****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

礼拝用語Ps84

Ⅲ/A(73~89篇) | テキストPs84 | 原典テキストPs84 | 瞑想Ps84/A | 瞑想Ps84/B | 恩寵用語Ps84

詩84篇「恋い慕う」כָּסַף カーサフ、「絶え入るばかり」כָּלָה カーラー

(カテゴリー: 渇望)   

2節「私のたましいは、主の大庭を恋い慕ってכָּסַף(kasaph)、 絶え入るばかり כָּלָה (kalah)です。」

Keyword;
①「恋い慕う」long for, yearn, hungry, 17:12/84:2(旧約6回、詩篇2回)
②「絶え入るばかり」 long for,

  • 「恋い慕って絶え入るばかりです」という表現は、旧約聖書に4回、しかもそのすべてが詩篇(84:2/119:81, 82, 123)に見られます。非常に特異な表現です。「絶え入るばかり」と訳されたカーラーכָּלָה(kalah)は、「尽き果てる、消え失せる、衰え果てる、滅ぼし尽くす、疲れ果てる、終わる」と訳されています。
    「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。」(119:81)
    「私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。」(119:82)
    「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。」(119:123)
  • 「慕っている」のは「主の大庭」であったり、「あなたの救い」「みことば」「あなたの義」とそれぞれであったりしますが、慕っている主語(主体)は、「私のたましい」「私の目」となっています。特に、「目」は存在全体を表すユダヤ的表現です(マタイの福音書6章22~23節)。つまり、「恋い慕って絶え入るばかりです」とは、自分の全存在を通して、神ご自身との深いかかわりを求めている渇望的表現と言えます。
  • 詩119篇、そしてこの詩84篇も、現実にはシオンから遠く離れているがゆえに、よりいっそう神への憧れ、神への切望、神への思慕がみられます。非常に情感、心情、感情的表現です。この表現に最も近いのは、ダビデが主に求めた「一つのことーOne Thing」ではないかと思います。ダビデは「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見・・・ために。」 と詩27篇4節で告白しています。
  • 使徒パウロも、「キリストを得る」というこの一事に励んでいます。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・私はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものにむかって進み、・・一心に走っているのです。」(ピリピ3章12~14節) 「義―神との生きたかかわりーに飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と主は言われましたが、神のすべての祝福は渇く者にのみ注がれるからです。
       

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional