****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps115/A

Ⅴ/A(107~150篇) | テキストPs115 | 原典テキストPs115 | 瞑想Ps115/B | その他Ps115

瞑想Ps115/A

  • 115篇のみことばを読んでみましょう。 「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」・・・
  • ここには強い否定と、強い限定がみられます。「・・にではなく」(2回)、「ただ・・にのみ」 1節の後半の部分を共同訳では、「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」と訳されています。これは、「主の祈り」の中の「御名があがめられますように」という祈りとつながります。主の祈りの前半の部分は、本来の人間には祈れない内容ばかりです。
  • 「御名があがられますように」、「御国が来ますように」、「みこころが天にあるように、地にもありますように」・・・これらの祈りはいずれも、自己本位な私たちの心からは出てこない祈りと言えます。この祈りを私たちのうちに呼び起こして祈らせるのは、聖霊なる神の働きです。みこころにかなった祈りは必ず聞き届けられるのですから、私たちはいつも自分の肉的な思いではなく、聖霊なる神のうながしに耳を開く必要があります。御名があがめられること、「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」・・これが神の子どもたちが存在する目的なのです。御名が輝くことが私たちひとりひとりに輝きをもたらせるのです。
  • この詩115篇には、まことの神の<全能性>と、偶像の神の<無能性>が対比されています。しかも、偶像を礼拝することの愚かしさが表現されています。そのような偶像を造る者も、それにより頼むものも、これと同じである。」すなわち、むなしい者となります。(8節)
  • 偶像のことを英語でアイドール(Idol )と言います。アイドル。若い人たちは自分のアイドルを求めます。自分のあこがれ、そうなりたいという願望がそうさせるのです。自分もあのようなカ恰好いいものになりたいと、しぐさや語り口などを真似します。いわゆるパフォーマンス指向です。しかし、そうした生き方は悲惨な結果をもたらします。
  • アイドルの行方は決して栄光に輝くものではありません。むしろ悲惨です。あるべき姿をいつも保たなければならず、本来の本当の自分とはかけ離れていきます。そしてそのギャップに悩み始めるのです。ですから、パフォーマンス指向の生き方から私たちは解放されなければなりませんが、そのためには、自分をあるがままに支えてくれる存在が必要なのです。その存在こそ私たちを創造された神です。
  • アイドルを求め、それに信頼して自分のアイデンティティを築こうとするならば、いつかは幻想に終わります。もともと自分がないところから作り出される偶像。それに信頼する者もみなこれと同じ、つまり、無能を生む結果となる。すべての努力が徒労に帰すのです。
  • 自分が人からよく見られようとするあらゆる努力、生き方そのすべてが徒労に終わります。そして自分がわからなくなってしまうのです。私たちが自分らしく生きること、パフォーマンス指向から私たちを守り、盾となってくれる存在、この存在こそ私たちを造られた神です。その方を知ること、そしてその方に信頼すること、その方と共に歩むこと、そうするならば、自分の本当の姿が知られても、恐れずに生きることができるようになります。
  • 「主に信頼せよ」との呼び掛けは、私たちひとりひとりが主にあって輝く者となることです。そのために私たちが努力する必要はありません。本当の自分を神にあって発見することだからです。自分に与えられている神の賜物があることを信じて、それを発見することです。自分のありのままを生きることができること、あるイメージの自分ではなく、ありのままのー醜いところも、欠けた部分もあるー自分を輝かすことのできる神がおられることを信頼することです。
  • 自分を信頼することではなく、自分にかかわってくださる神を信頼し、この方が私を輝かせてくださることを信頼するのです。そこには決して幻想に終わることはありません。確かな希望があります。 「私たちにではなく、主よ。私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」 

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional