宗教指導者たちとの論争 (2)「復活」
97. 宗教指導者たちとの論争 (2)「復活」
【聖書箇所】マタイの福音書22章23~33節
ベレーシート
●22章15~46節は、イスラエルの指導者たち(パリサイ人・サドカイ人・律法の専門家)とイェシュアとの神学的論争が以下のようにまとめられています。
(1) 納税の問題(パリサイ人)・・・「税金を納めることは律法にかなっているのかどうか」(22:15~22)
(2) 復活の問題(サドカイ人)・・・「復活があるとすれば、その際どうなるのか」 (22:23~33)
(3) 律法の問題(律法の専門家)・・「律法の中でどの戒めが一番重要か」(22:34~40)
(4) メシアの問題(パリサイ人)・・「キリストはだれの子か」(22:41~46)
●今回はその第二の「復活」に関することです。この問題においても、サドカイ人たちの視点とイェシュアの視点は異なります。イェシュアの視点は常に「天の御国」に置かれています。ですから、私たちの視点もそこに置きながら、イェシュアの語られたことばを理解したいと思います。
【新改訳2017】マタイの福音書22章23~33節
23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
27 そして最後に、その妻も死にました。
28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。
1. サドカイ人たちの質問
●サドカイ人たちは、もし復活があるとすれば、その際「彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか」という話を作りあげて、イェシュアに質問しました。その質問の真意は論理的に困るような話をして、イェシュアを罠に陥れようとする企みでした。その罠とは何でしょうか。クリスチャンであるあなたなら、この質問に対してどのように答えるべきかを考えてみてください。クリスチャンにとって復活の教理は非常に重要です。死んだ人がよみがえるとき、その際にどのような者になるのか、正しい知識が必要です。その知識がなかったとするなら、おそらく混乱してしまうに違いありません。
●ところで、当時のサドカイ派の人々は祭司長、および長老たちからなる富裕層の指導者たちです。彼らは現実主義的な保守派で、支配体制の現状維持を何よりも望んでいました。彼らは、「復活も、御使いも霊もない」(使徒23:8)と言っており、モーセ五書(トーラー)のみを正典とし、「預言書」「諸書」は正典として認めていませんでした。そのような者たちが「復活」のことについてイェシュアに論争を持ちかけたのです。
●その内容は、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」というモーセの律法を取り上げています。これは「レビレート婚」と言われるもので、子孫を絶やさないための制度で世界の国々にもあるようです。モーセの律法では以下の箇所にそのことが記されています。
【新改訳2017】申命記25章5節
兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
●その実例が、ヤコブの子ユダの家庭に見られます。ユダには三人の息子がいましたが、ユダはその長子エルにタマルという妻を迎えました。しかしそのエルが死んだため、ユダは次男のオナンに「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい」と言っていますが、オナンはそのようにしませんでした。創世記38章の話は、「モーセの律法」が賦与される前から、レビレート婚の教えがすでにあったことを教えています。
●サドカイ人たちの質問は、「七人の兄弟がいて、長男は結婚したが死に、子がいなかったので、その妻を弟に残しました。そして、次男も三男も、そして七人までもが彼女を妻にしたのです。そして最後には、その妻も死にました。もし復活があるとすれば、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。」というものでした。
2. 「あなたがたは、思い違いをしている」
●サドカイ人たちの質問に対して、イェシュアは直接答えていません。むしろこう答えています。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています」と。これは、宗教指導者であるサドカイ人たちにとって、プライドを傷つけられることばであったと思います。イェシュアの彼らに対する痛烈な批判のことばはこうです。
(1) 聖書(神が与えたトーラー)を知らない。
(2) 神の力も知らない。
(3) (完全に)思い違いをしている。
●原文では(3)の「思い違いをしている」が(1) と(2)の前に置かれて、そのことが強調されています。それだけでなく、(1)と(2)の事柄についてそれぞれ以下のことばが付け加えられています。つまり、
(1)は 31節 「死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。」
(2)は、32節「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
マルコの福音書の並行箇所には、「思い違いをしている」という語彙が、以下のように二回も繰り返されています。
【新改訳2017】マルコの福音書12章24, 27節
24イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」
●特に27節に「大変な思い違いをしています」とあります。「大変な」を意味するギリシア語の「ポリュス」(πολύς)は、「程度の大きさ、重大な、甚だしい、甚大な」を意味します。
●「思い違いをしている」と訳された「プラナオー」(πλανάω)は、「誤解している」「惑わされている」とも訳されます。「思い違いをしている」「誤解している」はとてもやさしいイメージですが、「惑わされている」という訳が真意に近いものと考えられます。なぜなら、「惑わされている」という裏には「惑わす」存在がいるからです。バプテスマのヨハネやイェシュアは、当時の宗教指導者たちを「まむしの子孫たち」と呼んでいました(マタイ3:7, 12:34)。まむしは人に嚙みついてその毒を注入して死に至らせてしまいます。ですから、人を非難するのに、これ以上の厳しいことばはないのです。まむしは創世記3章に登場する「古い蛇」であり、それに支配された集団が「まむしの子孫たち」なのです。その集団は、聖書も神の力も知らないだけでなく、人々を惑わし迷わせる者たちです。ですから、イェシュアがここで語っている「プラナオー」(πλανάω)はいわば、神ののろいのことばとして使われているのです。
●「プラナオー」(πλανάω)をへブル語にすると、その訳語は三つあります。
(1) 「ターアー」(טָעָה) 1回のみ
【新改訳2017】エゼキエル書 13章10節
実に彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう(=表面的にきれいにして取り繕うこと)。(2) 「ターアー」(תָּעָה)・・51回
①【新改訳2017】詩篇 119篇176節
私は滅びる羊のようにさまよっています。どうかこのしもべを捜してください。・・・
②【新改訳2017】イザヤ書53章6節
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。(3) 「シャーガー」(שָׁגָה)・・ 21回。
【新改訳2017】詩篇119篇10, 21, 118節
10私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。
21 あなたはあなたの仰せから迷い出る高ぶる者 のろわれるべき者をおとがめになります。
118 あなたは あなたのおきてから迷い出る者を みな退けられます。彼らの偽りは欺きだからです。
●サドカイ人たち自身が「惑わされている」だけでなく、人をも「迷わせ」「迷い出させている」のです。それは、彼らが聖書を知らず、神の力さえも知らずにいるからです。モーセ五書には数多くの神の力のみわざが記されているにもかかわらず、また、御使いのことも数多く記されているにもかかわらず、彼らはそれを信じていないのです。彼らが「大きな思い違いをしている」のは、彼らが神の視点ではなく、常に人間的な視点で見ているからです。現状維持を良しとする生き方にもそれが表されていると言えます。そのような視点で聖書を読むなら、神のことも、復活のことも、その本質を悟ることは不可能です。イェシュアのことばは霊であり、肉(=人間的な視点)は神の世界について何の益ももたらさないからです。
●イェシュアは「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言われました。「復活の時」とは、イェシュアが再臨(教会のための空中再臨、イスラエルのための地上再臨)されて、死者たちがよみがえる時を意味します。そのときには、「めとること」(花嫁をもらう側)も、「嫁ぐこと」(花嫁を与える側)もないというのは、結婚という制度がなくなってしまうということです。「天の御使いたちのよう」とあるのも、彼らは結婚しないからです。付け加えるならば、天の御国(メシア王国)においてはユダヤ人と異邦人といった人種の違いも、生物学的な男と女の区別もなくなってしまいます。
3. 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です
●イェシュアはユダヤ人の指導者たちに対して、「あなたがたは、(聖書を)読んだことがないのですか。」と繰り返して語っています(マタイ12:4, 5, 19:4, 21:16, 42)。22章31節も同様に「死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。」と言っています。サドカイ人たちは聖書の「モーセ五書」だけを正典として認めていたので、イェシュアはそのモーセ五書の中から、「死人の復活」に関する箇所として引用しています。それが以下の箇所です。
32 節『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
●『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』というフレーズは、出エジプト記3章6節からの引用ですが、なぜ「死者の復活」と関連しているのでしょうか。その理由を探ってみたいと思います。
【新改訳2017】出エジプト記3章6~10, 13~15節
6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。
「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。
『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
●出エジプト記3章は、神である主がエジプトにいるイスラエルの民の苦しみの叫びを聞かれ、彼らをエジプトから救い出すためにモーセを召し出した箇所です。モーセはイスラエルの民のところに行った際、自分を遣わされた神の名を聞かれるに違いないと前もって想定して、神の名を聞いています。その時に神が示された名が二つあります。一つは14節にある『わたしはある』という名であり、もう一つは6節と15節にある『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】』という名です。ただし、モーセがイスラエルの民に一つ目の「わたしはある」という神の名を紹介することはありませんでした。この名を使ったのはイェシュアご自身です。
●さて、出エジプト記3章6節の『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』がなぜ復活を証明することになるのか、その一つの解釈は「わたしは・・・である」ということが現在形で書かれているからという解釈です。つまり、モーセに対して語られた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、神がアブラハムに対して、イサクに対して、そしてヤコブに対しても交された約束があることを意味しています。彼ら三人は神の約束を信じてこの世を歩みましたが、モーセの時代にはすでに死んでいます。ところが、神の約束が完全に成就する時が来た時に、神の約束を受けた者がたとえ死んでいたとしても、再び生き返ってその実現を確認しなければ意味がありません。それはキリストの再臨の時です。アブラハム、イサク、ヤコブはイスラエルの民を代表しています。つまり、キリスト再臨の直前(大患難の終わり)に、神が選んだ契約の民が復活するということが預言されているのです。以下はそのことを示すみことばの一つです。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録 11章18節
諸国の民は怒りました(=神が罪を悔い改めない諸国をさばくことに対して神に怒っているという意味)。しかし、あなたの御怒りが来ました(大患難時代の到来)。(それは)
①死者がさばかれる時、
②あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、
③地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」
●上記の節で、特に②の「あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時」の「報いが与えられる」こと、これが旧約時代のイスラエルの聖徒たち、および大患難時代に殉教した聖徒たちの復活を意味しているのです。アブラハムも、イサクも、ヤコブ、ダビデも・・生き返るのです。その意味において、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と言えるのです。
●キリストの再臨によって実現される天の御国(メシア王国)は、イスラエルに対して交された神の約束がことごとく成就する時です。神の約束を信じた者たちが死から復活しなければ、御国の民は存在しないのです。大患難時代(七年間の後半の未曽有の大患難)の後、メシア王国の開始の直前に、旧約時代の聖徒たちがよみがえり、約束の報いを受けるのです。私たち教会に属する者たちについては空中再臨の携挙のときです。
ベアハリート
●「復活のからだ=御霊のからだ=御霊に属するからだ=栄光のからだ」について、私たちも「思い違いをしないように」(誤解したり、惑わされたりしないように)したいものです。復活した際には、私たちの心には神のトーラーが書き記されており、それは完全に神のみこころを理解する心となっているだけでなく、それを実現する新しいからだが備えられるのです。
●私たちのからだを車にたとえてみましょう。車を運転する人には分かるでしょう。たとえ新車であったとしても、使い続ければ性能は低下し、いつかは完全な廃車(死)の運命にあります。しかし「復活のからだ」は永遠の新車に乗っているようなものです。常に最高の性能をもっているだけでなく、瞬間移動もでき、引力の法則に逆らって飛ぶことさえできる車です。車の概念を超えています。御霊の力で動くので給油する必要がありません。故障することがないため、メンテナンスする必要も全くありません。また不注意によって事故を起こすこともありません。すべて御霊の自動安全制御がついているからです。これはたとえです。復活のからだは私たちの概念を全く超えているのです。
●復活を信じる私たちクリスチャンであっても、「たとえ死んでも、また会える」程度のこの世の延長線上で考えていることはないでしょうか。聖書が言わんとする「復活」は、地上の生とは断絶した世界、全くすべてが新しいものに変えられる世界です。パウロは次のように言っています。
【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章42~44節
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。・・・
●イェシュアは、全く新しい栄光の霊のからだでよみがえったのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリ 5:17) とある通りです。つまり、復活は人間的・自然的延長(たとえば、この世での夫婦・家族の延長)で類推される考えを凌駕するものです。「すべてが新しくなる」という創造の到来に他なりません。これが聖書の教える復活です。私たちはそこに希望と信仰をもって歩まなければなりません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています」と言われたサドカイ人たちのようにではなく、迷わず、惑わされることなく、正しい聖書の復活の信仰に生きる者となりましょう。そのためには、人間的なあらゆる視点に立つことに死んで、御霊によって神の視点に立ちながら生きることを選び取りましょう。
●私たちの外なる人(からだ)がなぜ衰え、老いていくのかといえば、それは神が備えてくださる新しい霊のからだ、栄光のからだのすばらしさを後で分からせるためです。ですから、パウロは次のように述べています。
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章18節
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。【新改訳2017】詩篇119篇18節
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
2021.2.28
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