****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

父から子へ、子からまたその子へ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

9. 父から子へ、子からまたその子へ

【聖書箇所】4章1〜9節

ベレーシート

  • これまでの「わが子よ」(1:8, 10/2:1/3:1, 11, 21)という呼びかけが、4章1節では「子どもらよ」(複数)に変化します。原文では「シムウー・バーニーム」
    (שִׁמְעוּ בָנִים)で、「私の子どもたちよ。あなたがたは聞き従いなさい。」となっています。3節では、父自身が子どもだった時に、どのように父親が自分を教育したかを思い起こして語っているのです。

【新改訳改訂第3版】箴言4章4~9節
4 父は私を教えて言った
「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。
5 知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。
私の口の授けたことばからそれてはならない。
6 知恵を捨てるな。それがあなたを守る。
これを愛せ。これがあなたを保つ。
7 知恵の初めに、知恵を得よ。
あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。
8 それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。
それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。
9 それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、
光栄の冠をあなたに授けよう。」

  • ここでは、自分が父親から受けたことばを語っています。その内容は実に明確です。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」と教えられたことを、そのまま自分の子どもたちに伝えようとしているのです。つまり、そこには「父から子へ、子からまたその子へ」という信仰継承の願いが込められているのです。
  • 「私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき」(3節)とあることから、ここで語る父は一人っ子であったようです。しかし、今やその父には複数の子どもたちが与えられています。数としては神の祝福が増幅していますが、重要なことは、自分の子どもたちが神を恐れるようになることです。そのために、父は責任をもって自分も受けた大切な教訓を子どもたちに授けているのです。

1. 信仰継承の取り組み

  • 私たちの教会と主にある交わりの中から、神の導きにより、3年半前に三組のクリスチャンホームによって「ヒナヤーヴ・ミニストリー」がスタートしました。「ヒナヤーヴ」とは、詩篇127篇3節の「見よ。子どもたちは主の賜物」と訳されたヘブル語の「ヒンネー・ナハラット・アドナイ・バーニーム」のそれぞれの頭文字を取って作った略語です。このミニストリーは、クリスチャンホームが「家族としての召し」が与えられていることを自覚し、主から賜った子どもたちを主のみこころにそって育てる取り組みです。これは、今日の日本のキリスト教会において、重要、かつ緊急の課題と信じます。これまで、クリスチャンホームの子どもたちは、将来クリスチャンとしての信仰を持つまでの予備軍的な位置づけとされ、特別な位置づけが与えられているとは見なされて来なかったように思われます。決して、クリスチャンホームの子どもたちが特別に優秀だというのではありません。ただ家族としての召命において特別な位置にあるということです。伝道至上主義によってその自覚がうながされなかったのだと思います。
  • 箴言には「父から子へ、そして子からまたその子へ」という家庭教育の重要性が繰り返し語られているように思います。教会には母子家庭もあれば、父子家庭もあります。独身者もいれば、子どものいない夫婦もいます。ですから、クリスチャンホームにおける家庭教育の重要性について教会として十分な取り組みができないという牧会的配慮があるかもしれません。しかし今どんな現実があったとしても、この取り組みをないがしろにしてはならないと信じます。そこには多くの神の祝福が約束されているからです。主にある父の役割はきわめて重要なのです。
  • 使徒パウロが不当にもピリピの町で牢獄へ入れられました。ところが真夜中ごろに、突然、大地震が起こり、獄舎のとびらが全部あいて、囚人たちの足をつないでいた鎖も解けてしまうという事態が起こりました。責任をとって自害しようとした看守に「自害してはいけない」とパウロは叫び、その看守に「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と語り、彼の家族の全員に福音を語ったところ、その看守のみならず、その家族もみな救われてバプテスマを受けるということが起こりました。これは一人の看守からはじまったのです。そのスタートを神が起こして下さることを信じながら、すでにクリスチャンホームとなっている家庭は気兼ねすることなく、神から与えられた召しを確信してその継承の責任を果たすべきです。主にあるどんな家庭にも、信仰を継承すべくスタート点があるのです。それは奇しい神の計らいとしか言いようがありません。

2. 健全な意味における父性的家長の復権

  • クリスチャンホームに与えられている家長としての父権は、会社よりも家庭を優先しようとする今日の「マイホーム・パパ」とは全く異なります。箴言に登場する父は、神から与えられた子どもを、健全な父権によって、神を畏れることを子に教えることのできる存在です。
  • 「鶏が先か、卵が先か」といえば、創世記1章を見る限り、神学的には「鶏が先」になるのです。箴言では父から子へ、子からまたその子へという連鎖が見られますが、そのような連鎖をもたらす鍵は、子よりも父にあると言えるのではないかと思います。父権喪失と言われる現代の日本において、家長的存在としての健全な父となるためには、神の計らいによる特別な祝福を経験する必要があると信じます。
  • ヨシュア記24章15節に「私と私の家(家族)とは、主に仕える」というヨシュア自身の告白が記されています。父とその家が一体となって、「主に仕える」という主体的・自覚的な信仰による取り組みが目指されています。この取り組みがいかに大事業であるか、しかもそれがいかに緊急的な課題であるかを、教会は自覚して取り組まなければならないということを、「箴言」は繰り返し訴えているのだと信じます。

2015.11.7


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