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慰めよ。慰めよ。わたしの民を

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39. 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」

【聖書箇所】 イザヤ書40章1節

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【読み】
ナハー ナハー アンー ヨーマル エローヘーヘム

【文法】
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  • 「慰めよ。慰めよ」という反復法は強調を表わすヘブル的修辞法です。

【翻訳】

【新改訳改訂3】
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
【口語訳】
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ」
【新共同訳】
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
【NKJV】
"Comfort, yes, comfort My people!" Says your God.
【LXX】
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【瞑想】

イザヤ書40章1節にある「慰めよ。慰めよ。わが民を」(ナハムー・ナハムー・アンミー)という使信は、40章~66章にある中核的テーマです。すべての預言はこのテーマのもとに語られていると言えます。

「慰めよ」と語られている対象は、神によって選ばれ、繁栄の契約を結びながらも、亡国の憂き目を余儀なくされ、半世紀以上にもわたって苦難を甘受した「わたしの民」、すなわち、神の民(ユダ)です。時はバビロン捕囚の終わり頃であり、解放の時期が近づきつつある神の民に対して、回復の呼びかけがなされています。しかしこの呼びかけは、単なるバビロンからの解放と帰還についての言及だけでなく、神の救いのご計画における終末的(最終的)な解放も含まれて預言されているのです。この視点から聖書の預言を理解する必要があります。

「慰めよ」の動詞「ナーハム」נָחַםは旧約で108回使われていますが、名詞の「ネハーマー」נְחָמָהはわずかに2回です。「ナーハム」の語源には「深い呼吸」(breathing deeply)という意味があります。そこには、期待を裏切られた事に対する神の嘆息、悲しみのため息、あえぐといった深い感情があると同時に、神の民に対する主のあわれみの源泉となっているのです。

(1) 神の後悔と思い直しとしての「ナーハム」
ノアの時代、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも無悪い事だけに傾くのをご覧になった主は地上に人を造ったことを悔やみ(思い直し、後悔し)、心を痛められました(創世記6章6, 7節)。そこには主の悲しみがあります。また、イスラエルの最初の王となったサウルに対しては、「主はサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた(悔いられた)」(Ⅰサムエル15:29)とあります。

「主は誓い、思い返されることはない(みこころを変えることない)」(詩篇110:4)とか、「神は人間ではないので、悔いることがない」と預言者サムエルが最初の王となったサウル王に語っているにもかかわらず(Ⅰサムエル15:29節)、そのすぐあとでは、「主はサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた(悔いられた)」と記しているのです。逆に、出エジプト記32章12節では、モーセが金の小牛の像を造って拝んだ民の罪に対して、「どうかあなたの怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください」と祈ると、「主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」(14節)とあります。主が下そうと思っていたわざわいを「思い直される」ことがあるのです。

この一貫性がないという点が重要なのです。なぜなら、神はその主権的なみこころによって、人に対する思いを変更されるからです。特に、人が立ち帰り、悔い改めることによって、神が下そうと思われたわざわいを「思い直される」ということが多くあるからです。「思い直す」―それが神の「ナーハム」が意味する消極的な面です。そしてこの場合、ニファル態が用いられます。
参照;エレミヤ書18:8, 10/26:3,13, 19/42:10、エゼキエル書 24:14、ヨエル書2:13, 14、アモス書7:3, 6、ヨナ書 3:9,10/4:2、ゼカリヤ書8:14、Ⅱサムエル24:16、Ⅰ歴代誌21:15など。

ちなみに、神が「思い直す」場合には「ナーハム」נָחַםが使われますが、人が「思い直す」場合には「シューヴ」שׁוּבという動詞が使われます。

(2) 神の慰めとしての「ナーハム」
ところで、神の「ナーハム」には積極的な意味があります。それはピエル態で表わされる「慰める」という面です。イザヤ40章1節の「慰めよ。慰めよ。わが民を」という呼びかけは、神がご自分の民の罪を赦して、自由にして、新しく立ち上がらせようとして励まし、力づけようとしているのです。これが神の「慰め」です。なぜなら、主の民が悔い改め、主のみおしえに従うようになったからです。

イエス・キリストも山上の説教の冒頭のことばの中で、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められる(パラカレオー受動態)からです。」(マタイ5:4)と語られました。これは自分のうちにある罪、弱さ、醜さに悲しみ、それを悔いる者は、神の慰めめを必ず受けるという約束のことばです。自分の真の罪に気づき、それを悲しみ、神の前にその罪を悔いることで神からの赦しを得、そして神に受け入れられることによって神とのかかわりが新しくされ、同時に神からの生きる勇気や励まし、力づけを与えられること。それがヘブル語の「ナーハム」נָחַםであり、ギリシャ語の「パラカレオー」ということばの意味です。

新約版の「慰めの書」と言われるコリント人への手紙第二の7章6節で使徒パウロは、「気落ちした者(へりくだった者)を慰めてくれる神」について語っていますが、1章では「慰め」ということばが繰り返して使われています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント1章3~6節
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

このように、聖書における「慰め」は決して感傷的(センチメンタル)な意味ではなく、苦しみや困難の中にあってもそれを避けることなく、むしろ、その中を貫かせていくところの勇気や励ましを与える力を意味します。それによって神の民(神の子)としてのアイデンティティを確立することが目指されているのです。

ヘブル人への手紙12章5~7節には「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧め(παρακαλεω)を忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである。』・・神があなたがたを子として扱っておられるのです」とあります。自分が子として扱われているという恩寵に気づく時、主の懲らしめは励ましとなり、慰めとなり、苦しみの中を貫かせる力となります。これが「ナーハム」(נָחַם)であり、「パラカレオー」παρακαλεωなのです。

感謝なことに、神の「慰め」はすでに主権的恩寵として備えられています。「慰める」(ナーハム)のギリシャ語は「パラカレオー」(παρακαλέω)です。「パラ」(παρα)は前置詞で「~のそばに」という意味で、それに「呼ぶ、呼ばれる」という動詞「カレオー」(καλέω)が結びついています。このことばが名詞になると「パラクレーシス」(慰め)「パラクレートス」(助け主)となります。別名、「聖霊」「御霊」とも言われます。その方は目には見えませんが、私たちに常に寄り添って、苦難の中にあっても、私たちを励まし、勇気づけて、神とのかかわりを建て上げてくださる方なのです。この方の助けによって、はじめて私たちは神の子どもとしてのアイデンティティを確立していくことができるのです。

こうした神の「慰め」を待ち望んでいた人物がいます。それは老シメオンです(ルカ2:25)。彼は「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」敬虔な人でした。その彼が幼子イエスを見て腕に抱いたとき、この幼子のうちに「神の御救い」を見ました。「慰め」は「神の御救い」と同義です。その「御救い」は「万民の前に備えられた御救い」であり、それはイスラエルを通してもたらされるゆえに、「御民イスラエルの光栄」そのものなのです。しかし、それはまだ完全には実現されていませんが、メシア王国(千年王国)が実現する時に、「御民イスラエルの光栄」が訪れるのです。

【付記】
楽譜「ナハムー ナハムー アンミー」

2013.3.25(5.27改訂)


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