****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

悔い改めの勧告と第一の幻、および第二の幻(改)


1. 悔い改めの勧告と第一の幻、および第二の幻 (改訂)

【聖書箇所】1章1節~21節

ベレーシート

●ゼカリヤ書1章は、1~6節までの「悔い改めの勧告(呼びかけ)」と、八つの幻の中の二つの幻(第一と第二の幻)について記されています。また、以下に見られる特徴を見ることが出来ます。

【新改訳2017】ゼカリヤ書1:1
ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。

(1) 「イッドー」(עִדּוֹ)の原意は、動詞「ウード」(עוּד)で「戒める」「証言する」、名詞は「エードゥート」(עֵדוּת)で「戒め」「あかし」「さとし」と考えられます。

(2) 「ベレクヤ」(בֶּרֶכְיָה)の原意は、動詞の「祝福する」の「バーラフ」(בָּרַךְ)と「主」を意味する神聖四文字(יהוה)の短縮形「ヤーハ」(יָהּ)がついて、「主が祝福する」という意味です。

(3)「ゼカリヤ」(זְכַרְיָה)の原意は、動詞の「覚える、記憶する」と「ザーハル」(זָכַר)と、主の短縮形「ヤー」(יָהּ)がついて、「主が覚えている」「主は決して忘れてはいない」という意味です。

●これらを結び合わせて考えるならば、「主があなたがたを祝福しておられ、決してあなたがたを忘れてはおられない。これが主の契約におけるあかしなのだ」というメッセージとなります。ここでの「あなたがた」とは、神によって選ばれたイスラエルの民を意味します。それゆえに、ゼカリヤ書の序文的部分(1~6節)で、主がご自身の民に対して、主との正しいかかわりに立ち帰るよう呼びかけるところから始まっているのです。このかかわりこそ、ゼカリヤ書の終末預言の背景にある重要な事柄なのです。

(2) ヘブル的強調表現

●ゼカリヤ書1章において、ヘブル語特有の強調表現を見ることができます。それは、同語根を持つ動詞と名詞を重ねて用いることで、意味をより強調するという手法です。この手法を同根対格(英語では cognate accusative)というようです(脚注)

(1) 2節「主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた」・・動詞の「怒る」(「カーツァフ」קָצַף)と名詞の「怒り」(「ケツェフ」קֶצֶף)の積み重ね。

(2) 14節「・・わたしは、エルサレムとシオンとを妬むほど激しく愛した。」・・動詞の「妬む(熱中する、熱愛する)」(「カーナー」קָנָא)と名詞の「妬み(熱心、熱愛)」(「キナー」קִנְאָה)の積み重ね。

(3) 「強調されている」事柄・・・その1「再び」

●1章にはこの他にも強調表現があります。つまり、同じ言葉が一つの節に4回も使われていることです。それは「もう一度、再び」を意味する「オード」(עוֹד)ということばです。

もう一度(עוֹד)叫んで言え。万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び(עוֹד)良いものが散り乱れる。【主】は、再び(עוֹד)シオンを慰め、エルサレムを再び(עוֹד)選ぶ。』」

●ここで強調されている事柄は、「エルサレムが再建されて、主の神殿が建て直されること」です。

(4) 「強調されている」事柄・・その2「万軍の主」

●エルサレムを再建するのはだれか。それは「万軍の【主】」です。ところで、この「万軍の【主】」(「アドナイ・ツェヴァーオート」יהוה צְבָאוֹת)という主の名前は旧約で487回使われています。民数記で77回、詩篇24回、イザヤ70(62)回、エレミヤ88(77)回、ダニエル6回、アモス8回、ハガイ14回、ゼカリヤ53回。驚くことに、ゼカリヤ書は全14章の中でなんと53回の使用頻度は尋常ではない数です。

●「異邦人の時(支配)」におけるユダヤ人、またエルサレムの状態はまことに小さく、貧弱のように見えます。しかし神の視点から見れば決してそうではないということを示しているのが、この「万軍の【主】」という神の名前なのです。この名が最初に出てくるのは、サムエル記の1章3節です。サムエル記は、イスラエルの人々が「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と言って、イスラエルの王制が始まる書です。イスラエルは神がいるにもかかわらず、周囲の国々に脅威を感じていたのです。

1. 悔い改めの勧告(1~6節)

【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書1章3節
あなたは、彼らに言え。万軍の【主】はこう仰せられる。わたしに帰れ。──万軍の【主】の御告げ──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の【主】は仰せられる。

●3~6節には「帰る」(「シューヴ」שׁוּב)ということば4回(3, 3, 4, 6節)出てきます。と同時に、一つに箇所に「万軍の【主】」は3回も登場します。

●捕囚先のバビロンからエルサレムに帰還したユダの民たちに、主は「私に帰れ。・・そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と約束されました。彼らはバビロンから帰ってきましたが、そのほとんどの人たちは主に立ち帰らなかったのです。万軍の主は、預言者ゼカリヤを通して、ユダに民たちに対して、主に立ち帰るよう呼びかけたのです。


2. 第一の幻「赤い馬に乗った人」(1:7~17)

●ゼカリヤはダリヨス王の第二年の第八の月に、預言者として召されました。そしてその三か月後に「八つの幻」を見せられます。しかも一晩にです。そこには「異邦人の時」ー(それは、バビロンのネブカデネザルから始まってキリストの再臨まで、神の民とエルサレムを支配した異邦人の時代を意味します)ーにある神の民とエルサレムに対して語られている終末預言です。

●最初の幻に登場する人物として、「赤い馬に乗っていたひとりの人」(8節)、「ミルトスの木の間に立っている人」(10節)、そしてゼカリヤと話し、また万軍の主とも語っている「主の使い」がいます。これらは別々の人物ではなく、ひとりの人物、すなわち、「受肉前のキリスト」を表わしています。旧約聖書には「受肉前のキリスト」と思われる箇所があります。創世記32:24~31、ヨシュア記5:13~15、士師記13:3, 6, 17, 18, 22、ダニエル3:25, 7:13、等を参照。

ミルトスの花.jpg

●「ミルトス」は常緑の低木で「銀梅花」とも呼ばれます。旧約聖書には6回しか使用されていません(ネヘミヤ8:15、イザヤ41:19, 55:13、ゼカリヤ1:8, 10, 11)。レバノン杉のような高木と比べるならば、ミルトスは低木のために見栄えもなく、また建築材としても使えません。それゆえ、謙遜さ、慎ましさの象徴として解釈されています。またねミルトスは、仮庵の作る時にも用いられる(ネヘミヤ8:15)ところから、メシアの時代が暗示されているとも言われます。

  • ちなみに、「ミルトス」はヘブル語で「ハダス」(הֲדַס)と言いますが、エステルのユダヤ的別称は「ハダス」の女性形である「ハダッサー」(הֲדַסָּה)です。

(1) 「地を行き巡るために主が遣わされた馬」

●「赤い馬」「栗毛の馬」「白い馬」は、「地を行き巡るために主が遣わされたもの」です。それらが地を行き巡って見たものは「全地は安らかで、穏やか」な様子でした。しかし、この「安らか、おだやか」さは偽りの平和であり、その背景にあるのは神の民を踏み倒し、踏みにじって自分たちの権力を誇っている異邦の諸国(世界)の姿です。神はご自身の民を矯正する目的で異邦人を用いたに過ぎません。しかし彼らは自分のたちの権力を誇っていたゆえに、15節で主は「安逸をむさぼっている諸国の民に対しては、大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行った」と怒りをあらわにしています。

(2) エルサレムに対する主の熱愛

●第一の幻で最も注目しなけれはならないのは、主のエルサレムに対する熱愛(ジェラシー)です。

13 すると【主】は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。
14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した
16 それゆえ、【主】はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】の御告げ──測りなわはエルサレムの上に張られる。』
17 もう一度叫んで言え。万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。【主】は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」

●かつて、主の栄光がエルサレムから離れて行くのをエゼキエルは見ました(エゼ10:18~19、11:22~33)。そして滅亡が訪れ、異邦人の時が始まったのです。イスラエルの回復のプロセスは、この滅亡とは逆のプロセスとなります。すなわち、神がエルサレムに帰られることです。そしてそこにエルサレムの神殿が再建されることです。この二つのことが成就されるのは、千年王国においでです。これが第一の幻の結論です。そのときには、良い(トーヴ)ものは「散り乱れる」(口語「満ち溢れる」、新共同訳「恵みで溢れ」)のです。原語の「プーツ」(פּוּץ)の意味は、散らされ、広がって行くイメージです。

●千年王国の時代の都エルサレムは「主はここにおられる」〔アドナイ・シャマー〕יהוה שָׁמָּה(エゼキエル48:35)と呼ばれるようになります。

3. 第二の幻「四つの角と四人の職人」(1:18~21)

●1章18節から新共同訳聖書では2章1節になっています(BHS聖書本文)。「角」とは力の象徴であり、強大で傲慢な権力を象徴しています。ここでは、ユダとイスラエルを散らし、エルサレムを破壊した「角」、異邦人の時にユダヤ人を苦しめる勢力とも言えます。「四つの角」のことを、19節では「これらはユダとイスアエルとエルサレムとを散らした角」、あるいは「ユダの地(エルサレムのこと)を散らそうとする国々の角」(21節)と言い表わしています。おそらくこの四つの角とは、異邦の勢力を指していると解釈できます。ダニエル書7章3~8節にある海から上がってきた「四頭の獣」もそのことを象徴しています。これらはすべて神の選びの民を散らしたのです。

●さて、「四つの角」を「打ち滅ぼす」ためにやって来る「四人の職人」がいるのです。その「四人の職人」とは一体だれのことなのでしょうか。

【新改訳2017】ゼカリヤ書1章21節
私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」

●この「四人の職人」とは「四つの角」を討ち滅ぼすリーダーのことです。バビロンを打ち滅ぼした「クロス」、ぺルシアを打ち滅ぼした「アレクサンドロス」、そしてギリシアのセレウコス王朝のアンティオコスを打ち滅ぼした「ローマの将軍」、そして最後は、終末において復興されるローマ、すなわち、反キリストを打ち滅ぼす再臨の「キリスト」もこれら四人と解釈することができます。しかし、ユダを散らした国々の角(異邦の神に敵対する勢力)を打ち滅ぼすために主から遣わされる方は、包括的には神の御子イェシュア以外にはいないのです。

●「職人」とは「ハーラーシュ」(חָרָשׁ)で、幕屋、神殿、神の宮を建てる、いわば「熟練された職人」を意味します。ここでは複数ですから、「ハーラーシーム」(חָרָשִׁים)です。「四」が「すべて」を意味する包括的表現と理解するなら、「四つの角」とは神に敵対するすべての勢力を意味します。同様に、それと対抗する「四人の職人」も神に敵対する勢力を打ち滅ぼす一人の者と考えることができます。表面的には「ハガイ、ゼカリヤ、ゼブバベル、ヨシュア」ですが、その四人を包括する者は、やがて遣わされる神の御子イェシュアしかいません。このように、神と人とがともに住むための神殿を再建してくださるのは、イェシュア・メシア(ハッマーシーアッハ)しかいないことになります。イェシュア自身も、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19)と語っているからです。ですから、これが「四人の職人」が指し示している正体と言えます。


脚注
●聖書に登場する同根対格の例としては、以下のものがあります。
(1) 詩篇14篇5 節「見よ。彼らが、いかに恐れたかを
ここには、「恐れる」という動詞「パーハド」פָּחַדと、「恐れ」という名詞「パハッド」פַּחַד)の組み合わせが見られます。
(2) 詩篇144篇6節「いなずまを放って、彼らを散らし、・・・」
ここには、「いなずまを放つ」という動詞「バーラク」בָּרַקと、「いなずま」という名詞「バーラーク」בָּרָקの組み合わせが見られます。
(3) 哀歌1章8節「エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった。」
ここには「罪」という名詞「ヘーテ」חֵטְאと、「罪を犯す」という動詞「ハーター」חָטָאの組み合わせが見られます。

●同根対格については こちらも参照のこと


2013.9.17

a:3467 t:3 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional