敵からの防衛の保障
出エジプト記の目次
14. 敵からの防衛の保障
【聖書箇所】17章8節~16節
はじめに
- すでにイスラエルの民は敵からの防衛の保障する神を経験しました。追ってくるエジプト軍に怯えていたイスラエルの民に対して語った主のことばは「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。」(出 14:13)でした。なぜなら、「これは主の戦いであるから」と言われ、モーセの権威ある杖によって紅海の道を開かれました。そしてすべてのエジプト軍は滅びたのです。
- 17章では、レフィディムで敵であるアマレクが戦いを仕掛けてきました。アマレクはエサウの孫で死海の南からシナイ山の北部の比較的広範囲にわたって住んでいた遊牧民で、後にはカナンにも定住してイスラエルを攻撃することがしばしばあったようです。アマレクはイスラエルの民にとって脅威の存在でした。モーセはヨシュアに言います。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい」と。同時に、モーセは「私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」と言いました。この戦いは何を意味しているのでしょうか。
- ここでの戦い方はきわめてユニークです。実際の戦いにおいてはモーセの従者であるヨシュアが戦うのですが、その戦いの勝敗の行方を握っているのはモーセの杖でした。モーセが杖を上げているときはイスラエルが優勢となり、疲れて手が下がるとアマレクが優勢になりました。そのためにアロンとフルがモーセの手を両側からささえなければなりませんでした。この戦いはとりなしの祈りの型です。とりなしがなされている限り、戦いに勝利できるというものでした。神の杖を上げるということがどういことを意味しているかについては、そのときには隠されていました。
- ここでの瞑想は、14節~17節を取り上げてみたいと思います。
1. ヨシュアの耳に置くべきこととは
- 14節にはこうあります。
【新改訳】
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」【新共同訳】
主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」【フランシスコ会訳】
ヤーウェはモーセに言われた。「記念としてこの事を書きしるし、くり返しヨシュアに言い聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から消滅させる。」と。」
- 「ヨシュアに読んで聞かせる」とは、原文では「ヨシュアの耳に置く」とあります。これは「しっかりと耳に入れておく」という意味です。つまり重要な事柄だからだという含みがあります。なにをしっかりと耳に入れておくのかといえば、それは「このこと」です。「このこと」とは、次に述べられていることで、「わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」ということです。しかし実際、アマレクとの戦いはこれからもなんども続きます。アマレクが完全に消し去られるのは、ダビデの時代になってからのことです。それまでは何度も、くり返して戦わざるを得ない敵なのです。その証拠に、ここでは「完全に消し去る」と訳される動詞は未完了形です。ですから、戦いはこれからも続くけれども、やがては消し去られる敵であることを、ヨシュアにくり返して聞かせるようにと励ましておられるのです。
- 似たような表現をイエスが弟子たちに語るときに使っています。ルカの9章44節にはこうあります。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます」と。ここでも「耳に入れる」とは「耳に置く」ことです。つまり、非常に重要なこととして、注意して聞き、かつ記憶することを意味しています。しかし残念ながら、弟子たちはこのイエスのことばを理解することができませんでした。
- イエスは弟子たちにここで、やがてあなたがたもわたしと同様に、苦しみを受け、迫害されることになると警告し、かつ、三日目に甦るということで励ましておられるのです。栄光の前には必ず苦しみを通らなければならないということをイエスは弟子たちの耳に置こうとされたのです。
2. 「アドナイ・ニシ」(主はわが旗、軍旗)の意味すること
- モーセは戦いの勝利の後に、祭壇を築き、「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)と呼んだのですが(16節)、その意味するところがまことに不明確です。16節は聖書によって訳がまちまちなのです。
【新改訳】
それは「主の御座の上の手」のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。【新共同訳】
言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。【関根訳】
「手をヤーウェの旗につけよ、ヤーヴェは代々アマレクと戦われる」【フランシスコ会訳】
「手にはヤーの旗があり、ヤーウェは代々アマレクと戦う」【岩波訳】
そして言った。「手を、ヤハの玉座の上に〔置け〕、代々にわたる、アマレクに対するヤーウェの戦争である」【リビングバイブル訳】
モーセは言いました。「神様の旗を掲げなさい。こののち何代にもわたり、神様がアマレクと戦ってくださる。」
- 新共同訳は他の聖書と比べて、かなり意味合いが異なっています。原文直訳では、「そして彼(=モーセ)は言った。すなわち、『手が主の御座の上に、主のアマレクとの戦いは代々に』となっています。動詞がないために訳がまちまちであり、「旗」のヘブル語は「ネース」(נֵס)です。主の「座、玉座、御座」は「キッセー」(כִּסֵּא)の連語形「ケース」(כֵּס)。また、「手」(「ヤード」יָד)が、モーセの手にした神の(権威の)「杖」を意味するとすれば、それが「わが旗」となり、その旗を高くかかげることによって、主が敵と戦って勝利をもたらしてくださるという意味になると考えられます。
- 「アマレク」は、神の救いの計画に敵対し、それを無に帰そうとする力の象徴とも言えます。その敵に対して勝利をもたらすのは、常に「神の杖」です。モーセや従者の手ではなく、モーセが握っていた「神の杖」こそが勝利をもたらすのです。それは、神がモーセを召された時に、モーセの杖を蛇に変える奇蹟によってご自身の力を保証するしるしとされました。その杖こそがエジプトのパロと対決する唯一の保証となったのです。またその杖は紅海を干上がらせ、荒野では岩から水を出させました。そしてモーセが神の命令によって杖を高く上げると神の力が働いて、戦いにおける勝利がもたらされました。
- アマレクとの戦いにおいてイスラエルに勝利がもたらされた後に、モーセは一つの祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ(ニッシー)יהוה נִסִּי」(主はわが旗)と呼びました。なぜなら、「神の杖」こそ勝利のしるし(合図)となるべき「旗」(「ネース」נֵס)だからです。
- 今日におけての「神の杖」は、キリストの十字架です。パウロはこう断言しています。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)と。主の十字架こそ(復活も含まれる)すべての敵に対して勝利をもたらす「わが旗」とならなければなりません。
2011.12.20
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