****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(1)「走る」

ד ダレト(v.25~32)の瞑想(1)  「走る」

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  • 詩119篇の作者は1、2節で、「幸い」とは「全き道を行く人々」、すなわち「主のみおしえによって歩む人々」。あるいは、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」と結論づけています。「心を尽くして主を尋ね求める」という<求道性>は、第4ブロックでも見出すことができます。それは「選び取り」、「前に置き」(30節)、「走ります」(32節)という動詞で表現されます。
  • 「走る」(「ルーツ」רוּץ)ということばは、詩119篇ではここだけに使われている言葉で、熱心な求道性を表わすことばです。
  • 何を「選び取り」、誰の「前に置き」、何の道を「走る」のか、それは、戒めの道、真実の道、仰せの道です。作者の置かれている現状は「ちりに打ち伏し」(25節)、「悲しみのために涙を流している」(28節)とあるように、失意の中にあったようです。そうした状況の中で作者は「みことばのとおりに私を生かして下さい」(25節)、「みおしえのとおりに、私をあわれんでください」(29節)と訴えています。この訴えの中に、神の民がバビロン捕囚経験を通して、ますます主のことばの約束の真実に心が向けられてきたと信じます。
  • そうした経験をする前までは、神のみことばの真実に心開かれることはなかったに違いありません。こうした主への渇望こそ、神がご自身の民に苦しみを味あわせられた愛の配慮だと信じます。私も同じく、真実の道を「選び取り」、それを「私の前に置き」、「走りたい」と思います。
  • 使徒パウロもその生涯おいて、キリストとその復活の力を知るために、「一心に走った」人でした。ピリピ書3章にはこうあります。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされたいるのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・私は、すでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって、進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのてす。」(3:12~14)
  • また、「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:6~7)とも。使徒パウロのうちに、キリスト者としての真の求道性を教えられます。


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