礼拝用語Ps8
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詩8篇「なんと」「いかに」 מָה マー
〔カテゴリー: その他〕
1&8節「私たちの主。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
Keyword; 「なんと」(驚きを表わす感嘆詞) how
「なんと力強いことでしょう。」(新改訳、新共同訳)
「いかに尊いことでしょう」(口語訳、関根訳)
「なんと偉大なことか」(岩波訳)
How excellent, how glorious, how majestic,
- 詩篇ではじめて登場する感嘆詞の「なんと」という語は、詩篇の中では神のみわざ、神の属性に対する驚きの反応です。信仰者にとって、このような神への驚きは、その信仰のきずなを深めるうえで重要な要素だと信じます。
- この詩8篇では、二つの<驚き>が記されています。ひとつは、主の力強さが、「幼子や乳飲み子たち」に代表されるこの世で最も弱い存在―これは弟子たちを表わしています。マタイ11章25節参照-によって打ち建てられるという驚きであり、もうひとつは、天体と比較するときわめて小さな存在である人の子に、主が顧みられる、心を留められるということの驚きです。双方とも、常識ではありえないことだからです。
- このような驚きに、私たちひとりひとりが共感できるかどうかが詩篇瞑想の醍醐味の一つです。私たちのすべての営みは、何らかの感動によって動機づけられ、行為を誘発させられます。ですから、神に対する無感動は神への無気力を産みます。神への感動なくして神を深く知っていくことはできません。驚きなくして、何も伝えるものはありません。驚き、感動は「いのち」そのものです。学問の世界においても、事実に対する驚きがあり、疑問が起こって探究がはじまり、真理を発見します。ただ、信仰の世界の驚きが学問の世界の驚きと異なる点は、「上から」、つまり聖霊によって賦与されるものだということです。
- マルタとマリアの二人の違いはここにあります。マルタは主をもてなすために、あれこれと心配して心を騒がせましたが、マリアは主の足下に座り、主の語ることばに耳を傾けました。この姿勢から霊的な「驚き」と「感動」が生まれるものと信じます。
- 詩篇におけるこうした驚きをみることができます。
「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう。」(詩31篇19節)
「神よ。あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。」(詩36篇7節)
「万軍の主よ、あなたのお住まいはなんと慕わしいことでしょう。」(詩84篇1節)
「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人・シオンへの大路のある人は」(詩84篇4,5節)
「あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。」(詩119篇103節)
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。」(詩133篇1節)
他にも、84:5,12/92:5/94:12/104:24/119:138/139:4,17 参照。