****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

聖められることを追い求めなさい

第27日 「聖められることを追い求めなさい」

はじめに

  • 今日の私たちキリスト者に欠けている力として、追求する力、追い求める力、追求力についてお話したいと思います。それは今日の教会、および一人ひとりのキリスト者が回復しなければならない「力」です。
  • 聖書を学ぶ力、聖書を全体として把握する力―聖書の各部分がさまざまに組み合って、全体をひとつの生きた書物として把握できる力です。なぜこの力が失われてしまっているかといえば、その理由の一つは、『成果主義』にあります。目に見える何らかの結果を出すことがなによりも優先され、価値あるとされる価値観です。社会の中で、成果をすぐに見いだせないことに力を注ぐということは、意味がないと思われている時代なのです。早急な結果主義です。
  • 学校、あるいは神学校でもじっくりと真理を深く探求するということよりも、目先の成績だったり、あるいは教会での奉仕の訓練ばかりに多くの時間を取られ、真理を追求するという面がなおざりにされています。その行き尽くところは、語られるメッセージや生き方がきわめて浅っぽく、うすっぺらなものとなってしまいます。私たちの霊的な満足が得られず、なにか面白い話、刺激性のある話を求めるようになっていきます。聖書が書かれた時代にも、そのような傾向があって、パウロは愛弟子のテモテに対して気をつけるようにと勧告しています。霊的な飢饉が覆っている時代なのです。
  • 御子イエスは天の御父から直に流れてくるいのちにいつもあずかっていました。主はこのいのちこそ私たちをいかすものであると言われました。「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ5:57) このような糧こそ、現代の教会に欠けているものであり、どうしても取り戻す必要があるのです。多くの人が自分の霊的な飢え渇きにさえ気づかず、それを得るために、誤ったものでその渇きを満たそうとしている時代なのです。そうした時代に対して逆らう唯一の力こそ、「追い求める力」、「追求力」なのです。
  • 聖書のテキストは前回と同じくヘブル12:14です。前回は、前半の「平和」を追い求めることについて取り上げましたが、今回は、後半の「また、聖められること(=ホーリネス)を追い求めなさい」を取り上げます。

1. 「追い求める力」―ゼーテオーという動詞

  • 聖書はこの追求力、追い求める力を「ゼーテオー」(ζητέω)というギリシア語の動詞で表わしています。この動詞は「狩猟的」イメージを持っています。人が神を求める場合にも使われますし、また神が人を求める場合にも使われます。また神の敵が執拗に神に敵対する場合にも使われるのです。ここで少しその例をみことばで見て行きましょう。

①「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)
②「捜しなさい。そうすれば見つかります。・・だれであれ、捜す者は見つけます。」(同、7:7, 8)
③「百匹の羊のうちの一匹が迷い出したとしたら、それを捜しに行かないでしょうか。」(同8:12)
④「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。」(マタイ13:45)
⑤「女の人が銀貨を十枚持っていて、そのうちの一枚をなくしたら、見つけるまで、念入りに捜さないでしょうか。」(ルカ15:8)


  • ザアカイとイエスの出会い〕(ルカ19:1~10)
    ①ザアカイの場合―「彼はイエスがどんな方か見ようとした。」
    ②イエスの場合――「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ここでザアカイの「見ようとした」、イエスの「捜して」は、実は同じ動詞〔ゼーテオー〕(ζητέω)が使われています。これがかみ合うところに出会いと救いが起こったのです。ザアカイの「見ようとした」のは単なる興味本位ではありません。この「ゼーテオー」という言葉そのものが、求めてやまない、執拗さを含んだことばなのです。

  • このゼーテオーがイエスの敵たちに使われる場合、どういうことになるでしょうか。ひとつひとつ調べてみました。そこでは、イエスの敵はイエスを捕えて殺そうとするために、証拠をつかもうと「努め」、機会をうかがって「ねらっていた」。彼らは相計らって、「懸命に」イエスを殺そうと「つけ狙っていた」という括弧内にゼーテオーという言葉が使われています。
  • 新約聖書で最初に登場するのはマタイの2章13節ですが、そこにはこう示されています。主の使いがマリヤの夫、ヨセフに現われて語ったことばです。「立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して〔ゼーテオー〕殺そうとしています。」 やがてそのヘロデが死ぬと、主の使いが再びエジプトにいるヨセフに現われて、言います。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた〔ゼーテオー〕人たちは死にました」
  • イエスの生涯の最初から、敵はイエスのいのちを殺そうと幼子を捜し出し、そのいのちをつけ狙っていたのです。まさにこの執拗さ、追及、懸命さは、獲物を捕える狩猟感覚です。敵が神に対してそのような力をもっているとすれば、私たちキリスト者はなおさらのこと、敵に勝る狩猟感覚を持たなければなりません。この模範的モデルは、旧約ではダビデ、新約ではイエスを除いて使徒パウロをあげることできます。
  • ピリピ3章に、使徒パウロの前傾姿勢をもって獲物を獲ろうとする追求力の姿を見ることができます。
    「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。・・・成人である者はみなこのような考え方をしましょう。」
  • 使徒パウロの言う「それ」とは、このテキストでは「キリストと復活の力」です。それは、神との親しいゆるぎないまじわりをもたらすいのちとも言うことができます。「主を知ること」でもいいでしょう。前回、礼拝で学んだように「平和」でもいいでしょう。いずれにしても、それらを追い求める力、あるいは神とのかかわりにおいてのあるべき姿を追い求める力、その追求力こそが、今、求められているのです。

2. 「聖められること」を追い求める

(1) 「聖められる」とは

  • 「聖められること」とは何でしょうか。「聖められること」を「ホーリネス」と言います。私が学んだ神学校はホーリネス教団の神学校でした。「ホーリネス」をことのほか強調する神学校でした。四年間そこで学びましたが、「ホーリネス」はいまいち分からない概念でした。どうして分からないかというと、「平和」と同じように、神が私たちとかかわるそのかかわり方の全貌を表わす概念なので、全体像が見えてこないと分からないほど深いものがそこに横たわっているからです。頭がいいとか、悪いということではなく、そうした総括的な概念を理解できるようになるためには、聖書全体を理解することと比例します。今では、探求の結果、以前に比べて少しだけですが、理解できるようになったと思います。
  • 神が「聖」であるということは、被造物全体とは区別された存在であることを意味します。従って、「聖」(Holy)ということばを用いることができるのは神だけです。神以外には本来使うことのできないことば、それが「聖」です。
  • 「聖」はヘブル語で「カードーシュ」、ギリシア語で「ハギオス」と言い、「区分する」「区別する」という意味です。なぜ、「聖書」と呼ばれるのか。それはこの世の書とは異なる書、区別された書だからです。聖書は人が考え出した本ではなく、神ご自身が自らを啓示された書という意味で、区別されたものとされているのです。ですから、普通に私たちが本を読むように読んでも理解できません。なぜなら、聖書は神の息吹によって書き記されたので、同じ神の息吹(聖霊)を受けなければ理解できないようになっているのです。たとえ、大学の教授であっても、神の息吹を受けていなければ、トンチンカンな理解しかできません。光がなくて読むようなものです。ですから、あてずっぽうで、的を射てはいません。神がそのようにしたのです。
  • 被造物と区別された聖なる神が、人やモノとかかわられる時、はじめてそれらが「聖なるものとなる」ということが可能になります。つまりヘブル12章14節の「聖なるものとなることを追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることのすべてを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。そこで「聖別」という概念についてお話したいと思います。
  • 聖別とは、

    ① 神の所有を表わす (物、時間、場所、人など)
    ② 神のための働きをする道具
    ③ 神の聖にならった倫理的生活
    (きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味する)

これら三つの面を含んでいる神とのかかわりです。

  • 教会の建物は「献堂式」をして神にささげられています。この建物の所有権は神ご自身ですから、神のために用いなければなりません。ホテルのように宿泊施設として利用することはできません。神とのなんらかのかかわりがなければ泊ることはできません。 伝道的な目的で使用することはできますが、管理が必要です。楽器も神の所有としてささげられています。ピアノもドラムもPAもです。なぜ子どもたちが礼拝後自由にたたいたり、弾いたりしているかと言いますと、やがてあなたがたもこの楽器をもって神を賛美するという目的のために、期待をもって、触れることができるようにしているのです。外からだれかが入って来て、自由に楽器を奏することはできません。あくまでも神のために用いられるためにささげられているからです。神との関連なくして、この会堂のどんなものをも使用することはできないのです。
  • 献金もささげられた神の所有物です。神のためにしか使うことができません。そこから牧師のおやつ代はでません
  • 献児式、これは自分に与えられた子どもを神にささげる行為です。これは子を神から授かったこととして受け止め、その子の人生を神にささげる行為です。旧約では長子(最初の子どもは)すべて例外なく、神のものとしてささげなければなりませんでした。親のために、親の夢の実現のために子どもを利用し、その子の将来を支配することは許されないのです。これが「聖別される」ということです。
  • 時間についてはどうでしょうか。私たちに与えられている日々の時間、その時間はすべて自分のもののように考えていますが、そうではありません。神との交わりのために、時間を聖別しなければなりません。妻がときおり、「少し話がしたいので時間をとってくれる」といいます。「いつ?」「いま」「今!、今忙しくしてるの分かるでしょう。」「・・・・」「分かった。要件だけ手短に言ってくれる」「そんなんじゃなく、もっとまじめに時間をとってほしいのよ。」
  • これは妻だけでなく、神様も私たちに話を聞いてもらいたいと思っているのに、私たちの方でその時間を与えていないことがあるのではないでしょうか。「忙しいから、手短に、言って」―これでは神様もじっくり語りたい大切なことを話すことができません。私たちに与えられている時間も神のものとして生かさなければなりません。時間はまず神のものだということを信じなければなりません。そこで神との交わりを優先させる生き方こそ、聖別された者の生き方です。ましてや、余った時間、疲れて消耗しきった時間だけを神にささげて、「さあ、神さま。どうぞ言いたいことがあったら言ってください。」では、語りたくても語りたくなくなります。そう思いませんか。自分のためには多くの時間を使いながら、神との時間のためには、わずかな時間しか割り当てられないとしたら、神からの良いものを得ることはできません。
  • この世とのかかわり方はどうでしょうか。自分が神から贖われた存在として、神の所有の民として、神が願うようにかかわっているでしょうか。この世の価値観ではなく、神の価値観を持って生きているでしょうか。神の価値観が社会の風潮と相反するものだと分かっても、その価値観をしっかりと握って生きることができるでしょうか。神の所有とされた私たちは、海の上に浮かぶ小さな船のようなものです。水の上にいる限りにおいては大丈夫ですが、ひとたび水が船に入ってくるならば、沈むのは時間の問題です。私たちは水の上に浮かぶ小舟のようなものです。この世の水を入れてはなりません。もしこの世と言う水が入るならば、沈むしかありません。私たちはこの世にあって、この世のものではないという生き方が求められているのです。その生き方がどのようなものか、私たちは聖書の歴史を通して学ばなければなりません。
  • 人類が初まってからこの方、文明は進歩したとしても、人間性は変わりません。その生き方は根本的には変わっていなのです。神がこの世から私たちを召しだしたのにはわけがあります。目的があります。その目的を知るためには、聖書を学ばなければ答えは出てきません。聖書の歴史から学ばなければ、知恵を持つことはできません。
  • この世のすべてを越えた聖なる方が私たちとかかわろうとするところには、それにふさわしい生き方が求められているのです。それを私たちは追い求めなければなりません。

(2) 神を見えなくするもの

  • 今回のテーマは「聖められることを追い求めなさい。」です。もしそうでなければ、神を見ることはできません。神が見えなくなるのです。なにがそうさせるのでしょうか。
  • 神を見えなくさせるものとは何かについて、聖書からひとつの話をしたいと思います。聖書の中で話をした動物が二ついます。
    ひとつは「へび」です。創世記3章に出てきます。悪魔が「へび」のかたちをとってエバに近づきました。そして神のことばを疑わせようとしました。エバはその「へび」の声を信じただけでなく、夫のアダムをも説得して神の命令を破り、罪に落ちてしまいました。
    もうひとつの動物は「ロバ」です。「ロバ」が話をしたのです。いつ、どこで、・・それは民数記22章以降に記されています。
  • イスラエルが40年の荒野の放浪生活が終りに近づき、いよいよ約束の地カナンに入っていく時を迎えていた時、イスラエルは南のシナイ半島の荒野からカナンの地に入るために、ヨルダン川の東の方に移動していきました。そこは、ヤコブの兄エサウの子孫であるエドム人がいる地でした。そこを通り、さらにその北の方、アブラハムの甥のロトの子孫のひとりモアブ人の住んでいる地域を通らなければなりませんでした。そこでイスラエルは「エモリ人」の王シホンに、「国を通らせてください。国境を越えるまでは決して街道からそれたりしません。畑を踏み荒らしたり、ぶどう園に入ったり、水を飲んだりいたしません。」とお願いしました。ところが、エモリ人の王は承知しません。それどころか軍隊を集めて戦いをしかけてきたのです。ところが勝ったのはイスラエルの方でした。こうしてイスラエルの人々はエモリ人の国を占領し、そこに住みつくことになりました。そこにいる間に、北のバシャンをも攻め取りました。モアブの王バラクは、イスラエルの人の数があまりに多く、エモリ人がひどい目に遭ったことを知って恐ろしくなりました。モアブの国民も怖がっていました。ぐずぐずしてはいられません。どうしたのでしょうか。
  • 民数記22章をリビングバイブルで読んでみる
    預言者バラムの行く手を阻んだ天使
  • この話の大切な点は何でしょう。預言者バラムは二度目の依頼の時に、彼の心の中に変化が起こりました。でも彼の心の中のことなので神様以外はだれもしりません。そして出かけて行ったのです。その途中で、ロバの前に御使いが立ちはだかりました。それが見えたロバは驚いて、駆け出したり、乗っているバラムを石垣に押し付けたり、道にうずくまってしまいました。そのたびにバラムは、ロバに鞭をあててひっぱたきました。そのとき、急に、ロバが口をきいたのです。「どうして三度もぶつんですか。これまでに、私が一度でもこんなことをしたでしょうか。」・・・そのとき、バラムの心の目が開いたのです。
  • 心の奥深くにあった利得を求める心、そのためにバラムは神が見えなくなっていました。それが破滅をもたらすことだったので、神は御使いを遣わして止めようとしたのです。ロバはその御使いを見ることができたのに、預言者バラムは見えなかったのです。そのためにロバを三度ひっぱたきました。神が見えていないことの姿です。
  • 私たちも同じです。神が見えていない状態の時には、自分の思うどおりにならないことが起こると、同じようになってしまうということです。預言者バラムはどうして神が見えなかったのでしょう。それは利得に目がくらんでしまったからです。私たちも気をつけなければなりません。神が語られることの中に生きるようにと私たちは召されたのです。それが「聖別」されること、つまり、「聖められること」なのです。

最後に

  • 「聖くなければ、だれも神を見ることはできません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたりしないように・・しなさい。」(ヘブル12:14~15)。とても重い言葉です。


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