の方で、ただ礼拝すべき方であることを意味する。更に血に染まった衣をまとい、その名を神の言葉と呼ばれるとあるのは、主は人となられた神の言葉であり、その十字架の血によって、罪と死とサタンに勝利して、罪人に救いの道を開かれた方であること、またその御口から出る鋭い両刃の剣である神の言葉をもって、全ての善悪を識別して公正にさばき、鉄の杖(ゆるぎない支配の確立)をもって治められる方であることを意味する。要するに主キリストは、王の王、主の主であられる。
  • 白馬の騎手、王の王、主の主であられる方と彼につき従った天の軍勢と獣と地上の王たちの軍勢との全面戦争によって、サタンは千年間幽閉され、聖徒たちはキリストとともに地上の王国を支配するようになる。この期間に、地上の王国の祝福に関する多くの預言が実現する。しかしその期間は神の救いの最終ゴールではない。神は聖徒たちのために「永遠の御国」(黙示録21章1~2節)を備えておられるからである。
  • 白馬
    新約聖書では「」はほとんど出てこない。キリストとのはっきりした関係で出てくるのは、ヨハネ黙示録19章11節だけである。そこでは終末に再臨して、地を支配するイエスを「白馬の騎手」として描いている。王たちの行進とは対照的に、エルサレム入場のイエスは「ろば、それも子ロバ」に乗っている。新約聖書の人々にとって、馬はむしろイエスのイメージとは逆であった。馬はローマの皇帝の乗るもの、従って馬はローマ、力、軍事力、権力の象徴だった。

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