****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps40/C

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs40 | 原典テキストPs40 | 瞑想Ps40/A | 瞑想Ps40/B | 礼拝用語Ps40 | 恩寵用語Ps40(1) | 恩寵用語Ps40(2)

瞑想Ps40/C

  • 詩篇40篇はメシア詩篇です。作者(ダビデ)の経験や啓示とメシアの預言がオーバーラップしています。しかしすべての部分がそうでわけではなく(たとえば、12, 14, 15節がそうです)、ある部分がそうなっています。この詩篇では6節~10節がメシア預言の部分です。〔脚注〕
    40:6
    あなたは、いけにえや穀物のささげ物を
    お喜びになりませんでした。
    あなたは私の耳を開いてくださいました。
    あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、
    お求めになりませんでした。
    40:7
    そのとき私は申しました。
    「今、私はここに来ております。
    巻き物の書に私のことが書いてあります。
    40:8
    わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。
    あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
  • この部分は、「メシアの受肉」について言及されています。神ご自身が定められた幕屋礼拝でのいけにえを喜ばれないとあります。「全焼のいけにえ」と「罪のいけにえ」という表現には幕屋礼拝での五つのすべてのいけにえを含んでいることの表現です。そもそも、なにゆえに神はいけにえを喜ばれないのか。それはそうした形式では神を満足させることができない重要な欠落があったからです。その欠落とは、愛による自発性です。
  • 「あなたは私の耳を開いてくださいました。」という表現の中にある「耳を開く」ということばは、「カーラー」כָּרָה(karah)という「掘る、穴をあける、刺し通す」という意味です。出エジプト記21章に6年間、強制的に義務として仕えてきた奴隷が7年目に自由の身となるにもかかわらず、そのあとも、自ら主人のもとで自発的に仕えたいと決心した者は、公に、自分の耳をきりで刺し通さなければなりませんでした。それは奴隷が主人に対する目に見える「愛のしるし」、「従順のしるし」でした。そこから、しもべが「耳を開く」とは、主人にとっては「からだ全体」を受け取ることを意味するようになりました。それゆえ、ヘブル書10:5では「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」として引用されています。それはからだをもって神のみこころを行うためです。
  • これは受肉の秘儀であり、やがてイエスがご自身の肉体をもって完全な罪のいけにえとして、私たちの代わりに神にささげることを指し示しています。罪なき汚れなき完全ないけにえとなるために、御子イエスは肉体を取られたのでした。7節の「そのとき私は申しました。私はここに来ております」とは、御子が御父に語っている場面だと言えます。「私はここに来ている」の「ここに」とは、御子が御父に遣わされて人の姿(肉体)を取られてこの世に来ているという意味です。「巻き物の書に、私のことが書いてある」とは、神のトーラーに、メシアによる贖いのことが記されているということです。御子のこの世での生涯は、御父のみこころを行うことを喜びとして、それを行うことによって御父の栄光を現わすことでした。しかも「あなたのおしえは私のうちにあります」―原文では「わが腸の中に」という意味―とあります。これはやがて啓示される御父と御子のかかわりの有り様の一面がここに示されています。これは、エレミヤが預言した新しい契約―「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」と語った表現にも通ずるものです。
  • 「あなたのおしえは私のうちにあります」という告白は、やがて御子イエスの口を通して、私たちは繰り返し聞くことになります。
    「わたしを遣わした方のみこころをおこない、そのみわざを成し遂げることがわたしの食物です。」(ヨハネ4:34)
    「父は子を愛し、ご自分のなさることをお示しになる。」(5:20)
    「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(6:38)
  • 御父のみことばのうちに、御父のみこころのうちに、御父の愛のうちにとどまられた御子。その御子の御父に対する愛と従順と信頼を通して、御子のうちに御父が現わされます。ここに受肉の秘儀があります。これはとても重要なことであり、やがて私たちが「キリストのうちにとどまりなさい」という招きの原初的モデルとなるのです。

脚注
とは言え、詩篇そのものがキリストを証言するものであり、キリストご自身が祈っていると考えるならば、12, 14, 15節の祈りが人の身代わりとなって贖いをなそうとする御子イエスの言葉とすれば、なんら矛盾しません。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional