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宗教指導者たちとの対峙 (2)

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94. 宗教指導者たちとの対峙 (2)

【聖書箇所】マタイの福音書21章33~34節

ベレーシート

●前回に続いて、イェシュアが宗教指導者たちに語ったもう一つの「たとえ話」に目を留めたいと思います。前回のたとえ話の対象は「祭司長たちと民の長老たち」でしたが(23節)、今回の箇所の45節を見ると「祭司長たちとパリサイ人たち」となっています。いずれも、当時の宗教指導者たちであることは言うまでもありません。エルサレムに入場したイェシュアは、ますますこの宗教指導者たちと対峙するようになり、彼らの陰謀によって、数日後には十字架の道に進んで行きます。前回と今回のたとえ話は、宗教指導者たちに向けたものであり、彼らの真の姿が神によって浮き彫りにされるという内容です。先ずは、今回のテキストを読んでみましょう。

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【新改訳2017】マタイの福音書21章33~46節
33 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。
35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。
36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。
37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。
39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。
40 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」
41 彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」 
42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』 
43 ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
44 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。
46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。


1. たとえ話にある「ぶどう園」が意味すること

●33節に「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。」とあるように、今回は「ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た主人のたとえ話」です。前回(21: 28~32)の箇所も「ぶどう園で働くように命じた二人の息子をもつ人のたとえ話」でした。エルサレムに入る前にユダヤ地方で語ったとされる「ぶどう園で働く者を雇うために出かけた主人のたとえ話」(20:1~16)もあります。すべて「ぶどう園」という設定です。

●「ぶどう園」とは「イスラエルの民」を表し、その「主人」とは「神」を意味しています。イザヤ書5章1~2節には、その関係を歌った「愛の歌」が記されています。新約では「ぶどう園」、旧約では「ぶどう畑」と表現されていますが、同義です。英語では「ヴィンヤード」(vineyard)、ヘブル語は「ケレム」(כֶּרֶם)です。

【新改訳2017】イザヤ書5章1~2節
1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。
2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。

●1節にある「わたし」と「わが愛する者」の「わが」とは預言者イザヤのことで、「愛する者」とは「主」(7節では「万軍の主」)のことです。そしてその「ぶどう畑」(「ケレム」כֶּרֶם)とは「神の民イスラエル」を表わしています。つまり、ここでは、「わが愛する者が所有するぶどう畑に対する愛の歌」を預言者イザヤが歌うという設定になっています。

●この歌には、「ぶどう畑」にたとえられたイスラエルの民に対する神の愛がよく表わされています。「ぶどう畑」を植え、育て、収穫するためには手がかかるようです。そのことが以下の動詞(恩寵動詞)に表わされています。

(1) 「掘り起こす」(「アーザク」עָזַק)でこの箇所のみ。 
(2) 「石を取り除く」(「サーカル」סָקַר)
(3) 「植える」(「ナータ」נָטַע) 
(4) 「(やぐらを)立てる」(「バーナー」בָּנָה)
(5) 「(石を削って)掘る」(「ハーツェーヴ」חָצֵב) 
(6) 「(期待して)待ち望む」(「カーヴァー」קָוָה)

●石を取り除くことだけでも大変なことですが、そこを耕してぶどう畑にし、そこに「良いぶどうを植えた」のです。「良いぶどう」とは「特選のぶどうの木、甘いぶどう」を意味する「ソーレーク」(שֹׂרֵק)という語彙が使われています。すなわち、イスラエルは神である主にとって、特選の民だということです。主はその回りに「やぐら」(=見張りの塔「ミグダル」מִגְדָּל)を立て、石を削ってぶどうの実を潰すための「踏み場」も造りながら、実のなるのを楽しみに待っていたのです。ところが、その期待にもかかわらず、「酸いぶどう」ができてしまったのです。

●「酸いぶどう」と訳されたことばは、「酸っぱいぶどう」という意味ではなく、「腐ったぶどう」という意味です。原語は複数形で「ベウシーム」(בְּאֻשִׁים)ですが、その語源である動詞の「バーアシュ」(בָּאַשׁ)は「異臭を放つ」という意味です。例えば、エジプトに対する神のさばきとして、死んだ魚のためにナイル川の水は臭くて飲めなかったとあります(出7:18)。また、蛙が死んで地は悪臭で満ちたともあります(出8:14)。さらに、出エジプトした神の民が荒野で神からマナを与えられますが、多く取ったマナは翌日には虫がわいて、臭くなったとあります(出16:20)。このように、「酸いぶどう」は「悪臭を放つぶどう」なのです。「良い」「甘い」「特選のぶどう」がなるのを期待していた主にとって、失望させる結果となりました。

●「悪臭を放つぶどう」はもはや捨てるしかありません。そのようなぶどうの木に期待して、再び「良いぶどう」として新しくするというのは本来あり得ないことです。ところが主はそのことをなされるのです。それは、バビロン捕囚となった神の民を再び新しくして、エルサレムに帰還させるという形で実現します。その約束の預言が以下に記されています。

【新改訳2017】エレミヤ書29章10~14節
10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所(=エルサレム)に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

※14節の預言は、バビロン捕囚からの解放だけでなく、それを越えた「終わりの日」の預言ともなっています。


2. 「ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た主人のたとえ話」

●そのような背景を持つ「ぶどう畑」を、イェシュアもたとえ話に用いて語っているのです。今回のたとえ話の「ぶどう園の主人」も、同様の失望を農夫たちによって与えられます。

【新改訳2017】マタイの福音書21章33~39節
33 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。
35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。
36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。
37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。
39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。

●このたとえ話の「ぶどう園を造った主人」とは「」のことを表わしています。「ぶどう園」(「ケレム」כֶּרֶם)はイスラエルの民(神の民)のことです。そして、その主人が自分のぶどう園を貸していた「農夫たち」が神の民(ユダヤ人)の「指導者たち」です。収穫の時が来て、収穫を受け取ろうとして主人が農夫たちのところに遣わした「しもべたち」は「預言者たち」です。ここで驚くべきことは、主人の農夫たちに対する態度が尋常ではありません。「農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした」にもかかわらず、主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたのです。しかし同じことをする農夫たちに対して、「今度は、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」に至っては、お人好しもいい加減にしたほうが良いと言われるに違いありません。当然、何の躊躇もなく、農夫たちは「その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合い、彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。」という話です。

●農夫たちは、この主人の息子が遣わされても、特別扱いをせず、他のしもべたちと同様に扱い、むしろ主人の「跡取り」(相続者)である息子を殺して、その財産を奪おうとします。この話の主人の愚かさは、私たちの理解を越えています。全くの不条理です。道理に合いません。ここに十字架のつまずきがあります。しかし、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」 (Ⅰコリント1:25)のです。

3. イェシュアの問い掛け

●イェシュアはここでたとえ話を終えて、「ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか」と問い掛けます。宗教指導者たちはイェシュアにこう答えました。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」(41節)。このことばは事実、その通りになります。「別の農夫たち」とは、43節でイェシュアが語っているように、「神の国の実を結ぶ民」のことで、メシアを信じるイスラエルの民、あるいは、パウロのいう「新しいひとりの人」(=教会)のことと言えます。その前に、「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして」とあります。「その悪者ども」とは、「ひどく悪質な者たち」という意味で、エルサレムの宗教指導者たちを意味しているのです。つまり、彼らは神がすること、それがやがて自分たちの身に起こることを、皮肉にも、自分たちの口で預言してしまったのです。

4. 家を建てる者たちの捨てた「石」が「要の石」となる

●さらに続けて、イェシュアはこう言います。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか」と。「あなたがたは読んだことがないのですか」という言い方は、プライドが高い宗教指導者たちにとって耐えられないことばだったと思いますが、ここで語られるイェシュアのことばがとても重要なのです。このたとえの核心的部分となります。

●イェシュアはこれまでに(つまり、エルサレムに入られるまでに)、弟子たちに対して、自分がエルサレムにおいて、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを三度も語ってきました(16:21, 17:22~23, 20:18~19)。しかし、ここでは初めてエルサレムの宗教指導者たちに対して、ご自分が彼らによって苦しめられ、殺され、そしてよみがえることを、たとえ話を通して語ろうとしているのです。彼らによって「苦しめられ、殺される」ことはたとえ話を通して語りましたが、「三日目によみがえる」ということは、聖書の預言を通して語ろうとした。それが「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか」です。

●当時の宗教指導者たち、特にパリサイ人、律法学者たちは聖書(タナフ)の専門家たちでした。そのような者たちに対して、イェシュアはこう言ったことがあります。

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章39~40節
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

●また、弟子たちに対してもこう語りました。

【新改訳2017】ルカの福音書24章44節
「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

●イェシュアが「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか」と言って示しているのは、詩篇にあることばです。ここでは詩篇118篇がそのまま引用されています。

『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』 

●かつて私が教会に行きはじめた頃、教会学校で下記のような歌が歌われていました。

この日は この日は 主が造られた 主が造られた 
われらは 喜ぼう この日をば この日をば
この日は主が造られた われらはこの日を喜ぼう  
この日は この日は 主が造られた 

●ここでの「この日」を、「主が復活された日」だと知ったのは、お恥ずかしい限りですが、私が神学校を卒業して、牧師になってからでした。それまではこの歌を、「この大切な一日を主が造ってくださったのだから、この一日を大切にして、一生懸命生きよう」といった意味でしか理解していなかったのです。ところが、この歌は詩篇118篇24節「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。」から作られたもので、それは、イェシュアが引用された詩篇118篇22~23節に引き続いて置かれている聖句なのです。

【新改訳2017】詩篇118篇22~23節
22 家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
23 これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。

●このみことばに引き続いて、24節「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。」とあるのです。この22~23節は「メシアの復活」を預言している箇所です。「家を建てる者たちが捨てた石」の「家を建てる者たち」とは「ユダヤの指導者たち」のことです。その彼らが「捨てた石」とは、単数の「エヴェン」(אֶבֶן)であり、それは御子イェシュアを象徴しています。

●「捨てた」と訳されたヘブル語は「マーアス」(מָאַס)で、きわめて辛辣な意味をもった語彙です。単に「捨てた」という訳ではこの動詞のもつ意味を正しく伝えていません。「マーアス」(מָאַס)は、忌み嫌う、吐き気を催すほどに嫌で嫌でたまらない、断固として拒絶する、さげすみ、軽蔑して退ける、を意味します。ところがそのような「石」を、神は家(=神と人とが永遠にともに住む家)を建てるためになくてはならない「要の石」とされたのです。イェシュアの十字架の死と復活は、人の目には不可解な出来事ですが、神のご計画においてはなくてはならない重要な出来事だと言っているのです。

●ですから、24節で「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。」とあり、先ほどの賛美が作られているのです。この日は神のご計画におけるD-Dayなのです。オスカー・クルマンという新約学者は、その著「キリストと時」の中で、「戦争における決定的戦いはすでに為されています・・・にも拘らず、戦争はまだ続行しているのです」と述べて、それを第二次世界大戦におけるD-Day(ノルマンディー上陸作戦;フランスへの決定的上陸の日)と、V-Day(ヨーロッパ戦勝記念日;連合国の最終的勝利の日)にたとえています。つまり、これを御国の福音に当てはめるなら、イェシュアの十字架の死と復活はD-Dayに相当し、イェシュアの再臨はV-Dayに相当します。ちなみに、D-Dayの「D」は「決定的勝利」を意味するdeterministicの「D」であり、 V-Dayの「V」は「究極的勝利」を意味するVictoryの「V」です。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 16章20節
平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます(未来形―究極的勝利)。


【新改訳2017】マタイの福音書21章44節
「また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」

画像の説明

●これはどういうことでしょうか。「この石」とは「要の石」です。「要」のヘブル語は「ローシュ」(רֹאשׁ)で「頭、かしら」を意味します。つまり、神の主権を意味する言葉です。その石が上から落ちてくれば、その石の重さで人を押しつぶすという意味ではなく、神の主権に逆らうならば、その人は「粉々に砕かれ、押しつぶ」されるというさばきがもたらされるということです。「この石の上に落ちる人」も「石が人の上に落ちる」場合も、いずれも、神のさばきを免れ得ないことを意味しています。後に、クリスチャンを迫害するサウロ(パウロ)に対して、主が「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」(使徒26:14)と言われました。「とげの付いた棒」とは羊飼いが羊(家畜)を導くために使うもの(伝道者12:11「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」)ですが、それは「権威」を象徴しています。それを「蹴る」とは、神の権威に「逆らう」ことを意味します。同様に、「要の石」、すなわち「かしら」(「ローシュ」רֹאשׁ)に逆らうことも神の権威に逆らうことであり、その結果、神のさばきは避けられないということなのです。

ベアハリート

●イェシュアの語るたとえ話(「マーシャール」מָשָׁל)は、まさに「とげの付いた棒(突き棒)」のような意味と機能を持っています。それゆえ、祭司長たちやパリサイ人たちは、イェシュアのたとえ話が自分たちについて語られていることに気づいたとあります。ここでのたとえ話が複数となっていることから、おそらく、「ぶどう園で働くことを命じられた二人の息子のうち、父の命令に対し口で行きますと言っておきながら、行かなった息子」と、「主人の息子を殺して、その財産を手に入れようとしたぶどう園の農夫たち」が、いずれも自分たちのことを指していることに気づいたのでしょう。そのため、彼らはイェシュアを捕らえようとしましたが、群衆を恐れました。なぜなら、群衆はイェシュアのことを預言者だと認めていたからです。彼らは神の権威を持つイェシュアに対して陰謀をたくらみ、殺そうと画策します。イェシュアは彼らによって捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられるために、過越の祭りの真夜中から朝にかけて、不当で異常な裁判がなされ、死刑に定められます。しかし、神のD-Dayは闇のただ中にも備えられているのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書1章5節
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

2021.1.17
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