****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の安息に導くイエス

第8日 「神の安息に導くイエス」 

信仰の安息を得るために努力しよう

はじめに

  • 良い眠りが与えられるということは神の祝福です。私たちの心に心配ごとがあったり、かき乱されるような出来事に遭遇したりするとなかなか眠れないということがおこります。これから自分の人生はどうなっていくのかと思うと心配で眠れないという日々が起こるのです。もし、どんなことが起こっても私たちの主イエスにすべてをおゆだねして安心して眠ることができるとすれば、そのような人は「幸いです」。「アシュレーナ、うらやましい」人です。詩篇3篇と4篇は、実にそんな人がいることを私たちに教えてくれます。
  • 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目を覚ます。主がささえてくださるから。」(3篇5節)
  • 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかにすまわせてくださいます。」(4篇8節)
  • この2篇とも「ダビデの賛歌」というタイトルがついてダビデが経験したことをもとにつくられた詩篇と言われていますが、ここにみる安眠の祝福は、平穏無事の状況で歌われたものではありません。特に、3篇は自分の息子(しかも一番有能な息子)アブシャロムが起こしたクーデターによって都落ちしたときの歌です。普通であればとても眠れるような状況ではありません。ところが、なんと「私は身を横たえて、眠る。私はまた目を覚ます。主がささえてくださるから。」と告白しているのです。ダビデの生涯の晩年の姿―それはひとえに神にゆだねてきた生涯の結実をここにみることができるような思いがします。このダビデの安眠、安息は、自分の力でそれを得ることをせず、神によって与えられることを学んできた結果なのです。
  • 最近は寝心地の良い布団が売られています。確かに、平均的には人生の1/4は寝ているわけですから、快適な布団で寝ることができればそれにこしたことはありませんが、どんな快適な布団で寝たとしても、心に平安がなければ安眠はできません。
  • 今朝のテーマは「神の安息」です。「主よ。あなただけが、私を安らかにすまわせてくださいます。」とあるように、安眠だけでなく、その人生のすべての営みにおいて、「安らかに住まう」-これが神の安息です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」という有名な詩篇23篇の「憩いの水のほとり」の「憩い」(メヌーハー)-これが安息ですが、その水のほとりに主が伴われます。つまり、主が私をそこへー(憩い、安息へ)―伴われるのです。主との深い親密な交わり、かかわりが、私たちに安息をもたらします。ダビデはその祝福を実際に経験した一人でした。
  • イエス様も嵐の中で、翻弄され、今にも沈みかねない船の中で、泰然と寝ておられたという記事が福音書にあります。みなさんはこうした祝福を手にしたいと思いませんか。私たちの人生はいつなにが起こるかわかりません。一艘の舟が荒波に翻弄される事態がいつ起こるとも限りません。そうした現実がこの世です。にもかかわらず、主がささえてくださるという信仰によって安心して眠ることができるのです。私たちを守られる方は、まどろむこともなく、眠ることもない方です。ですから、私たちは泰然と安心して眠ることができるのです。そのような意味で、「安眠は信仰のバロメーター」ということができます。

1. 神の安息に入るために、恐れる心を持とう

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙4章1節

こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

  • 神は六日かけて天地万物を創造された後の「七日目」に休まれました。その「休まれた」という動詞は「シャーヴァット」(שָׁבַת)で「休む、終止符を打つ、終わりを告げる」といった意味です。その名詞が「シャバーット」(שַׁבָּת)、つまり、「安息日」という言葉です。神の安息とは、人が自分の肉の努力をすべてストップさせ、ひたすら神に信頼することです。罪とは、神から独立して、自分の善悪の知識に頼っていることを意味しますが、信仰による神の安息は、神が備えて下さった御子に信頼することを意味するのです。そのためには、「恐れる心」を持つことが不可欠です。
  • 「恐れる心」とは、びくびくと怖がることではありません。恐怖の感情ではなく、神への静かな畏敬、深い尊敬と信頼、そして愛に根差した敬虔さです。人目を恐れたり、不幸や災いを恐れたりすることはあっても、神への健全な恐れに乏しいならば、真理は根づくことがなく、良い実を結ぶことはありません。逆に、神への健全な恐れは、罪に背を向け、神に立ち帰らせ、そこにとどまって神のみこころを行うことを喜びとします。そして、人の生活に多くの良い実をもたらします。それゆえ、神の安息に入るために、神への正しい恐れの心を持ちたいものです。

2. 安息にあずかるための努力

  • そこでへブル書からのメッセージです。第一は、神の与えたもう安息に入るよう力を尽くして努力せよ、ということです。
  • ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(へブル書4章11節)
  • 「力を尽くして努め」と訳されている箇所を他の聖書で見てみると、以下の通りです。
    口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳 「努力しようではないか」
    柳生訳「できるかぎりの努力をしよう」
    尾山訳「全力を尽くそう」
    LB訳 「最善を尽くしましょう」
    詳訳 「熱心に努めよう、全力を尽くそう、勤勉に励もう」
  • 私たちはできるだけ「頑張ります」という言葉を用いないように心懸けています。あるいは政治家の常套句「全力でもって取り組みます。」ということばも使いません。なぜなら、この世はどの領域においても「がんばります」一辺倒だからです。自分の力を信じて頑張る、努力するという世界です。自分の力で事を成し遂げようとします。それに対して私たちクリスチャンは、すべて神の助けによって事をなすように教えられています。ですから、「努力」とか「勤勉」といった言葉を教会ではできるだけ避けています。しかし、それはあくまでも誤解を避けるためです。ところが、ここでは、はっきりと「努力しましょう。力を尽くして努めましょう。全力を尽くそう。熱心に、勤勉に」という言葉が使われているのです。
  • σπουδαζω〔スプーダゾー〕 急ぐ、熱心に努める 努力する、全心を打ち込む、努め励む・・ Gal.2:10, Eph. 4:3, ⅠThess. 2:17, ⅡTim. 2:15, Heb 4:11, ⅡPet. 1:10, 15, 3:14-
    名詞-熱心、勤勉、真剣・・Rom. 12:8「指導する者は熱心に指導し」、12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」
  • ヘブル4章11節では、私たちが熱心に努力する理由を二つ挙げています。

    ① 神が与えて下さる「安息に入るため」、神の安息を自ら経験するため。
    ② あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにするため。

  • 「安息に入る、安息にあずかるための努力」ということがここで言われています。「ありのままでよい」と言われたのに、「頑張らなくてもよい」と言われているのに、なぜここに及んで「努力しよう」と言うのか、と思われる方もいるかもしれません。「ありのままでよい」とか、「頑張らなくてもよい」というその意味は、神とのかかわりをもつために、神との交わりをもつことにおいて、頑張らなくてもよい、ありのままでよいと言っているのです。神との交わりをもつために神がすべての手続きをしてくださったので、安心して神を信じ、神との交わりをもつことができのです。神を父と呼んで親しくすることができるからなのです。「安息」「安心」という祝福も、私たちが頑張って得る必要はありません。神がそれを私たちに与えようとしているのですから、それをただ受け取ればよいのです。
  • 神を知らない人は自分の力で安心を得ようとします。ある意味でそれがすべてといっても過言ではありません。すべての頑張りは自分の力で安心を得るためです。しかし自分の力でそれを得ようとするとき、果たして自分の力でできるかどうか心配になり、不安になり、あるいはどんなに自分が頑張ってみても、環境がそうさせないのではと心配になってくるのです。-昨年、アメリカから始まった経済恐慌もいまや世界中にその影響を与えています。この世の繁栄はなんともろいものか、虚しいものかと思わせられます。
  • サタンがイエスにこの世の栄華を見せて、自分を拝むならばこの世の栄華を与えようと言います。サタンの本性は「偽りの父」です。ですから、彼が提供するこの栄華、繁栄も虚構なのです。しかしなんと多くの人々が騙されてこの世の栄華、繁栄を夢見るのでしょうか。その結果、いつの時代でも虚しい結果となっています。ゆるぎない繁栄を誇った国はないのです。にもかかわらず、いつの時代でも人々はサタンのうそに騙されて、この世の繁栄と安息を求めて、自らのたましいを売ってしまうのです。そんなサタンの誘惑に対して、イエスははっきりと拒絶されました。「引き下がれ、サタン! 」と。
  • サタンは私たちにこの世の栄華を夢見させて、私たちをして自分の力を信じさせて努力させます。努力しなければ何も得られないとサタンに信じ込まされているからです。しかし、その結果はどうでしょう。努力の結果、成功を手にするかもしれません。しかし、それは束の間です。努力の末、「疲れ」と「虚無」、「何のために頑張ってきたのかという目的喪失の空しさ」を味わうことがこの世の常です。
  • 教会が「がんばらなくていい」「ありのままでよい」というメッセージをするのは、この世の栄華の幻想を見せられ、それに流され、翻弄され、疲れ切っている人々に向かって語つているのです。それは同時に、神に方向を向けさせるためのものであり、神が私たちに必要な安息を保障し与えて下さることを教えるものです。決して怠惰な生き方を教えるものではありません。
  • 使徒パウロはとても情熱的な人でした。人間的に言うならば、頑張る人でした。キリストに出会うまでは彼は自分の栄光のために頑張って生きた人です。しかしキリスト出会ってからはキリストとともに、キリストにあって、キリストのうちに生きることを決心し、神の絶大な祝福を経験した人でした。私たちはキリストとのかかわりにおいて、決していい加減であってはいけません。天の父はキリストを通して私たちに安息を与えようとしているからです。
  • 私たちが努力しなければならないのは、全力を尽くさなければならないのは、キリストとのかかわりを大切にし、キリストに生かされ、キリストにあるいのちを豊かにしていく、この一点だけなのです。

3. 私たちの心を判別し、整える神のことばを正しく理解する努力

  • 私たちクリスチャンが、かつてのイスラエルの民のように、不従順の例にならって落後する者が起こらないようにするためには、自分を知ることです。自分の心を知り、判別し、整えていくことが大切です。そのための大切なツール(道具)、すなわち、神のことばが私たちに与えられています。この「神のことば」とは、聖書のことです。ただ、この手紙が書かれた時点では、旧約聖書のことを意味しています。以下、ヘブル書4章12, 13節。

    12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
    13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

  • 人の体に関節と骨髄があるように、人には魂と霊があり、また心にはいろいろな考えやはかりごとがあります。 しかし、どこまでが関節でどこからが骨髄なのでしょうか。どこまでが魂でどこから霊なのでしょうか。また心にいろいろな考えやはかりごとがありますが、果たしてそれらは人から出たものなのか、それとも神から出たものなのか、あるいは悪魔サタンから出たものなのか、人間の判断では、その分かれ目がよくわかりません。神から出ている善意や愛のように見えても、人間の魂即ち肉の自我や考えや計画から出ていることがあります。
  • 神のことばは、両刃の剣よりも鋭いですから、そのような私たちの心を刺し通しては、複雑に入り組んだ領域をも徹底的に明らかにする力があるのです。魂と霊の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。それゆえ、私たちは神のことばをいつも読み、学びながら、自分の心を神のみこころに軌道修正していくことが必要なのです。ここに 神が与えて下さる「安息」にあずかめための努力がいるのです。
  • キリストに出会ってから生涯聖書を読み続けたクリスチャン作家の三浦綾子さんのことを紹介しましょう。彼女は、「聖書に見る人間の罪―暗黒に光を求めて」という本の「まえがき」で次のように書いておられます。その箇所を引用したいと思います。

    ―1948年(昭和23年)の秋、私は旭川の結核療養所でHという学生と知り合った。彼も療養者として入院してきたのである。彼は短歌を詠み、詩を作り、小説を読んだ。つまり文学青年であった。つぶらな目が、ともすると人なつっこく笑いかけてくる。快活な青年という印象だった。ある日私は、彼の病室にはいって、その床頭台に並べられた幾冊かの本を見た。三木清(哲学者)の著書があった。その隣に、白いガーゼに包まれた分厚い本があった。ガーゼは純白だった。

    「それ何の本?」訝しげに問う私に、彼はちょっとはにかんで、「聖書です」と言った。その途端、私は戦慄にも似たものを感じた。単なる文学青年と思っていた彼を見直す思いであった。白いガーゼに包まれていた聖書は、他の本と全く違うことを示していた。彼は三木清に傾倒していたが、その「人生論ノート」は、ガーゼには包まれていなかった。彼の胸の中に占める聖書の位置を私は知った。彼はキリスト者ではなかったが、聖書を聖なる書物として、敬虔に扱っていた。その一事に私は脱帽した。

    人間にはそういうものがあっていい。尊ぶべきものがあっていい。当時、私は懐疑的で虚無的な生活をしていた。何ものも信ぜず、何ものをも拒否する姿勢で生きていた。敗戦後3年、いまだに私はその衝撃から立ち直れずに生きていた。そんな私ではあったが、彼の聖書を包んだ白さに心を打たれたのであった。

    その翌年から、私は聖書を読むようになった。そして三年後に洗礼を受けた。以来、聖書を読まぬ日はほとんどない。・・聖書はつまるところ、イエス・キリストをあかししている本であるが、旧約聖書には、特に、人間の罪がえぐりだされている。・・これらのすべては、神の前に告発されたものとして私たちは読まなければならない。それら人間の罪を、自分のこととして読んでいかなければならない。そう思ったのは、洗礼を受けてからであったように思う。



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