****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(1)「渇望」

כ カーフ瞑想(1) 「渇望」

テキスト | 瞑想(2)

  • このブロックでは、81,82節にある「慕って絶え入るばかりです」という言葉を味わいます。この表現は詩篇にしか出てきません。しかもその数は少なく(他に詩84篇2節)、詩篇119篇にまとまってあることが特徴です。(他に123節)。この表現の主語は、「私のたましいは」、「私の目は」とありますから、自分の全存在を通して、神ご自身の約束、救いを切望する霊的渇望を意味しています。「目」は存在全体を表すユダヤ的表現です(マタイ6章22,23節参照) 。
  • 「慕って絶え入る」と訳されたことばはカーラーכָּלָה(kalah)です。旧約では204回使われています。本来の意味は「完成する」、「実現する」、「成し遂げる」、「仕上げる」という目的実現思考の語彙です。と同時に、その完成を待ち望みつつもそれがなかなか実現しないので、たましいが疲れ果てて弱ってしまっているという意味もあります。この二つの意味が重なった「交錯」しているイメージ、それがカーラーכָּלָהで、新改訳では、81節も82節も同じく「慕って絶え入るばかりです」と訳していますが、新共同訳はこの言葉のイメージをうまくとらえて訳しています。81節のカーラーでは「~を求めて絶え入りそうです」と訳し、82節のカーラーכָּלָה(kalah)では「~を待って衰え果てました」と訳しています。
  • それゆえ、作者は、「いつ、あなたは私を慰めてくださるのですか。」(82節)、「あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるでしょうか。」(85節)と神に問いかけています。と同時に、「たとい私は煙の皮袋のようになっても、あなたを忘れません。」(83節)、「あなたの戒めを捨てませんでした。」(87節)と告白しています。ここに神を心を尽くして熱心に尋ね求める者の「待望」とそれを阻む現実の狭間がもたらす「憔悴」のアンビバレントな心情が見られます。
  • 「慕って絶え入る」という心情は、新約時代に生きるキリスト者にとっては、神の国の到来における「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中に生きるのと似ています。神の国の支配はすでにイエス・キリストの十字架と復活によって実現していますが、同時に、キリストの再臨までは、いまだ未完成なのです。完全な完成を待ち望む渇望が強ければ強いほど、憔悴感も強まるのかもしれません。
  • バビロンの捕囚となっていた詩篇119篇の作者は、すでにエレミヤの預言を通して捕囚から解放されることを信じていたに違いありません。そして神の民としての再建の取り組みは私たちの想像をはるかに超えるものでした。それゆえに神の救いを待つ思いは、たましいが衰えるのを禁じ得なかったほどだったのです。しかし作者は、現実の厳しい状況の中でも、神のトーラーを忘れることなく、それに従い、それを昼も夜も口ずさみ、また子どもたちに教え込み、安息日を守りながら、自分たちの「聖なる民」としてのアイデンティティを意欲的に回復していく営みを続けていったと思われます。これは今日のキリスト教会においても、良い教訓となると信じます。
  • 「主を知ることを切に追い求める」というイメージを新約的な表現でいうならば、使徒パウロがキリストを得るために捕えようと追求している姿にたとえられます。使徒パウロにとって、キリストとの出会いは、それまで彼が自分にとって得であったものがすべて損と思うようになるほどの価値転換をもたらしました。しかしパウロにとっては、「すでに得たのでも、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」(ピリピ3章12節)と述べています。「キリストを得る」というこの一時に励むこと、すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前の者に向って進み・・・一心に走っている」このようなパウロの姿も「慕って絶え入るばかり」の心情を人に与えるかもしれません。「慕って絶え入るばかり」・・詩篇の作者と共有したい感情でもあります。

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