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平和を追い求めなさい

第26日 「平和を追い求める」 

はじめに 

  • 今朝の聖書のテキストはヘブル12:14 です。この1節のみを取り上げます。
    「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」
  • このテキストを良く見ると、「平和」(Peace)ということば、「聖められること」(Holiness)ということばが目に着きます。それにもう一つ、「追い求める」ということばが「平和」と「聖められること」の双方にかかっています。
  • 前回でも神の父性的教育(父性的訓練)について2回にわたって学んだように、今回と次回では、「追い求める(追求)」というテーマで、私たちが追い求めるべき大切な二つの事柄について順に学びます。「平和」にしても、また「聖められること」(ホーリネス)にしても大きなテーマです。今朝はヘブル人への手紙の12章14節にある前者の「平和」というテーマに絞って考えてみたいと思います。

1. 追い求めるという生涯 (受動から能動へ)

(1) 「追い求める」生き方は、成人したキリスト者のしるし

  • テーマそのものに入る前に、「追い求めなさい」ということばに注目してみましょう。クリスチャンの生涯はすべて神から与えられるものに依存しています。愛も、救いも、永遠のいのちといったすべてのものは神から与えられるもので、私たちが努力して得られるものではありません。ただひたすら受けるのです。アブラハムの息子イサクという人は、父に与えられる神の祝福をただ「受け取る生涯」でした。父アブラハムに与えられた約束、祝福をそのまま受けるということに特徴づけられた生涯でした。ちなみに、イサクの息子ヤコブはそうはいきませんでした。多くを取り扱われる生涯でした。
  • 「受けること」に特徴づけられるイサクの生涯は、また神の御子イエス・キリストの生涯の型(たとえ)でもあります。子は父のしていることをなし、父の語ることばを語り、すべて父から与えられたものによって歩みました。父が与えるものを子がそのまま受け取るということは一つの秘密(シークレット)なのです。父は与えることを喜びとする存在です。それに対して子は、父のもっているものを受け取ることを喜びとする存在です。
  • 私たちキリスト者は、神の御子であるイエス・キリストを通して、イエス・キリストの父が与えるものを信仰によって受け取った存在ではないでしょうか。ですから、神が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは空しいのです。あなたが一生懸命働いて、糧を得ることも空しいとされるのです。なぜなら、神はその愛する者に、眠っている間に、そのようなものを備えてくださるからです。では怠けていいのかというとそういうことではありません。イエスが言われたように、「神の国とその義とを第一とするならば、私たちに必要なものはすべて神が備えてくださる」という世界なのです。
  • 「受け取る」という信仰の世界―その秘密。それと同時に、「追い求める」という信仰の世界、それもまた深い秘密なのです。
  • キリスト者は「神から受け取る」者だけでなく、積極的に、自発的に、主体的に、「追い求める」べきものがあるのです。使徒パウロが自分自身のことを例にあげてそのことを述べています。

    「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分がすでに捕えたなどと考えてはいません。ただこの一事に励んで(努力して)います。(ピリピ3:12~13)

  • ここには使徒パウロの追求する生き方、何かを追い求めて、ひたむきに前のものに向かって前進している姿があります。しかも、パウロは「成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、これと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」と述べています。信仰をもって神から「受け取る」という生き方も生涯にわたっての大きな課題なのですが、と同時に、「追い求める」という生き方は、キリスト者としてある程度成人した者の課題だということになろうかと思います。
  • ところで、使徒パウロは何を「追い求め」ているでしょうか。それは、すでにキリストにあって与えられているものです。しかし、さらにその深みを得るようにとキリストが自分をとらえてくださったのだと述べています。その追い求めるべき何かとは、一言でいえば、「復活のいのち」という言葉で要約できるものです。換言すれば、「永遠のいのち」です。これは死なないいのちという意味ではなく、神との親しい愛の交わりを意味することばです。神との生きたかかわりです。それを使徒パウロは日々、「追い求めていた」のです。これはダビデが「ただひとつのことを求めた」ことと同様です。
  • こうした「追い求める」生き方は、成長したキリスト者の姿なのです。私たちは日々何を追い求めて生きているのでしょうか。

(2) 「追い求めてはならないもの」と「追い求めるべきもの」

  • 聖書には「追い求める」と訳された箇所がいくつかあります。少しここで拾ってみましょう。聖書には「追い求めてはいけないもの」と真に「追い求めるべきもの」、その両方について教えています。

    A.「追い求めてはいけないもの」

    ①〔旧約聖書から、預言者サムエルの息子たちを例に取りましょう。
    彼らは父とサムエルと同じく「さばきつかさ」でした。つまり、人の上に立って信仰的な指導をする立場にいたということです。しかし、「彼らは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」(Ⅰ サム8:3)とあります。これはイスラエルの民が王を求めていく伏線ともなりました。
    ―日本ではこのたびの選挙で政権交代が起こりました。圧倒的な数で、自由民主党に代わって「民主党」が勝利しました。「自由」という看板が外されてしまった方です。これまでの自民党の経済成長はどこまでも経済が豊かになることによって幸せがあるという考え方に立った政策に対して、国民はそれを疑問視するようになってきたのではないでしょうか。経済優先の社会は、ある意味で「利得を追い求める」社会です。そのために、収賄と賄賂は政治の世界では日常茶飯事ですし、利益を追い求める関係者の癒着構造を生みました。
    ―サムエルの息子たちも当然のことながら、神によって裁かれてしまいます。
    ②〔新約聖書〕から、使徒パウロが愛弟子に宛てた手紙の中にある例をあげましょう。

    • 「金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦難をもって自分を刺し通した」者たちがいることを記しています(Ⅰテモテ6:10)。あるいは「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたために、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされている」者たちがいることを記しています。

    B.「追い求めるべきもの」

    ①〔旧約聖書〕から、ホセア書の6:3を取り上げてみましょう。そこにはこうあります。

    • 「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」そうすれば主の祝福が現わされるというものです。「追い求める」ということばの前に「切に」ということばがついています。このことばが意味するのは「熱心に」、「そのことを優先して」、「この一事に」という意味です。これが、神ご自身が、ご自分の民であるイスラエルに要求した「追い求める」べき事柄です。その他にも、正義、義、愛、善を追い求めるべきことが語られています。
    • ちなみに、「追い求める」と訳されているヘブル語(つまり、もともとのことば)は「ラーダフ」רָדַף(radaph)ということばが使われています。本来の意味は、「迫害する」「追い迫る」「追いつめる」「執拗に追いかける」「追いつく」という意味です。一見、そら恐ろしい言葉です。しかし、中には神の恩寵を意味するものも一つあります。それは詩篇23篇6節です。
      「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくる」
      神が人を「追い求める」姿がここにあります。得体の知れないものに追い掛けられる生涯ではなく、その生涯を通して「いつくしみと恵み」とが私を追ってくるというのです。それは神がご自分のもとに取り返すために追いかけて来るのです。そんな神さまに私たちはどう向き合うべきでしょうか。ダビデはこう言っています。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
      ②〔新約聖書〕で、とりわけ強調されているのが「平和」です。「平和を追い求める」べきことが強調されているということを心に留めましょう。
  • これまで、長々と、私たちキリスト者には「受け取る」姿勢だけでなく、「追い求める」姿勢があることをお話してきました。「追い求める」ことは成人したキリスト者のあかしです。「追い求める」というのは多分に自覚的、意識的、主体的行為なのです。

2. 「平和」というテーマ

  • さて、私たちがキリスト者として生涯の追求すべきテーマとして、追い求めるべきこととして「平和」ということに焦点を絞り込みました。「平和」ということばの意味するところを「みんなで仲良くやっていく」という倫理的な意味として、私たちは単純にとらえているかもしれません。「そんなことは幼稚園から、いやもっと小さいときから聞かされていました。喧嘩するのはよくないということでしょ。」あるいは、「戦争は良くないこと、決してしてはならないこと」という意味で、戦争と対比した平和と考えているかもしれません。核を廃絶して平和な世界を造ろう。それはすばらしいことです。しかし、聖書の言う「平和」は、私たちが考えているよりもずっと深い内容を意味するものです。私たちが考えているよりもずっと豊かな内容を持っていることばです。
  • それは神の「福音」そのものを意味したことばです。ここに本をお持ちしました『平和の契約』という550頁にもおよぶ分厚い本。副題が「福音の聖書神学的理解」となっています。これをここにわざわざもってきたのは、「平和」というキーワードがいかに重要かということを知ってもらうためです。「平和」が、単に、人と仲良くするという意味でなく、神の福音そのものなのだということを、特に、新約聖書全体から証明して見せた労作です。
  • 今回のテキストであるヘブル人ヘの手紙12章14節のことばは、どちらかというと「平和」の倫理的な面だけが強調されています。もう一度、味わってみましょう。「すべての人との平和を追い求めなさい。」―この意味するところはどういうことでしょうか。一般的な意味で、みんなと仲良くやっていくこと、特に家族の中で仲良くということではありません。
  • ルカ12章51節にイエスが語られたことばがあります。
    「あなたがたは、地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」
  • ここだけを読むと、なにか矛盾しているように見えます。しかしそうではありません。「あなたがたは」というのはイエスの弟子たちのことです。弟子の道を行くときに家族関係の中でどんな問題が起こるかを覚悟すべきこととして示されたのが、このことばです。つまり、福音が家族の中に分裂をもたらすことがあるということを言わんとしたのです。イエスに従っていこうとするときには、家族の中で分裂が起こり得ることを言わんとしているのです。
  • 特に、女性が信仰の道に入るときには、だいたい決まって親が反対します。教会へ行くことを反対します。その例として この教会に奉仕に来ていたN姉。彼女は母親から大変な迫害を受けたそうです。彼女だけでなく信仰をもったがゆえに、家族の間に分裂が起こる、争いが起こるというのはほんとうなのです。そうした家族の中に神の平和がもたらされるのは、そう簡単なことではありません。
  • 詩篇の中に「都上り」というタイトルでまとめられている詩篇があります。それは120篇~134篇の15篇からなっています。その「都上り」と題された編纂の意図はなんでしょうか。何をテーマにしてまとめられたのでしょうか。この問いに対して私に答えてくれる本はありませんが、私が詩篇を瞑想していくにつれて、この「都上り」の編纂の意図するところは、「平和への希求=シャーローム」なのだと気づかされました。
  • 「私は久しく平和を憎む者とともに住んでいた。私が平和を願うと、彼らは戦いを望むのだ」(120:6, 7)という詩120篇の平和への希求から「都上り」は始っています。そして122篇では「都」である「エルサレムの平和のために祈れ」と続いて行きます。「エルサレム」とは「神は平和」という意味です。そして126篇にはイスラエルの民が捕囚という憂き目から解放された喜びが記され、127篇ではイスラエルが捕囚から解放されたのは、主が再びエルサレムに主の家を建てるためだと続き、128篇では再び「イスラエルの上に平和があるように」という祈りで締めくくられます。続く129篇ではエルサレムの別名であるシオン、その「シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け」という宣言をします。なぜなら、132篇で「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれたからだ」とその理由が語られています。そして有名な133篇では「見よ。兄弟たちが一つとなって共に住むことは。なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。・・主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからだ」と平和の祝福を述べています。そして「都上り」の最後の134篇では、結論ともいうべきことばー「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福されるように。」―で締めくくられています。シオンとはエルサレムの別称で、「シオンからあなたを祝福する」とは、神のヴィジョン(ご計画)が実現するところから神があなたがたを祝福するという意味になります。
  • 天地をつくられた神は「平和の神」です。ですから、「平和」を求めることは、神を求めることと同義と言えます。

3. 平和の障害となっているものを越えて

  • しかし、平和を追い求める者はその障害となっているものに直面します。平和の障害となっているものに私たちは向き合う必要があります。使徒パウロがその伝道の働きにおいて直面したのは「ユダヤ人と異邦人との間にある隔ての壁」です。この壁はすべての平和の障害となっているものの象徴的なたとえです。
    そこには、① 偏見、② 独善、③ 嫉み、④ 憎しみ、があります。これらの障害はどれ一つとっても、すぐに解決できるようなものではないかもしれません。簡単に、言われたからすぐにということで解決されるものではありません。痛みを伴いますから、神の助けが必要です。神の助けなしに、平和を追い求めることはできないのです。人間の努力で平和を造りだすことはできないのです。
  • ヘブル人への手紙12章14節の「すべての人と平和を追い求め」とあるのは、神が成熟したキリスト者とならせるための指針です。このみことばの前に何が語られていたかを学んできました。そこには「からみつく罪」から私たちを解放していくための神の父権的な厳しい訓練があること、その厳しい実際の訓練が、神の聖さにあずからせようとする御父の懲らしめであることを認める者だけが、御父の取り扱いを受けることを通して、「すべての人との平和を追い求める」ことができる者となるということです。
  • 「平和を追い求める」ことは神のみこころです。神がそうできるように私たちを捕えてくださったのです。ですから、それを追い求めることが求められています。
  • 神が与えてくださっている平和を自分のうちに支配させるために、それを求めていこうという促しがあるかどうかを自分の心に問いかけなければなりません。もし、「平和を追い求めなさい」という静かな声が、そのような促しが心にあるとするならば、それは聖霊があなたに語りかけ、働きかけておられる証拠です。どうか、その聖霊の声に従えるように祈りましょう。促しはたとえ小さくとも、それが自分の心の中にあるということが大切です。しばらく、黙想して、平和への希求の促しが自分の中にあるかどうかを、自分の心に聴いてみましょう。もしそれがあるならば、平和を妨げているものの正体を悟れるように、そしてそれに正しく対処できるように、神に助けを求めたいと思います。


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