死に至る病いをわずらったヒゼキヤの祈り
28. 死に至る病いをわずらったヒゼキヤの祈り
前へ | 次へ
【聖書箇所】38章1~22節
ベレーシート
- イザヤ書38章と39章のそれぞれの冒頭は「そのころ」という言葉で始まっています。訳語としては同じであっても、原語が異なっています。38章1節の「そのころ」は「バッヤーミーム・ハーヘーム」(בַּיָּמִים הָהֵם)で、直訳としては「それらの日々に」となります。一方の39章12節の「そのころ」は、「バーエーット・ハヒー」(בָּעֵת הַהִיא)で、直訳的には「その時に」となります。
- ヘブル語においては、私たちが考えるような厳密な時系列は重視されません。文脈の流れの中でしか理解できないことが多いのですが、聖書に記されている情報を調べて整理していくなら、38章と39章の出来事が36章と37章の出来事と密接なかかわりをもっていることが分かるのです。つまり、「そのころ」とは36~37章に記されている出来事、つまり、それはエルサレムがセナケリブの軍隊によって完全に包囲されたにもかかわず、主はエルサレムを奇蹟的に救われたという出来事と密接につながっている事柄というニュアンスがあるのです。それが「そのころ」という表現が指し示していることです。
- 今回の焦点は、なにゆえに38章が記されているのかという問いです。そこに記されている出来事の必然的な意味についてです。
1. ヒゼキヤに対する死の宣告
【新改訳改訂第3版】イザヤ書38章1節
そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
- ヒゼキヤが経験した死に至る病。それゆえ、イザヤはヒゼキヤのところに行って、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と告げます。なんと辛辣なことばでしょうか。この病気は、ヒゼキヤがアッシリヤの王セナケリブに貢物を与えることでエルサレムを攻略しない約束を取り付けたことが、神によってさばかれたとする解釈もあります。確かにそのような解釈も考えられます。しかし主はヒゼキヤに死を宣告することで、彼が神に助けを求めることを通して、神の栄光を現わすことを願っておられたとも考えられます。
2. ヒゼキヤの祈りと主の答え
2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、
3 言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
4 そのとき、イザヤに次のような【主】のことばがあった。
5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。
6 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』
7 これがあなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束されたこのことを成就されます。
- このヒゼキヤの祈りを見る限り、自分が主の前に罪を犯したという自覚はありません。つまり、なにゆえに自分が死に至る病になったのか分からずにいるのです。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」という主への訴えには目を見張るものがあります。
- この祈りのことばの中で特徴的なのが、「あなたの御前に歩み」という部分です。ここでの「歩む」という動詞は、「ハーラフ」(הָלַךְ)の強意形ヒットパエル態が使われています。つまり、自ら、主体的に、自発的に主の前を歩んできたという意味です。かつて主はアブラハムに対して「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と語られましたが、そのときにも使われている「歩め」はヒットパエル態の命令形なのです。さらに言うなら、エノクもノアも「神とともに歩んだ」(創世記5:24,6:9)と記録されていますが、そこでも同様にヒットパエル態で使われています。
- ヒゼキヤは、神に自ら神とともに歩んできたことを訴えたのです。そしてこの祈りは聞かれたのです。主はヒゼキヤをいやすと答えられました。そのことで三日目には主の神殿に入ることができ(ただし「三日目には主の神殿に・・」ということは、列王記にのみ記載されています)、さらには15年の寿命を加えることを約束されました。その目的は、「わたしはアッシリヤの手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべのためにこの町を守る」ためでした(20:6)。
- この主の約束こそ重要なものであり、ヒゼキヤに病いが与えられた理由です。死に至る病はまさに風前の灯を表します。そして、それはすぐにも訪れるエルサレムの包囲の危機的状況とも言えるのです。自分がいやれて15年の寿命が加えられることも、エルサレムを包囲したアッシリアの軍勢に戦うことなく救われるということは、人間的にはとても考えられないことです。しかしその考えられないことが起ころうとしていたのです。ヒゼキヤはこの約束ゆえに、人々に主がエルサレムを守ってくださいと確信をもって説得することができたのです。
最後に
- 詩篇46篇はこの出来事が背景になっていると考えられます。10節だけを見てみたいと思います。
【新改訳改訂第3版】
10節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
【口語訳】
10節「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
【新共同訳】
11節 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
- 「やめよ」「静まって」「力を捨てよ」と訳されているその原語は「ラーファー」(רָפָה)で46回使われています。いろいろな意味に訳せるようですが、詩篇のコンテキストからいうなら、「戦いをやめよ」が原意に近いように思います。ヒゼキヤが主のことばを信頼して一切、戦いをすることなく、沈黙できたのは信仰の力です。まさに、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりである。」ということが歴史の出来事としてあかしされたのです。
2014.9.26
a:5917 t:2 y:3