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御国への招き(2)「偽預言者に気をつけよ」

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25. 御国への招き(2)「偽預言者に気をつけよ」

【聖書箇所】マタイの福音書7章15~20節

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  • ●マタイの福音書7章13~27節において、イェシュアは三つの「御国への招きのことば」を語っているとお話しましたが、厳密には以下の二つの招きです。
    (1) 「狭い門から入りなさい。」(13~14節)
    (2) 「偽預言者たちに気をつけなさい。」(15~27節) 
    しかし、特に後者の「偽預言者たちに気をつけなさい」という招きは、消極的な面だけでなく、「主のみことばを聞いてそれを行なう」という積極的な面も含まれているため、「御国への招き(3)」として、「主のことばに聞き従うこと」(21~27節)というタイトルで、次回に取り扱いたいと思います。
  • 上記の招きの (1)は「アオリストの命令形」、(2)は「現在形の命令形」です。これはどういうことでしょうか。それは自らの主体的決断によって「狭い門から入った」者は、継続的に「偽預言者たちに気をつけなさい」と警告されているということです。その根拠については、イェシュアが27節までのことばで、すなわち、「良い木と悪い木」「岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人」の話で説明しています。
  • 前回はその最初の「狭い門から入りなさい」という招きについて、それがどういう意味なのかを考えました。「いのちに至る狭い門」と「滅びに至る大きな門」、それに続く「狭い道」と「広い道」(7:13~14)という対照的な事柄が提示され、「いのちに至る狭い門」から入り、「狭い道」を歩むことを、主体的な決断によって選ぶことを求められています。そして今回は、「いのちに至る狭い門」から入り、「狭い道を歩む」者に対して、「偽預言者たちに気をつけ続けなさい」とイェシュアは注意を促しています。その理由と彼らの末路をイェシュアは15~20節によって説明しようとしています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章15~20節
15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。


1. 「偽預言者たち」とはだれのことか

(1) 「偽預言者」とその特徴 

  • 「偽預言者」という語彙が新約聖書で最初に登場しているのがこの箇所です。「偽預言者」とはだれのことかを設定しておかなければなません。文脈から判断すると「狭い門から入り、狭い道を歩くことをしない者たち」のことですが、「偽教師」「偽善者」「魔術師」とも言い換えることができます。厳密な意味では「偽預言者」と「偽善者」は微妙に異なりますが、「人を惑わす」という共通項があります。そして「人を惑わす」彼らとは、当時のユダヤ社会において民衆を牛耳っていた「律法学者」「パリサイ人」と呼ばれた人たちのことなのです。
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  • 山上の説教の中で「偽預言者」という言葉はマタイ7章15節で初めて登場していますが、マタイ24章11節と24節で再び登場します。特に、「終わりの日」には偽預言者たちが多く起こって、多くの人々を惑わすとイェシュアは教えています。

【新改訳2017】マタイの福音書24章11節、24節
11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。

  • ちなみに、「律法学者」「パリサイ人」は、マタイ6章2節、5節、16節、7章5節には「偽善者たち」と言われています。ユダヤ人たちに「善行」として受けとめられている「施し」「祈り」「断食」という行為は、本来、神の恵みに対してなされる隠れた行為ですが、それが「人に見られるために」、「人にほめられるために」なされているところに偽善があるとイェシュアは指摘しています。さらに、彼らは自分の目の中に梁があるにもかかわらず、人の目の中にある「ちり」を見つけては相手をさばいていると断罪されています。そして極めつけはマタイ15章6~9節にあるイェシュアの指摘です。

【新改訳2017】マタイの福音書15章6~9節
6・・・・こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」

  • 「自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」という事実、つまり、神のことばに対する先祖たちの言い伝え(みことばの解釈)という伝承を、神のことば以上に重んじたことによって、神のことばを無にしたということです。これは神にとっては一大事した。そのことのゆえに、最後の切札としての御子イェシュアが真の預言者として御父から遣わされる必然性があったのです。こうした話を傍で聞いた弟子たちがイェシュアに言いました。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」と。それに対してイェシュアは、彼らの運命について以下のように語られました。

13「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。
14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」

  • イェシュアは「偽善者たち」のことを「わたしの天の父が植えなかった木」と言い、その「木」の運命は「すべて根こそぎにされる」としています。また他のたとえでは、彼らのことを「盲人を案内する盲人」とし、「盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」と、その影響がいかに甚大であるかを語っています。「パリサイ人たち」「律法学者たち」がこれを聞いて腹を立てない方が不自然です。彼らの怒りはイェシュアを十字架の死に追いやるに十分であったのです。

2. イェシュアの時代の「パーフェクト・ストーム」(三つの嵐)

  • ところで、イェシュアの話を聞いた群衆の反応はどうであったでしょうか。山上の説教の最後の節にそのことが記されています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章28~29節
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

  • 28節の「驚いた」と訳された「エクプレーッソー」(ἐκπλήσσω)いう語彙は「びっくり仰天する、唖然とした、開いた口が塞がらない」という意味です。それが未完了形で記されていますから、そのときだけでなく継続的にそのような驚きを群衆に与えた続けたことを意味します。しかもイェシュアの教えは律法学者たちのようではなく、絶対的な権威を持つ者のように教えたことを意味しています。そうしたイェシュアが当時の宗教指導者たちに与えた印象は、私たちの想像をはるかに越えるものでした。それは律法学者やパリサイ人たちがそれまで長い期間において築いてきたもの(「言い伝え」という伝承)と、彼らの権威が根底から揺るがされる恐れを彼らに与えたからです。
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  • 当時のユダヤの社会では、御子イェシュアの登場により、ローマ支配勢力とは異なる新たな嵐(ストーム)、すなわち「神の嵐」を呼び起こしたのです。「パーフェクト・ストーム」(完全なる嵐)という言葉はある映画のタイトルです。海で操業する猟師にとって、二つの台風が起こればどうなるか、船は沈没を免れません。この映画は実際に起こった出来事を基にしたものですが、このような事態に遭遇した漁船は木端微塵となりました。同様に、イェシュアという新たな巨大な嵐がユダヤに吹き荒れたことによって、ユダヤの宗教界はまさに漁船のようになってしまったのです。
  • イェシュアの時代のユダヤ社会は、異邦人(バビロン・ペルシア、ギリシア、ローマ)による屈辱的な支配の中で次第に民族的色彩を帯びるようになって行きました。イェシュアが登場するまでは、ユダヤの支配体制は大きく分けて外国勢力と自治勢力という二重支配構造です。外国勢力とし,ては、ローマによる支配で、その傀儡政治をしたヘロデ王とその息子たちによる支配です。自治勢力としては、大祭司を中心とした「サンへドリン」と呼ばれる最高議会(サドカイ派、長老、パリサイ派)の支配体制です。

(1) 外国勢力としてのローマとヘロデ王家の息子たちによる支配 

  • ローマによる支配は、具体的には、皇帝アウグストゥスに取り入って認められたヘロデ大王とその息子たち(アケラオ、アンティパス、ピリポ)による政治的体制です。ヘロデ大王は30年間、ユダヤの王として支配権をふるいました。そのヘロデが紀元前4世紀に死んでから、彼の三人の息子が後を継ぎます。エルサレムを中心としたユダの地域を支配したアケラオ、ガリラヤとペレアの地域を支配したアンティパス、さらにその北方の地域を支配したピリポです。特に、アケラオの政治はユダ地域の人々を恐れさせました。
  • ヘロデ大王の死後に、イェシュアの父ヨセフは主の使いのことばに従いイスラエルの地に戻りました。しかしアケラオの支配するユダ地域にとどまることなく、ナザレの町に戻ったと聖書は記しています(マタイ3:21~23)。ユダヤの人々を恐れさせたアケラオは後に追放され、エルサレムはローマの直轄となり、紀元6年にローマ総督制が敷かれることになります。イェシュアの十字架にかかわった総督として登場するのがポンテオ・ピラトという人物ですが、彼は第五代目の総督でした。
  • ローマがイスラエルを支配するという場合、それは税金を取るという形での支配です。人口調査に基づく「人頭税」や、物品の移動にかかる「移動税」(通行税)の徴収という形で支配したのです。そうした税の取り立て役として取税人(徴税人)が登場します。「収税人のかしらであったザイカイ」、「取税所にいたレビ(マタイのこと)」の話が聖書に記されています。彼らはローマの手先として当時の人々から嫌われていました。そんな彼らをイェシュアは変えられた話は有名です。話を戻しますが、これらの「人頭税」や「移動税」はユダヤの庶民にとって大きな締め付けとなりました。そのために、ガリラヤではユダによる民衆の反乱が起こったほどです(使徒5:37)。

(2) 自治勢力による支配 

  • 外国勢力だけでなく、大祭司を中心とする「サンへドリン」の自治支配体制がありました。大祭司は宗教的な面だけでなく、ヘロデ大王の死以降は、政治的にも大きな権限が与えられるようになっていました。そしてそれを補佐する形で「最高議会」(サンへドリン)と呼ばれる機関がありました。その構成員は祭司を中心とする「サドカイ派」、および信徒の有力者(その多くは大土地所有者)であった「長老たち」、この二つはいわば主流の保守グループです。そしてもうひとつ、小市民の代表としての野党グループとも言うべき律法学者による「パリサイ派」の人々です。この三つが当時のユダヤの自治勢力を支配していました。
  • 彼らは、律法に定められた例祭のために、各地からエルサレムにやってくる巡礼者に対して「神殿税」(生産物の十分の一を神殿に納める税)を課しました。ローマ支配による「人頭税」や「移動税」だけでも民衆にとっては重税であつたにもかかわらず、それに加えての「神殿税」(十分の一税)は当時の人々にとって過酷な要求でした。そのためにエルサレムに行って礼拝することができない者たちが多く出てきました。つまり神殿税を納めることができない人々は、祭司たちの生活を保障するという律法の取り決めを守ることのできない人々と見なされ、「アム・ハーレツ」(「地の民」עַם־הָאָרֶץ)と呼ばれました。当時の二重支配による税制のために苦しめられ、経済的に困窮していた人々は、宗教的にも社会的にも「罪人扱い」にされたのです。
  • 今回の焦点は、「偽預言者」「偽善者」と呼ばれている「パリサイ派、律法学者」たちです。彼らが当時のユダヤ社会においてどのような位置づけにあったかを知ってもらうために、概略的な時代背景をお話しました。祭司を中心とする「サドカイ派」と律法学者たちによる「パリサイ派」とは政治的には保守と野党といった対極的な位置にあっただけでなく、信仰的な内容にも違いがありましたが、共通していることは、いずれも宗教的領域において当時の人々を支配していたということには変わりません。彼らの特徴を一言で言うなら、それは王のように民衆から「取る」(搾取する、「ラーカハ」לָקַח)ということです。その対極がイェシュアです。イェシュアの特徴を一言で言うなら、それは「与える」(「ナータン」נָתַן)ということです。使徒パウロもイェシュアの生き方から学んだ大切なこととして、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と述べて、自分も万事につけ、それを示してきたと明かししています(使徒20:35)。これは御国の福音に生きる者の模範となる生き方だと言えます。

(3) パリサイ派(律法学者たち)による支配

  • 「パリサイ派」という語彙はヘブル語の「ぺルーシーム」(פְּרוּשִׁים)で、その語幹は「パーラシュ」(פָּרַשׁ)で「明らかにする」という意味から来ています。つまり、神の律法の意味を明らかにするという人々という意味で、ギリシアの支配に対抗したユダヤ人の祭司マカバイの戦争あたりから登場するようになります。彼らは神の律法に対して熱心な者たちであったのですが、いつの間にか足を踏み外してしまったのです。どのようにして足を踏み外したのでしょうか。
  • 例えば、イェシュアとの衝突の中でしばしば見られる「安息日問題」があります。「安息日」ということばが聖書で最初に登場するのは出エジブト記20章8節です。十戒の中で最も多くの言葉が使われている戒めです。

【新改訳2017】出エジプト記20章8~11節
8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

  • この「安息日には仕事をしてはならない」という戒めの根拠は、創世記2章2~3節にあります。

【新改訳2017】創世記2章2~3節
2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

  • ここで「わざ」とか「仕事」と訳されたことばがヘブル語では同じく「メラーハー」(מְלָאכָה)です。ところがこの「仕事」という言葉の意味が聖書には明確に定義されていません。そのために、律法に対して熱心なラビたちがその言葉の意味と範囲について解釈し、それが口伝えよって伝えられ、それがやがて成文化され、詳しく分類されて行きました。
  • これは日本の法曹界における「六法全書」を考えると分かりやすいです。「六法全書」には六つの法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟、刑事訴訟)についてさまざまな法令が収録されています。裁判はこの法に基づいてなされますが、一つひとつの判例がその法の解釈として定着して行きます。検察、弁護士、裁判官はそうした世界の権威者と言えます。同様に、律法学者、パリサイ派も神の律法解釈について解釈し、細分化し、分類して行きました。そして律法の権威者となっていったのです。ところが問題は、彼らが次第に神のみおしえである「トーラー」に人の教えによる言い伝え(口伝律法)の権威を加えて、民衆を支配する道具としたことなのです。イェシュアと衝突したのは、この宗教的勢力です。彼らは長い間にわたって積み上げてきた口伝律法を、神の律法と同等の権威を持つようにさせた人々です。律法を細かい規則に分け、その規則による禁止、命令、罰則によって人々を支配するようになって行きました。
  • 律法学者、パリサイ人は、40に1つ少ない39の「メラーハー」(מְלָאכָה)の一覧を作成し、そこには、種を蒔くことから、耕すこと、刈り入れること、穀物を束ねること、脱穀すること・・・・粉をひくこと、こねること、焼くこと・・・火をつけたり、消したりすることはすべて仕事に当たると解釈しました。ひとたび解釈されたことは権威をもって人を縛るようになります。出エジプト記35章2節によれば、主の聖なる全き安息の日に「仕事をする者はだれでも殺されなければならない」とあります。「安息日に仕事をする者は死」なのです。罰則の窮みは「死」なのです。
  • このような解釈は、人々に恐れを与えて神を礼拝させることになります。当然、そうした「言い伝え」(伝承)によって生きることは、人々に希望を与えるものではなく、恐れによって人々を束縛し、拘束し、多くの重荷を背負わせるものとなりました。「七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」という神の律法(みおしえ)が、「仕事」の内容をめぐってあらゆる領域において多様な拘束をもたらしたのです。そうこうするうちに、律法学者たちの地位は確立し、人々から賞賛されるようになると同時に、神が安息日を制定した本来の意味から離れてしまったのです。そこでイェシュアは、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。 」(マルコ2:27)と言って、安息日に多くの人を癒したりしたのです。そのことがパリサイ人の逆鱗にふれることになったのです。これまで山上の説教で学んできたように、イェシュアの教えは、「昔の人々に、『・・してはならない』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言って、神の律法の真の意味を教えられました。つまり、律法学者やパリサイ人たちの律法解釈に対して、常に「アンチテーゼ」(対立命題)の形をとって語られたことが、ユダヤ社会に与えた大きな嵐となったのです。

3. 「偽預言者たち」に気をつけよ

  • イェシュアは弟子たちに対して、「偽預言者」「偽善者」である「律法学者たち」「パリサイ人たち」に対して「気をつけなさい(気をつけ続けなさい)」と命じて警告しています。
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【新改訳改訂3】マタイの福音書 7章15節
にせ預言者たち(新改訳2017では「偽預言者」に改変)に気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

  • 以下の他の箇所にも、同じく彼らに対する注意が喚起されています。

①マタイ 24章11節
また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
②マタイ 24章24節
偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
③使徒の働き 13章6節
島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、偽預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。
④Ⅱペテロ 2章1節
しかし、イスラエルの中には、偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、偽教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
⑤Ⅰヨハネ 4章1節
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出て来たからです。

  • 使徒パウロがエペソの教会の長老たちに対して語った訣別説教の中にも、外部からだけでなく、内部からも、狂暴な狼があなたがたの中に入り込み、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとするようになるとあります。

【新改訳2017】使徒の働き20章29~31節
29 私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。
30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。
31 ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

  • それゆえ、「目を覚ましていなさい。」と警告しています。そうした事態に対処するための唯一の方法はただ一つです。それは、「神のみことば」です。それゆえ、神のみことばを学ぶことを怠る者は、簡単に「狂暴な狼」の餌食となってしまうのです。初代教会においても偽預言者、偽教師が表われたように、今日においても、将来においても、彼らは現われます。ですから私たちは神がこの世に遣わされた最後のまことの預言者であるイェシュアの教えに絶えず学ぶ必要があるのです。

4. 「良い木」と「悪い木」の末路

【新改訳2017】マタイの福音書7章16~20節
16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

  • 上記のテキストによれば、「偽預言者」は、「彼らの実によって見分けることになるのです」とあります。新改訳改訂3版までは「見分けることができるのです」と訳されていましたが、新改訳2017になって「見分けることになる」と改訳されています。この微妙な表現に注意してください。「あなたがたは彼らを実によって見分けることができます」ではなく、「あなたがたは彼らを実によって見分けることになる」という点です。どう違うのでしょうか。前者は今にもすぐに明確に見分けることができるような表現ですが、後者はやがて終りになって見分けることになるという意味です。
  • 「見分ける」という動詞「エピギノースコー」(ἐπιγινώσκω)が未来形中態になっています。これは、やがておのずと完全に見分けることになる、そのような時が来るという意味です。したがって、今の時点では安易な決めつけをすることはできないという意味も含まれています。ただ、「偽預言者たちに気をつけ続けなければならない」ことだけは確かです。彼らが最終的に取り扱われ、良い実を結ばなかった木をみな切り倒して火に投げ込むのは神だということです。このことは、「麦と毒麦のたとえ話」ともつながってきます(マタイ13:24~30)。
  • マタイ7章でたとえられている「良い木」とはイェシュアの語る神のみおしえを意味します。反対に、「悪い木」とは偽預言者が教えている教えです。両者は全く相入れないのです。しかも、「良い木」であるイェシュアの語る神のみおしを私たちが正しく理解して悟ることは、私たちの力でできることでもありません。神の御霊の助けが不可欠です。その意味では、私たちは常に神の御前にへりくだらなくてはなりません。安易な決めつけは良くないのです。
  • 「偽預言者」は終りの日にも登場し、大活躍をします。しかし彼らは神によってさばかれるのです。

①黙示録 19章20節
すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあの偽預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

②黙示録 20章10節
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、偽預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

  • 「良い木」は、かつてエデンの園にあった「いのちの木」でもあります。そしてそこには神と子羊の御座から流れる「いのちの水の川」があります。この二つは永遠にワンセットなのです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録22章1~2節
1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

  • 「いのちの木であるイェシュアのみおしえにのみ耳を傾けましょう。詩篇1篇にある「その人」とはイェシュアのことであることはすでに私たちは学んでいますが、その人は「流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。」と預言されています。良い木は良い実しか結ぶことがないのです。イェシュアに目を留めつつ、イェシュアの語られることばに耳を傾けることを、今日の新しい年の初めに、私たちひとりひとりが、神に対して決断したいと思います。

2018.1.1


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