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宗教指導者たちとの対峙 (1)

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93. 宗教指導者たちとの対峙 (1)

【聖書箇所】マタイの福音書21章23~32節

ベレーシート

●イェシュアが「いちじくの木を枯らした」という出来事、あるいは「山に向かって、『立ち上がって、海に入れ』と言えばそのとおりになる」ということ、これらはエルサレム神殿が崩壊して、ユダヤ人たちが諸国民の中に離散することを預言したものでした。なぜ、そのようなことになるのか。その理由についてまとめられているのが、今回から取り上げる21章23節~23章39節です。この箇所にはイェシュアと対峙する祭司長たち、民の長老たち、パリサイ人たち、サドカイ人、律法学者たちが登場します。彼らは当時の利権階級にあった宗教的指導者たちです。それと対峙するイェシュアが、彼らの真の姿を、たとえ話を用いて語っているのです。と同時に、イェシュアは同時に自分が何者であるかも暗に語っているのです。

【新改訳2017】マタイの福音書21章23~27節
23 それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」
24 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
26 だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」
27 そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。※

※ここで閉じ括弧がないのは、まだ話が終わっていないからです。今回は、まず23~27節から「神から与えられる権威」について、そして次に28~32節から「義の道を拒む不信仰」について取り上げたいと思います。ふたつの部分に共通しているのは「ヨハネ」です。


1. 権威についての問答

●祭司長たちや長老たちがイェシュアに対して、「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」と聞いて来ました。この詰問には、宮の中でのイェシュアの大胆な振舞を決して許すことはできないという意図があります。「だれが」という言葉の裏には、神殿の管理をゆだねられている自分たち以外に、だれもこのような権威を与えることなどできないはずだという自負と怒りが込められていたのです。

●祭司長たちや長老たちの言いがかりに対して答える代わりに、イェシュアは逆に彼らに質問をしています。その質問とは「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか」というものでした。このイェシュアの質問は、ヨハネの権威と自分の権威が本質的に同じものであることを意図しています。つまり、ヨハネの権威を受け入れる者は、イェシュアが神から遣わされたことを受け入れなければならないという論理です。なぜなら、ヨハネが「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。」(マタイ3:11)と証ししていたからです。

●祭司長たちや長老たちはどのように答えるべきか、「論じ合った」とあります。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」とその様子が記されています。いずれの答えも、自分たちにとっては都合が悪いと思った彼らは、「(私たちには)分かりません」と答えたのです。それゆえ、イェシュアは蛇のようにさとく、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と返答を拒否されました。とはいえ、イェシュアの言動が何の権威によっているのか、そして、それは彼らのいう権威とは異なるということを暗に示しているのです。

2. 神から与えられる権威

(1) 権威の根拠

●マタイの福音書21章23~27節におけるテーマは「権威」です。権威とは与えられるものです。神の世界では、権威とは、神のご計画とみこころが実現するために神から与えられる(賦与される)ものです。ですから、神から与えられた権威がなければ、神の働きはできないのです。権威の問題はとても重要です。イェシュアは権威の根拠について、その公生涯において明確に答えています。ヨハネの福音書によれば、権威は「上から与えられる」必要があります。ローマ総督ピラトは、イェシュアの無罪を晴らそうとして、自分の無罪を弁明するようにイェシュアを促して、以下のように語っています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 19章10~11節
10・・・「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません

●権威には「上から与えられる権威」と「下から与えられる権威」があるのです。イェシュアの権威は神から与えられたものですが、ユダヤ教指導者たちの権威は下から与えられたものなのです。それゆえ、彼らは、神ではなく、群衆(人々)を恐れるのです。

(2) 権威の賦与の目的

●神から与えられる権威の目的は何でしょうか。イェシュアはこう述べています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 17章2節
あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。
それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。


●使徒パウロもこう述べています。

①【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 10章8節
あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が私たちに与えてくださった権威について、私が多少誇り過ぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

②【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 13章10節
そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。

●「建てる(建て上げる、再建する)」を意味するヘブル語は「バーナー」(בָּנָה)、「倒す(破壊する、打ち倒す、地位から引き降ろす)」を意味するヘブル語は「ハーラス」(הָרַס)です。 この二つの語彙は神のご計画が実現するために重要です。神が油注がれた者に権威を与える目的は「建てる」ことにありますが、その究極的な目的を実現するために、同時に「倒す」権威も不可欠なのです。以下は、エレミヤが預言者としての召命を受けた時のことばです。

【新改訳2017】エレミヤ書1章9~10節
9 そのとき【主】は御手を伸ばし、私の口に触れられた。【主】は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
10 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

●神はエレミヤに対して「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する」(10節)と言っています。「任命する」(「パーカド」פָּקַדのヒフィル態)ということばの中に、「管理させる、総督にする、権威をゆだねる」という意味があります。その目的は神の民を「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」です。このうち前の四つは「さばき」を意味する消極的表現であり、後の二つは「救い」を意味する積極的表現です。

●ちなみに、前の四つは「引き抜く」(「ナータシュ」נָתַשׁ)、「引き倒す」(「ナータツ」נָתַץ)、「滅ぼす」(「アーヴァド」אָבַד)、「壊す」(「ハーラス」הָרַס)。後の二つは「建てる」(「バーナー」בָּנָה)、「植える」(「ナータ」נָטַע)。これらは、イスラエルが回復するために、どうしても踏まなければならない神の手順なのです。そして預言者エレミヤのみならず、イェシュアこそがすべての言動をもってこれらの務めを果たしたのです。

3. ふたりの息子のたとえ話

●続いてイェシュアは彼ら(祭司長たちと民の長老たち)にたとえ話をしました。

【新改訳2017】マタイの福音書21章28~32節
28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。

●このたとえ話はマタイ独自のものです。「二人の息子のたとえ話」と言われますが、兄とか弟ではなく、原文では「最初の者(子)」を意味する「ホ・トローポス」(ὁ πρῶτος)、そして「別の者(子)」を意味する「ホ・ヘテロス」(ὁ ἕτερος)となっています。【新改訳2017】より前の訳では、兄が父に「行きます。」と答えておきながら、「行かなかった」とあります。そして弟の方は「行きたくありません。」と答えたものの、「あとから悪かったと思って出かけて行った」とあります。しかし【新改訳2017】では兄と弟の言った内容が逆になっています。したがって、「兄」と「弟」のどちらかというがだれかということは重要なことではありません。むしろ、父のみこころに実際に応じたのはだれであったのかということが重要なのです。

●聖書で「兄」と「弟」のイメージには、カインとアベル、エサウとヤコブのように、また、ルカ福音書の15章のたとえにある二人の息子にしても、「兄」の方はいずれも神からすれば悪いイメージがあります。ですから、そのようなイメージを持って今回のマタイのたとえを読むと、頭が混乱してきます。「兄」の方が父の願ったとおりにしているからです。しかもこの「兄」のことを、イェシュアは「取税人たちや遊女たち」としているのです。ですから、ここは原文どおり、「最初の者」と「別の者」と訳すほうが、混乱が起こらずに済むと(私的には)考えます。

●イェシュアの語る「たとえ話」はすべて天の御国に関する内容です。先の権威について、イェシュアは自分のしていることが何の権威によってしているのかを答えないとしながらも、「二人の息子のたとえ話」(21:28~32)、ひいては次のたとえ話である「農夫のたとえ話」(21:33~46)、さらには22章1~14節の「招きを断る人のたとえ話」を通して、天の御国に入る者の資格や条件を、神の権威によって語っているのです。

●ここで特に31~32節に注目してみましょう。

31・・・イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。

●31~32節での「彼ら」や「あなたがた」とは、「祭司長たちや民の長老たち」のことです。つまり、ユダヤ教の指導者たちのことです。その彼らに向かって、イェシュアは「取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」と述べています。その理由は、ヨハネが来て義の道を示したとき、取税人たちや遊女たちは彼を信じたからです。ヨハネが示した義の道とは何のことでしょうか。

●「義の道」とは「主の道」、「救いの道」です。ヨハネは「主の道を備える」ために神から遣わされた預言者でした。バプテスマを受けに来る大勢の群衆を見るために来ていたパリサイ人やサドカイ人に対して、ヨハネは言いました。「まむしの子孫たち、だれが、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(マタイ3:7~9)。

●マタイはヨハネの語ったメッセージを「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(3:2)と要約しています。「悔い改める」(「メタノエオー」μετανοέω)という動詞は二つの語彙からなっています。それは、「変える」(「メタ」μετα)という語彙と「考える」(「ノエオー」νοέω)という語彙です。直訳的には「考えを変える」という意味ですが、それだけでは聖書の言う真の「悔い改める」という意味にはなりません。ヘブル語の言う「悔い改める」とは、考えを変えることでも、あるいは後悔することでもなく、ただ神に立ち返る(神に向きを変える)ことを意味しています。

【新改訳2017】エゼキエル書 33章11節
彼らにこう言え。『わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

●エゼキエル書33章11節で強調されていることは、イスラエルの民が神に立ち返ることです。数々の罪を犯さないという決心よりも、ただ神のもとに帰ってくること、これが悔い改めです。11節には「立ち返れ」を意味する語彙「シューヴー」(שׁוּבוּ)が3回も使われて強調されています。悪しき者がその道から神の方に向きを変えること、これがヨハネの語った「義の道」なのです。しかも、それは天の御国の王となるイェシュアを迎え入れることをも含んでいるのです。「取税人たちや遊女たち」がヨハネを信じたということは、天の御国の民となることを意味します。なぜなら、ヨハネは「義の道」、すなわち「主の道」を備える預言者だったからです。マタイ21章32節で「ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」とイェシュアは言っています。「あなたがた」、つまり祭司長たちや民の長老たちはが、ヨハネの語った義の道を「信じず、それを見ても、後で思い直して、信じることをしませんでした」とは、彼のメッセージを拒絶し続けたことをイェシュアはたとえ話を通して語ったのです。

ベアハリート

●ヨハネの「義の道」のメッセージの背景には、エゼキエル書33章のイスラエルの民に対する悔い改めへの訴えと同時に、イスラエルの回復のために不可欠な真の牧者の存在があることを私たちに訴えかけています。エゼキエル書34章1~10節では、「イスラエルの牧者たち」、つまり、指導者たちが羊に対する責任を託されたにもかかわらず、自分たちの利益を優先してその責任を果たさなかったために非難されています。民の上に置かれた権威ある者たちは神の代理者として民の利益が損なわれないように、またその必要が満たされるように、民の世話をする義務がありました。しかし現実は、民の幸いを求める代わりに、むしろ彼らを搾取したのです。羊たちを養うのではく、自らを肥やしたのです。それゆえ、イスラエルの民は近隣諸国の餌食となり、敵の攻撃の結果、地の全面に散らされてしまったのでした。そこで、主なる神がイスラエルの民を再び集めるために、主ご自身が牧者となることを預言したのがこのエゼキエル書34章なのです。

●イェシュアは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)と言われました。そして弟子たちにも、「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」(マタイ10:6)と述べています。これはエゼキエル書34章の預言が実現されるためなのです。以下の預言は、イスラエルの指導者たちを「牧者」にたとえ、その使命を果たさなかったゆえのさばきの預言が語られています。

【新改訳2017】エゼキエル書34章2~10節
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たち(רוֹעֵי יִשְׂרָאֵל)に向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。
3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。
4 弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。
5 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。
6 わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。
わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。
7 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。
8 わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。
9 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。
10【神】である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」

●それゆえ、神がイスラエルに真の牧者を遣わされるという預言が続いて語られています。

【新改訳2017】エゼキエル書34章11~16節
11 まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す
13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──【神】である主のことば──。
16 わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

(※11~16節にある太字の動詞、これらの恩寵用語の一つ一つを味わうべきです。)

●2~10節でイスラエルにおいて「わたしの羊」を養うべくゆだねられた指導者たちの断罪が語られると同時に、11~16節ではイスラエルを回復させる真の牧者が預言されています。「わたしの羊」とはイスラエルの民のことです。彼らに対する真の牧者の恩寵的な行為を深く味わうべきです。というのも、私たちの永遠の牧者が支配される所こそ天の御国だからです。そこではイスラエルの民のみならず、異邦人である私たちも主の羊として養われるのです。真の牧者による慰めの中に主にある者たちが生きはじめるとき、そこにはキリストにある真の平和(一致)が実現するのです。

2021.1.3
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