****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

幸いなことよ。知恵を見いだした人

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

7. 幸いなことよ。知恵を見いだした人

【聖書箇所】3章13〜20節

ベレーシート

  • 「木を見て森を見ず」ということばがあります。「森を見る」とは全体像を見る(鳥瞰する)ことです。神のみこころ、神の御旨、神のご計画、神の目的に目が開かれなければ知恵を語ることはできません。イェシュアも、そして使徒パウロも、その森(全体像)から語ることのできる知恵が与えられていました。使徒パウロの場合、それが出来るようになったのは、彼がダマスコ途上で「天からの光」に照らされてからのことです。この「天からの光」は、箴言の場合、神の「知恵」に相当します。神の「光」を悟ることは、神の「知恵」を見出したことを意味するのです。箴言は「森を見た」者(父、教育者)が、子に対して、森とその中にあるさまざまな木とそのつながりについて教えているのです。
  • 「木ではなく、森」です。森をつかむためには聖書を横に読む忍耐力が求められます。わずかな時間ではそのような読み方はできません。今日のキリスト教会で「森」をつかませる教育がなされるために、私たちはどこから、どのように始めたらよいのでしょうか。そのような問いかけをしながら、これからも箴言を瞑想して行きたいと思います。
  • 今回の箇所は3章13~20節です。この箇所を大きく二つに分けて味わってみたいと思います。ひとつは、「幸いな人とは知恵を見出した人」であり、その見出した知恵はこの世のものとは比べられない価値があるということ(13~18節)。もうひとつは、知恵は天と地の創造と根源的に深くかかわっているということです(19~20節)。

1. 幸いなのは、知恵を見いだし、それをつかんでいる者

【新改訳改訂第3版】箴言 3章13節、18節
13 幸いなことよ。知恵を見いだす人
英知をいただく人は。

18 知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。
これをつかんでいる者は幸いである


●13節~18節は、「幸いなことよ」で始まり、「幸いである」で終わっています。一見、「幸いなこと」が強調されているように見えますが、真に強調されているのは「知恵を見いだした(単数の「アーダーム」)」「英知を得た人(同)」であり、また「知恵をつかんだ人(複数)」なのです。そのような人こそ幸いなのです。


  • 「知恵を見いだした人」とは、「知恵に到達した人」(新共同訳)のことです。「見いだす」と訳されたヘブル語は「マーツァー」(מָצָא)の完了形です。「マーツァー」は「見つける、会う」という意味です。熱心に捜し求めていたものを「見つけた」という意味です。イェシュアが、「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた(מָצָא)者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45~46)と語られました。この話にある「真珠」を単なる個人的な「救い」と解釈するなら、薄っぺらな意味になってしまいますが、天地創造の前にあった神のご計画とその目的を「真珠」と考えるなら、スケールがより大きくなります。
  • このたとえにある「一つの真珠」は、まさに神の「奥義としての知恵」であり、「光」と同様に、神のみこころ、神の御旨、神のご計画、神の目的、御国の福音を含めた総括的概念と言えます。この知恵を見いだした者がなぜ幸いなのか、それは神ご自身のみこころの全体像を知ったからです。それは、この世の知恵によっては決して知ることも悟ることもできないものだからです。それゆえに何よりも尊いのです。
  • 箴言3章13節の「知恵を見いだす人」と「英知をいただく人」とは同義ですが、根源的な神の「知恵」を見いだした人は、「英知」(「テヴーナー」תְּבוּנָה)を主から「いただき続ける」(「プーク」פּוּקの未完了形、ヒフィール態)ことができるのです。箴言8章35節にも同じく「なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。」とあります。ここで重要なことは、根源的な事柄を見いだした者には、泉から湧き出るかのようにさまざまな祝福が流れ出てくるようになるということです。
  • 3章18節の「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」も味わい深いみことばです。知恵を「堅く握る者」「つかんでいる者」はいずれも複数です。根源的・本源的な知恵を見いだすだけでなく、それを堅く握って、つかんで離さず、そこから多くのものを引き出すことができる者は幸いです。
  • 閉塞感が感じられる今日のキリスト教会にとって、今最も求めなれければならないのは根源思考です。その根源からあらゆるものが、すべての働きの力が溢れ出て来るからです。「一つの真珠」に象徴される根源的・本源的な事柄を捜し求める者は幸いです。イェシュアや使徒パウロはそのような人なのです。そのような人から教えられる人も幸いです。箴言の「わが子よ」と呼びかけることのできる父的存在が今日の教会に求められているのではないでしょうか。

2. 天と地の創造に関係している「知恵」

【新改訳改訂第3版】箴言3章19~20節
19 【主】は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた
20 深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。


●「地の基を定める」と訳された「ヤーサド」(יָסַד)と「堅く立てられた」の「クーム」(כּוּם)は、土台を据えるという似た意味の動詞ですが、特に興味深いのは、動詞「クーム」に「互いに一緒になって秘密の会議に座す」という意味があることです。これはまさに天地創造以前に天上会議があったことをイメージさせます。

  • 19節で語られていることは、天と地の創造が知恵によってなされたことを示唆しています。「知恵」とは神の御子キリストのことです。使徒パウロはコロサイ人への手紙で次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】コロサイ書1章15~17節
15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

  • 創世記の冒頭の「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)は、前置詞の「べ」(בְּ)が「レーシート」(רֵאשִׁית)についたものです。この「レーシート」という言葉を手掛かりとして、これを「はじめに」と訳すだけでなく、先在者である「知恵」の存在、つまり、先在者としての神の知恵である御子(キリスト)によって、天と地が創造されたと解釈することができます。その場合、「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)の前置詞「べ」(בְּ)は、「~によって」という手段を表わす前置詞として解釈され、神が先在者である「知恵」(神の御子)によって天と地を創造されたと解釈できるのです。
  • アラム語訳聖書は創世記1章1節を「主は、知恵をもって天地を創造された」と訳しているようです。それは、「初め」(「レーシート」רֵאשִית)ということばを箴言8章22~31節に基づいて「知恵」(「ホフマー」חָכְמָה)とミドゥラーシュ(解釈)しているからです。使徒パウロもこの「知恵」の実体こそイェシュア・メシアであると悟ったひとりなのです。それゆえに、コロサイ書1章15~17節にあることを記すことができたと考えられます。以下を参照。
  • 箴言8章において「知恵」が擬人化されて登場します。今回の箴言3章19~20節はその前菜、あるいは食前酒的箇所と言えます。

2015.11.4


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