****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神との愛の交わりを育てる学びの視座

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A-00 学びの視座

マルタ的ライフスタイルからマリヤ的ライフスタイルへ

「アウトプット志向からインプット志向へ」

  • 今日の教会は、神との親しい交わりに重きを置く代わりに、神のための奉仕に強調点が置かれている。十分かつ効果的に神に仕えることがキリスト者生活であると考え、そのための技術や方法が重要な役割を占めている。神を求めるのも効果的に奉仕をするための力を得るためであり、自分が神との正しい生きた関係を持っているかどうかということには、それほど時間を割くことがない。そのために、霊的ないのちの枯渇を招いている。
  • ルカの福音書10章38節から42節には、マルタとマリヤの話が出てくる。マルタはイエスをもてなすために「気が落ち着か」なかった。そしてイエスの御前でじっとみことばを聴き入っている妹マリヤに対して腹を立てた。それに対してイエスは言った。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
  • ユダヤ的な表現はきわめてはっきりとしている。例えば、「わたしはヤコブを愛した。エサウを憎み、」(マラキ1章2, 3節)とか、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません。」(マタイ6章24節)とあるように、中庸的な態度を容認する表現はない。とするならば、マリヤが「良いものを選んだ」とするなら、マルタは「悪いものを選んだことになる」。ここでは、優先順序が問われている。もしこの話をマルタの奉仕もマリヤも重要だと解釈するなら、ここでのメッセージは骨抜きになってしまうのである。
  • この話の前後のコンテキストを考えてみよう。ある律法学者は律法をどう読んでいるかをイエスから詰問された。律法学者は正しい答えをしたが、それを生きていることはなかった。いのちがなかったのである。サマリヤ人のたとえのサマリヤ人は実はイエスの生き方を表わしている。その生き方ができるのは、イエスがいつもマリヤのように御父の御前で祈りのときを過ごしておられたからである。事実、11章では、イエスがあるところで祈っておられたというところから始まる。弟子たちはイエスの力の源泉が祈りにあると悟るようになっていた。そこで、弟子たちはイエスに「主よ。・・私たちにも祈りを教えてください」と願ったのである。そこで教えられたのが、主の祈りと言われるものである。この祈りはだれでも祈ることのできない祈りなのである。
  • マリヤが選んだ「良いほう」を私たちが選ぶことは、現代の忙しい生活を考えるならば、決して容易ではない。むしろ時代に逆行するライフスタイルと言える。しかし、この「良いほう」を選び取らせるような「祈りへの渇き」―霊性に対する渇きーが、現代の教会に訪れようとしている。しかし、私たちはこのことのために、十分な訓練を受けることなく過ごしてきているのではないか。力の源泉である神ご自身を知ることにおいて、なんと貧しい者であることかを認めることからはじめよう。
  • 今日の教会はラオデキヤの教会のようである。生ぬるく、神を求めることにおいて、熱くも冷たくもない。そして「自分は富んでいる、豊かになった。乏しいものはなにもない」と錯覚している。実際の姿は、みじめで、あわれで、貧しく、盲目であり、裸であるにもかかわらず、そのことを知らない。まさに、神を知らないことは、本当の自分を知らないことを裏付けている。今日においても、イエスは私たちの心の戸をたたき、共に、主の食卓につくようにと招いておられるのである(黙示録3章14~22節)。


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