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神の国の食卓にあずかることについて

46. 神の国の食卓にあずかることについて

【聖書箇所】 14章1節~24節

はじめに

  • この箇所には4つの話が語られていますが、その4つをつないでいるキーワードは「食事」、あるいは「食卓」、ないしは「神の国の食卓」と言えます。シチュエーションとしては、安息日の食事の席であったり、婚礼の披露宴であったり、祝宴の食卓のもてなしであったり、盛大な宴会であったりとそれぞれ異なりますが共通していることは「食事」です。ルカの福音書においては「食事」が救済的意味を伴う神と人との交わりの完成を示唆しています。
  • ルカ独自の記事としては7:36~50、14:1~24、15:1~2があります。そこでは食事がいやしや罪の赦しと結び合わされています。また同時に、イエスによる救いの招きを拒否する敵対者の存在をもその食事の席で浮かび上がらせています。
  • 構成としては、食卓に招かれた場所でのいやしが安息日の問題に触れることを契機として、そこから食卓に招かれた者と招く者とに対する教え、そしてより大きな問題となる「神の食卓」、つまり「招待されていた者たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいない」という深刻な問題へと展開しています。

1. 契機となった出来事

  • 最初の話は、イエスが安息日に食事するためにある人の家に行ったことでした。イエスの真正面には「水腫」を患っている人がいました。「水腫」と言われる病気は当時性的な罪を犯した者とみなされていました。ですから、当然、食事の席にいることはできないとされていたのですが、パリサイ派の指導者の家に招かれていた他の者たちはイエスを「じっと見つめていた」とあります(14:1)。これは彼らが水腫の者のことでイエスがどうするか、悪意をもって様子や機会を伺っていた、じっと目を光らせ続けていたという意味です。イエスはこのような視線を浴びながら、「安息日に病気を直すことは正しいことかどうか」と問いかけ、さらに彼をいやしたあとで「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と律法の専門家、パリサイ人たちに問いかけました。しかし彼らは答えることができずに黙っていました。イエスの態度や主張は常に一貫しています。それは「規則(法)」よりも「いのち」の優先です。
  • ここで大切なことは、イエスが水腫の人を抱いて直してやり、そして彼をお帰しになったことです(4節)。「それから」、イエスは食事をするために集まっていた人々に安息日問題に切り込んでいるという点です。いやした人を「帰した」のはイエスが彼を守るためであったと思われます。
  • ルカの福音書ではこれまでも「安息日」に行われたいやしや奇蹟が記されています。

    (1) 4:31~35 「悪霊につかれた人の解放」
    (2) 4:38~39 「高熱で苦しむシモン・ペテロの姑の解放」
    (3) 6:6~10 「右手のなえた人のいやし」
    (4) 13:10~16「18年間、腰の曲がっている人のいやし」
    (5) 14:1~6「水腫の人のいやし」

  • 今回の聖書は安息日問題の最後の箇所ということになります。安息日はユダヤ人にとってきわめて重要な事柄です。しかしその理解がいつの間にかねじれ現象を起こし、神が安息日を制定した本来の意図からかけ離れている現実がありました。イエス・キリストが安息日に人々をいやしたり奇蹟を行ったりしたことで、神が「安息日」制定した真意がなんであったのかを逆に問いかけるかたちとなっています。人も家畜も奴隷もみな神にあって解放され、神にあるいのちを回復する日、それが安息日制定の目的でした。安息日の食事の場でのいやしの行為は、神の国の食卓における恵みのしるしだということです。

2. 婚礼の披露宴に招かれた者に対する教え(14:7~11)

  • 「婚礼の披露宴」は「食事」「食卓」と同様、「神の国の食卓」を表わす表現です。婚礼に招かれた者は「自分を低くするように」という教えです。「自分を」という部分はヘブル語訳ではそれに当たることばはありません。その代わりに「力、強くなること」を意味する「アツモー」עַצְמוֹという語が当てられています。直訳的には「力や強さ」を高くするという意味合いなのでしょうか。そのような者はやがて低くされる(未来受3単)、逆に、力や強さを低くするものはやがて高い所に上げられる(未来受3単)とイエスは語っています。神の国の食卓の原理はこの世の食卓のしきたりとは異なり、あくまでも恵みによる招待であることを11節の格言的表現で教えています。

3. 食卓に人を招く者への教え(14:12~13)

  • 次のシチュエーションは普通の祝宴の食事のもてなしです。ここでイエスは自分と親しい者たち(友人、兄弟、親族、近所の金持ち)などを招かず、お返しのできない者たちを招くように教えています。ユダヤ人は余程、親しい者か気心が知れている者でなければ容易に人と食事をしないそうです。ですからこのイエスの教えは彼らの感覚では全くの想定外の教えでした。

4. 神の国での食卓を辞退してしまった者たち

  • そこに「神の国で食事する人は、なんと幸いなことでしょう。」と横槍が入ります。ここでこの世の食卓が「神の国で」というシチュエーションに方向づけられています。ところが、次のたとえでは、そこに招待されていた人の中で、「私の食事を味わう者はひとりもいないのです」ときわめてショッキングな結論で終わっているのです。神の国での食事は、「私の食事で」と置き換えられています。イエスとかかわることが、すなわち神の国で食事をすることと同義であることが示唆されています。
  • 招待されていた人の中で「私の食事を味わう者はひとりもいないのは、彼らが招待を辞退してしまったからです。盛大な宴会に招待されていた者たちが、いざ準備が整った段階で断り始めたのです。これは招待する者に対する大変な侮辱でした。ですから主催者の主人は腹を立て(怒り)ました。そしてしもべに招いていなかった者たちを連れてくるように言います。これは選民のユダヤ人たちが神の招きを断ったことで、異邦人が招かれるようになったいきさつを教えていると思われます。このたとえの通りに歴史は展開していきます。

むすび

  • ある者が「神の国で食事する人はなんと幸いなことでしょう」と叫んだように、まさにそうなのです。それはまことに本来、食事に招く者の一方的な恵みによるものです。ところが、その招きを受けたにもかかわらず、いろいろな口実をつけて辞退する者たちがいました。三人の者が辞退していますが、前の二人は「すみません」とあるのに対して、三人目はそうした良心の呵責も無く、「結婚しましたので、行くことができません」と理由にもならないことを口実に断っています。そうした者たちに対して、イエスははっきりと「私の食事を味わう者はひとりもいない」という厳しい宣告を与えています。

2012.3.29


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