****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

来てください 沈むことのない光

4. 来てください 沈むことのない光

画像の説明

【聖書箇所】 マタイの福音書 4章15, 16節

はじめに

  • アドベント2の第4回目の瞑想のテーマは「光」です。ヨハネの福音書における大きな二つのシンボルは「いのち」と「光」であり、プロローグの1章に以下のように提示されています。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

  • ヨハネにおいて、光とは単に闇を照らす光源としての光だけでなく、いのちをもたらす光、永遠のいのちをもたらす光としてとらえられています。とすれば、「光」とは「神と人とのかかわりの概念」ということができます。「光よ。あれ。」と言われた神はすべての被造物を光の中で創造されました。すべての被造物は単独で存在することはできず、すべてがなんらかのかかわりをもって存在しているのです。それゆえ、「いのち」と「光」は密接な関係にあるのです。この視点からヨハネの福音書を瞑想することは大いに価値があります。しかし、2011のアドベントの瞑想では、マタイの福音書にこだわってみたいと思います。
  • マタイの福音書に「光」という言葉が登場するのは4章16節です。この節は預言者イザヤが語ったことが成就した出来事として引用されている箇所です。

1. 理想的なメシア支配の預言(イザヤ8:23後半~9:6)の成就

  • イザヤ書8章23節後半~9章6節の箇所は理想的なメシア支配の預言がなされています。特に、9章6節からはじまる預言、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」はクリスマスシーズンのメッセージにしばしば用いられる箇所です。そして続く7節以降ではメシアの性格について語られています。「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。』 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを支える。」と。
  • ところで、このようなメシアがこの世に来られて最初に活動された地は、ユダヤの中心地であるエルサレムではなく、当時のパリサイ人が粗野で教養のない人々と見なしていた異邦人の住むガリラヤの地でした。そこに住む者たちが最初に光を見たのです。マタイはイザヤの預言を以下のように引用しています。

【新改訳改訂第3版】
4:15
ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、
ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

  • 「やみの中を歩んでいた民」と「死の陰の地に住んでいた者たち」とは同義で、ガリラヤに住む異邦人たちのことです。イエスの本格的な宣教の本拠地はガリラヤの「カペナウム」でした。そこは当時のガリラヤ地方の第一の町です。カペナウムには当時ローマの駐屯軍がおり、収税所がありました。またここは東西交通の要所でもありました。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、マタイらはみなカペナウムの人たちだったのでした。しかも、なぜこの地が宣教の開始の地であったのかと言えば、イエスがそれまで住んでいたナザレ(郷里)を「去る(退く、立ち退く)」ことを余儀なくされたからです(4:12)。
  • マタイはその契機となった出来事として「ヨハネが捕らえられたと聞いた」ことを記していますが、ルカの場合はナザレの会堂で語ったイエスの話を聞いた人々がイエスを崖から投げ落して殺そうとしたからでした。それは、イエスが引用したイザヤの預言の箇所で、最後の部分を省いて引用されたからでした。その省かれた部分は異邦人に対する復讐のことが記されていました。長い間、異邦人の支配を受け続けて来たユダヤ人にとって、彼らに復讐をしてくれるメシア、それから解放してくれるメシアを待ち望んでいたので、その部分が省かれることは許せないことでした。それゆえイエスを殺そうとしたのです。そのためにイエスはナザレを去り、ガリラヤの町カペナウムに行かれたのです。
  • マタイとルカとではカペナウムに行く契機となった出来事は異なっていますが、ナザレを去ってカペナウムに行き、そこから本格的な宣教がスタートしたことは全く同じです。マタイはこのことを「預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった」と見ているのです。
  • マタイ4:12で「立ちのかれた」(新改訳)と訳される「アナコウレオー」άvαχωρέωは新約聖書で 14回、マタイの特愛用語です(2:12, 13, 14, 22/4:12/9:24/12:15/14:13/15:21/27:5の10回)。
    マタイの福音書はこれまで何度か「退く」イエスの姿を示しています。エジプトに退き(2:14)、ガリラヤの地方(ナザレ)に退きます(2:23)。しかし、それがいつも決まって聖書の言葉が成就しているとマタイは述べています。そして今、同じ「立ちのき」を通して、異邦人への救いが成就し始めたと記されています。
  • マタイの福音書はユダヤ人向けに書かれたとされています。確かにそうなのです。しかしマタイははっきりと異邦人に救いがあることを記しているのです。1章の系図の中に、東方の博士たちの来訪、そして今、異邦人のガリラヤの地であるカペナウムが宣教の場となることなどです。まさに、遠い者が近い者となり、やみの中に座っていた民が光を見る時が訪れたのです。このイエスの「立ちのく」という隠れの中で神の新しい事が始まっているのです。しかもそれに「預言の成就」という神の不思議な配剤が働いています。私たちは人間の計る最悪をも最善に変えられる神を恐れなければなりません。

2. 沈むことのない偉大な光

マタイ4:16
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

  • ガリラヤ地方はB.C.723~722年にアッシリア帝国の侵略を受け、その属国となり、住民は捕虜となりました。こうしてガリラヤの住民は家族との離別の悲しみに会い、絶望のどん底にあったのです。このような悲劇のなかにおいて、イザヤは神の救いの光を見てこの預言をしたのです。
  • ガリラヤとは「リング(輪)」という意味です。この地方に数多くの異邦人が輪のようになって住んでいた事から、ガリラヤという名称がついたと言われています。「暗やみの中にすわっていた民」「死の地と死の陰にすわっていた人々」とは、直接的には、アッシリアに併合されて絶望のどん底にあった民の状態を意味していますが、比喩的には、霊的な暗やみ、霊的な死を意味しています。たとえ表面的にどんな豊かな生活を送ろうとも、キリストとその福音を知らぬ者はその本質においてはただ暗やみと死の中にあります。そうした人々が「偉大な光」を見ることのできる新しい時代が、すでに来ています。決して沈むことのない大いなる光が上ったのです。
  • 私たちがしなければならないことは、この「光」に背を向けることなく、むしろこの「光」を受け入れることです。そして、光の子どもとしてふさわしく歩むことです。

イエスは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

  • その光とは、「天からの光」、「主の光」「愛の光」「まことの光」「御顔の光」「信仰と希望の光」「永遠の光」「天の都を照らす光」・・・です。代々の聖徒たちと共に祈ります。「来てください。沈むことのない光」

2011.12.19


a:2321 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional