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新しい天と新しい地を待ち望む

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8. 新しい天と新しい地を待ち望む

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ベレーシート

  • 今年(2016年)の「セレブレイト・スッコート」では、ペテロの手紙(Ⅰ&Ⅱ)を八日間にわたって、午前中に、1章ずつ瞑想してきました。今日がその最後の日で、Ⅱペテロ3章を瞑想する日となっています。第一回目のⅠペテロ1章を礼拝説教という形で学んだように、最後でもⅡペテロ3章を礼拝説教という形で学びたいと思います。ペテロが書き送った二つの手紙がそれぞれ何を伝えようとしていたのか、もう一度ここで振り返りながら、以下に簡単にまとめてみたいと思います。

(1) 宛先

  • ペテロの手紙がどこからどこへ宛てて書かかれたものであるかは、第一の手紙の5章13節と1章1節に示されています。「バビロン」とは当時のローマ帝国の首都のことです。そこにいる「あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っている」とあります。この「婦人」と訳された語彙は原文では女性形の冠詞の「へー」(ἡ)が一つあるだけですが、それは「教会」を表しています。聖書は「教会」を女性形で表します。ですから、ローマにある教会にペテロもいたと考えられます。そのローマから、ローマの支配圏にあった小アジアの教会に対して宛てたものです。

(2) 執筆目的

  • 第一の手紙を執筆した目的はローマによる迫害に備えさせるためでした。事実、使徒ペテロも使徒パウロもローマで皇帝ネロの時代に殉教しています。しかし、第二の手紙を執筆したのは教会内に異端をもたらす「にせ教師」たちが現われはじめたからでした。

(3) 手紙の背景と主題

  • 手紙の強調点は、第一の手紙と第二の手紙では以下のように異なっています。
    第一の手紙の主題は、外からの迫害という苦難に対して「自分を武装すること」。
    第二の手紙の主題は、内から現われる「にせ教師」に対して、神とイェシュアを「知ること」。
    つまり、外からの迫害に対しては「自分を武装すること」、内にいるにせ教師たちに対しては「主を知ること(十分な知識)において成長すること」が強調されています。
  • そしてこれら二つの強調点を支えているのが主の来臨(=再臨)の約束です。そのことを確信して待ち望むことが力となるからです。今日の日本のキリスト教会にはローマ時代のような際立った迫害はありませんが、「にせ教師」は絶えず台頭してきています。彼らの特徴はすべて貪欲であり、地上の富や名声を求め、祝福ということばを用いて「繁栄神学」を語り、純真な信者を食い物にしようと言葉巧みなつくり話で誘い込もうとしています。ですから、主にある者たちが主の健全な教え(使徒から受け継がれている教え)と主のみことばにしっかりととどまっていなければ、「にせ教師」の教えにまんまと引き込まれてしまうのです。今日、こうした「にせ教師」たちが横行している時代です。たとえその誤りに気付いたとしてもみことばの土台が正しく築かれていないために、最初からやり直さなければならないほどのダメージを負ってしまっています。「にせ教師」や「にせ預言者」の出現は「終わりの日」の特徴なのです。ペテロは「にせ教師」の出現について、「あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活をし」、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と終末の信仰を否定する問いかけに対して対処すべきことを警告しています。

1. 「にせ教師」の終末信仰を否定する論拠に対して

  • 「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」という問いかけは、問いかけのかたちによる否定です。詩篇42篇3節にある「おまえの神はどこにいるのか」という問いかけも同様です。これはあざける者の常套句です。バビロンに捕囚の身となったユダの民たちが敵対者である異邦人から浴びせかけられた屈辱のことばです。しかしユダの民はこの屈辱の経験を通して、二代、三代かけて、神のトーラーの中に神の約束を見出していったのです。その霊的エネルギーの蓄積は旧約聖書をまとめ、今日でいうユダヤ教を生み出したのです。とすれば、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」というあざけりの問いかけは、神の民にとっては確かな神の約束にしっかりと立つ契機ともなり得るのです。
  • 終末の信仰を否定するあざける者たちの論拠は、「先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」という言葉の中にあります。このことばが意味することは何でしょうか。

(1) 「先祖たちが眠った時からこのかた・そのままではないか」という問いかけ

  • ここでの「先祖たち」とは、主の来臨を待望しながら、その日を迎えずしてこの世を去っていった初代のクリスチャンのことを指していると考えられます。初代のクリスチャンたちは自分たちの生存中に主の再臨があると信じていたようです。そのことを思わせる多くの聖句が聖書の中に見られます。ペテロの手紙に限定すれば、Ⅰ・4章7節がそうです。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」ということばを聞けば、だれでも近いうちにという思いになるはずです。ところが、年月が経過し、主の再臨を待望していた人々がその日を迎えずに死んでいくという事態が起こってきたとき、人々の間に、「いつまでたっても再臨の時が来ないではないか」という終末信仰に対する疑義が生じてくるのは自然なことです。その疑義を逆手に取ったのが「あざける者ども」なのです。

(2) 「何事も創造の初めからのままではないか」という問いかけ

  • 第二の否定の論拠は、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、何も変わってはいないというものです。何ら変化せず存在しているのだから、将来においても何ら変わらない。特に、大いなる破局など起こるはずがないという主張です。

(3) ペテロの反論

  • 「あざける者ども」の二つの否定論に対して、ペテロは彼らが見落としている事柄について指摘しています(3:5~6)。ひとつは、すでに世界は洪水におおわれて滅びたこと。そして、今の天と地は火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで保たれているということ。もう一つは、主の再臨の遅延のために終末信仰に対する疑義を持ち始めた人たちに対する励ましを語っています。それによれば、主は約束を遅らせているのではなく、ひとりでも滅びることがなくすべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるゆえに、忍耐深くあるのだということです。また、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」であることを見落としてはならないとも述べています。つまり、主は時間の制約の中にある人間の思いとは異なり、時間を超える方であることをペテロは教え諭そうとしています。
  • ちなみに、「すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」の「望んで」という語彙は、類語の「~したい」を意味する「セロー」とは異なり、熟慮の結果、強く望むことを意味する「ブーロマイ」という語彙が使われています。主の再臨の遅延とも見なされ得る事態を、すべての者の救いを待ち望む主の忍耐として理解したペテロの洞察は、なんとすばらしいことでしょうか。

(4) 「主の日」は、盗人のようにやってくる

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ3章10、12節
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
12・・・・その日が来れば、・・・天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

  • ここでの「主の日」は、神のさばきの日を意味していますが、同時に、キリストの再臨の日をも意味しています。「主の日」の到来は必然的、不可避的であると同時に、「盗人のように」とあるように不可測性を表しています。また、「天」「天の万象」「地と地のいろいろなわざ」とは、この世界に存在するあらゆるものを一つとして例外なく、包括的に表現しようとしています。特に、「天の万象」と訳された「ストイケイオン」の複数形(ストイケイア)はこの世界を構成する水、火、空気、土などの諸元素を意味する語彙で、それらが高度の熱によって「焼けてくずれ去る」(3:11)、「焼け溶けてしまう」(3:12)という私たちの想像をはるかに超える出来事であり、壊滅的な主の日のすさまじさが表されています。

2. 私たちの希望は「正義の住む新しい天と新しい地」

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ3章13節
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

(1)「新しい天と新しい地」は「正義の住む」世界

  • これはなんという大きな希望でしょうか。すべてのものが「焼けてくずれ去る」のとは対照的です。主のさばきの後に到来する「新しい天と新しい地」は神の全く新しい創造によるものですが、その「新しい天と新しい地」の中にある「新しさ」を、ペテロは「正義(義)の住む」世界としています。「義」が擬人化されて、それが新しい天と新しい地に「住む」とあります。「住む」と訳されたギリシア語の「カトイケオー」は、一時的に住む、滞在するという意味の「パロイケオー」とは異なり、「定住」を意味する動詞です。しかもそれが現在形で現わされていますから、まさに「永遠の定住」となります。
  • 「義」とは神と人との関係概念であり、神のみこころにかなった最高度のかかわりを示すものです。ヨハネはこの究極的なかかわりを、「見よ。神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3)と表現しています。そしてそれを「天から下って来る『聖なる都エルサレム』」(黙示録21:10)とも言い換えています。ペテロの場合、それを「新しい天と新しい地」の中にある「正義が住む」世界としているのです。これらはみな神のみこころの最終目的であり、それが実現している世界であるとともに、聖書が指し示す「八日目」の完全成就と言えるのかもしれません。

(2)「新しい天と新しい地」というフレーズ

  • ペテロがここで語っている「新しい天と新しい地」は、「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまった」後に出現するものであるとすれば、旧約聖書のイザヤ書が啓示している「新しい天と新しい地」の内容を超えています。つまり、神のご計画における最終段階としての「新しい天と新しい地」です。これはヨハネの黙示録21章に記されている「新しい天と新しい地」と言えます。
  • イザヤ書における「新しい天と新しい地」は、第一義的にはメシア王国(千年王国)のことを意味しています。しかし聖書にはしばしば二重預言がなされていることを考慮するなら、最終段階である「新しい天と新しい地」の啓示とかぶっている部分はあると考えられます。特に、以下のイザヤ書65章17~18節はそうです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書65章17~25節
17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と【主】は仰せられる。

  • しかし、20節以降は千年王国において成就する預言だと理解できます。以下のイザヤ書66章にも「新しい天と新しい地」というフレーズが登場しますが、千年王国の預言です。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書66章22~24節
22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──【主】の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。
23 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と【主】は仰せられる。
24 「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

  • 「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」というのはメシア王国についての預言です。なぜなら、最終段階での「新しい天と新しい地」では、聖なる都エルサレムが天から下ってくるため、「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」という表現は成り立たないからです。というのは、そこには太陽も月もないからです(黙示録21:22)。

3. 神の約束に従って生きる 

  • 神は、イェシュアの復活によって、信じる者を新しく生まれさせて、「生ける望み」(Ⅰペテロ1:3)を持つようにしてくださいました。この「生ける望みを持つ」ことがペテロの手紙では、「救い」と同義なのです。特に、「生ける望み」は「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない天にたくわえられている資産」とも言い換えられ、さらに「終わりのときに現わされるように用意されている救い」であると言い換えられています。そうした「生ける望み」が与えられたのは、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(1:19)ともあります。キリストの尊い血潮は、信じる者に「生ける望み」を与えるためなのです。ここに贖罪と再臨による希望が結びついています。その希望が失われるとするなら、外部からの迫害に対しても打ち勝つことができませんし、内側からのにせ教師たちの誘惑にも打ち勝つことができないのです。ですから、ペテロは手紙の全体にわたって、終末信仰の重要性を訴えているのです。それゆえ、ペテロの手紙の重要なキーワードは「生ける望み」だと言えます。
  • 「希望」を意味するギリシア語は「エルピス」(ἐλπίς)です。新約聖書における「エルピス」とは何でしょうか。それは以下に挙げる四つの事柄です。

(1) キリストの再臨の希望
(2) 朽ちることのない栄光のからだが与えられるという復活の希望
(3) 万物の回復(復興)という希望
(4) 地上における御国の完成(エデンの園の回復)の希望

  • (1)~(4)の希望はそれぞれ別個のものではなく、すべては「一つ」の希望です。私たちがキリストを信じることで与えられる希望は死んで天国に行くことではありません。むしろ、やがてこの地上においてメシアなるイェシュアとともに本来人間に与えられた目的を果たすという希望、つまり「地を従わせ」「地を支配する」ことです。「主の祈り」の中にあるように、みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえという祈りが実現することです。それは、キリストの再臨によってこの地上に現わされる御名の栄光を味わい楽しむことです。そのことがどんな世界かを、私たちは聖書を通して学んでおくことが大切です。
  • イェシュアが山上の説教で語ったことは、メシア王国において実現する世界です。私たちの努力で実現できる世界ではありません。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章3~12節
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(現在)―保障として
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(未来)
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(未来)
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(未来)
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(未来)
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(未来)
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(未来)
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(現在)―保障として
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

  • 未来形で表されている事柄は、将来の約束です。しかもその約束は、主による確実な約束なのです。ここには「すでに」と「いまだ」の緊張関係がありますが、確実な主の約束を握って信仰によって生きることが「幸いだ」とイェシュアによって語られているのです。聖書が教えている天国とは、天ではなく、この地上において実現する「御国」のことなのです。この地上の万物は、神の子が贖われるのを待っています。それは神の創造の目的に従って地上に生きるすべてのものが本来の人間によって支配されるときを待っているのです(ローマ8:18~20参照)。
  • メシア王国の実現は、創世記1章について記されていることが回復することです。そして創世記2章に記されていることは、神のマスタープランの最終段階である「新しい天と新しい地」が再創造されることで実現します。このことは、今年の「セレブレイト・スッコート」において神田先生に与えられた天からの啓示でした(「牧師の書斎」にある「空知太栄光キリスト教会」タグの中の「特別集会」の中に掲載しています)。ぜひ御覧ください。


4.  内村鑑三に見る「再臨信仰」

  • 以下のことは、日本のキリスト教会に大きな影響を与えた内村鑑三が、58歳の時に記した文書からの引用です。

「私の生涯に、三度、大変化が臨みました。
第一回(17歳の頃)は、私がキリスト教によって、初めて独一無二(どくいつむに)の神を認めた時です。そのとき私の迷信は、根から断たれました。八百万(やおよろず)の神々を恐れ、また拝んできた私は、天地万物の造り主を唯一の神と認めることにより、思想が統一されました。
 
第二回(25歳の頃)は、私がキリストの十字架において、自分の罪の贖いを認めた時でした。その時、私の心の煩悶(はんもん)は、やみました。いかにして神の前に正しくあることができるか、と悶(もだ)え苦しんでいた私は、「仰ぎ見よ、ただ信ぜよ」と教えられて、心の重荷がたちまち落ち、心軽き人となったのです。私は道徳家であることをやめて、信仰家となりました。私は私の義を、自分の心に見るのではなく、十字架上のキリストにおいて見ました。アマスト大学の寄宿舎において。

第三回(57歳の頃)は、私がキリストの再臨(再来)を確信するに至り、生涯に大革命の臨んだことを認めます。これは確かに、私の生涯に新時期を画する大事件です。このことについて私は、「見よ、すべてが新しくなった」(Ⅱコリ5:17)と言うことができます。私は古い世界を去り、新しい世界に入った感がします。私の宇宙は広がり、前途は開け、新たな力が加わり、眼は明らかになり、生涯のすべてが一新したことを感じます。じつに私の短い生涯において記憶すべきは、明治11年と、1886年(私は西暦でこれを記憶しています)、それに大正七年(1918年)です。」

  • 上記の内村鑑三の信仰歴の中で私が驚かされたことは、彼がキリストの再臨に目が開かれたのがなんと57歳の時であったということです。きわめて遅かったと言えます。にもかかわらず、その彼が再臨がわからなければ聖書はわからないと言いつつ、聖書の研究がより深められていきました(ちなみに、内村は69歳でその生涯を終えます)。
  • さらに、内村鑑三曰く

    「キリストの再臨」――言葉はいたって簡単です。しかしながら、その意味は深遠であり、その元理は根本的です。ですからこのことがわかって、全てがわかるのです。反対に、このことがわからないと全てが不明です。じつにこれを真理の中心と称して誤りはありません。聖書がこのことに特に注意を払うのは、当然です。これこそ万物の帰するところであり、万物の究極だからです。再臨を信じることによって、聖書は私にとって初めてわかりやすい書物となりました。40余年間読み続けた聖書を理解する"鍵"を与えられ、私は最大の恵みを与えられた思いです。聖書を理解することは、神を理解し、自然を理解し、人生を理解し、自己を理解することです。


ベアハリート 

  • ぺテロの手紙第二の主題は「神と主イェシュアを知ること」です。ここでの「知る」とは、知識として知るという意味ではなく、人格的に知ることを意味します。ヘブル語の「知る」は「ヤーダ」(יָדַע)で、夫婦の性的な交わりをも意味する動詞です。最も近しいかかわりを意味する動詞ですが、具体的にはイェシュアを信じ、イェシュアのことばを信頼し、イェシュアに従うことを通して「知る」ことを意味します。その意味において「知ること」に成長するようにとペテロの第二の手紙は強調しているように思われます。
  • そもそも神の御子イェシュアはこの世に来られて、「御国」がいかなるものであるか、その福音についてのデモンストレーションをなされました。イェシュアの語ったことば(教え)と奇蹟はすべて、「御国」に関するものであり、当然そこには神のご計画の全貌が啓示されています。その視点からイェシュアについての十分な知識(「エピグノーシス」)を与えられるならば、迫害に対しても、またにせ教師たちの異端的な教えからも守られ、大きな希望をもって、主を待ち望む生き方をすることができるのです。その意味で、ペテロが語ったことばをじっくりと私たちの心に刻みたいものです。ペテロの第二の手紙の各章にそのことが記されています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ1章2節
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

【新改訳改訂第3版】 Ⅱペテロ2章20節
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ3章18節
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識(※)において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。
(※ここでの「知識」は名詞の「グノーシス」)


  • キリストを知ることは、神のご計画、みこころ、御旨、目的を知ることと同義なのだということを忘れてはなりません。このことに集中できる歩みが豊かに備えられるように祈りましょう。なぜなら、このことは、私たちが主にあって取り組むべき人生の大事業だからです。

2016.10.23(セレブレイト・スッコート最終日)


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